古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

「此後遂絶」(続き)

2014年11月01日 | 古代史

 前の記事では『隋書』のうち特に「夷蛮伝」を含む「列伝」の成立が「貞観十年付近」であり、この時点まで「遂絶」と書かれた国については国交回復がなされていなかったという可能性を考えました。その可能性を強く示唆するものが「中国側史料」において「高表仁」の「来倭」の年次に複数の説があることです。
 「高表仁」の派遣時期については『旧唐書』では「貞観五年」(六三一年)となっているのに対して、『唐会要』では「貞観十五年」(六四一)であり、『冊府元亀』だと「貞観十一年」(六三七年)となっているなど史書によりバラつきがあります。また記事内容についても「高表仁」と「禮」を争った相手が『旧唐書』だけが倭国「王」ではなく、「王子」となっているなど明らかに違いが見受けられます。

「貞觀五年(六三一年)、遣使獻方物。大宗矜其道遠、勅所司無令歳貢、又遺新州刺史高表仁持節往撫之。表仁無綏遠之才、與王子爭禮、不宣朝命而還。至二十二年(六四八年)又附新羅奉表、以通往起居。」(『旧唐書』「東夷伝」)

「貞觀十五年(六四一年)十一月。使至。太宗矜其路遠、遣高表仁持節撫之。表仁浮海、數月方至。自云路經地獄之門。親見其上氣色蓊鬱。又聞呼叫鎚鍛之聲。甚可畏懼也。表仁無綏遠之才。與王爭禮。不宣朝命而還。由是復絶。」(『唐會要』巻九十九 倭國)

「唐高表仁、太宗時為新州刺史。貞觀十一年(六三七年)十一月、倭國使至、太宗矜其路遠、遣表仁持節撫之。浮海數月方至。表仁無綏遠之才、與其王爭禮、不宣朝命而還、由是復絶。」(『冊府元亀』六六四 奉仕部(十三)失指 高表仁)
  
 『隋書』の記事内容とその編纂に関わる年次の推定から「貞観十年付近」までは国交回復がされていなかったとみたのですから、少なくとも『旧唐書』の示す日付が正しいという可能性はかなり低くなるでしょう。
 これについては『唐会要』でも『冊府元亀』でも末尾に「由是復絶」と書かれており、これは絶えていたものが一度復活したものの「これ」つまり「高表仁」の起こした事件によって再び絶えたという意味に受け取ることができます。このことから「高表仁」来倭の契機となったこの前年の「倭国」からの「遣唐使」は「国交回復」のための使者であったことが知られ、このことからも「使者」の派遣は「貞観十年」付近よりも後であろうと考えられることとなります。
 
 ところで『書紀』には「高表仁」の来倭記事の前年のこととして「百済」の「義慈王」から子供の「扶余豊」(豊章)という人物の「来倭」(実質的には人質)記事が置かれています。つまり「高表仁」の「来倭」記事と「扶余豊」の「人質」記事は年次として連続しているわけであり、一連のものとして考えるのが正しいと思われますが、それは「扶余豊」の「人質」の年次としても「貞観十年」を下る時期が想定できることを示しています。
 つまり『隋書』の記事の考察からは「扶余豊」の来倭は『書紀』に書かれたような「六三一年」ではなく「11年」程度下った「六四二年」付近であるという可能性が高いと思われることとなります。
 それは同じ「六四二年」のこととして「百済」の「義慈王」と「高句麗」の「淵蓋蘇文」との間に「麗済同盟」が締結されていることからも窺えます。このような軍事的な行動の裏には「倭国」との関係をある程度良好なものにしたという背景があったと考えられ、それはほぼ同時期に「義慈王」の「王子」を「倭国」に質に入れていたとすると良く理解できるものであり、「扶余豊」の「来倭」が「六四二年付近」と推察した場合に合理的な理解が得られることとなるものです。

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