古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

「庚午年籍」と「国印」

2024年01月02日 | 古代史
当ブログをご覧の皆様
遅くなりましたが、明けましておめでとうございます。
本年が皆様にとって良き年になりますよう祈念いたします。

このブログも開設して10年を半年ほど経過しました。これからも折々記事を投稿していこうと思います。
ということで以下が本年第一号投稿となります。
といっても単に思い付きの域を出ないものですが…。

『続日本紀』に「筑紫諸国の庚午年籍」に「官印を押した」という記事が出てくるのは知られていますが、この「庚午年籍」は元々どこにあったものなのでしょうか。当方は以前からこれが「大宰府」にあったはずのものでそれがいずこかに持ち出されていたものを新日本王権が探索し、それが入手された時点がこの「七二七年」であったと考えていますが(今でもそうは思いますが)、この「庚午年籍」にはもとも何が押されていたのでしょうか。通常、戸籍には国印が押されていますから、この「筑紫諸国の庚午年籍」には旧倭国王権時代の各地の国印は押されていたと考えていましたが、この記事によれば「国印」ではなく「官印」を押したとありますから、別に新日本国王権の官庁の印を新たに押したということと考えられます。
その意味では「庚午年籍」作成当時「諸国印」が存在していたかが問題となるでしょう。というのも通説では「国印」は「大宝」以降のものとされているからです。
 評木簡データベースを渉猟すると年次と国と評がそろって記載されるもののうち最も古いものは以下のものです。

乙丑年(665)十二月三野国ム下評大山 五十戸 造ム下部知ツ従人田部児安 032 荷札集成-102(飛20-29 石神遺跡

これによれば「庚午」の年(六七〇年)以前に「国」―「評」という階層制度が構築されているようです。(ただし、これは「三野国」に限られており、それ以外ではかなり後出するのが現状ではありますが。)この時点付近で「令制国」としての(「評」を複数内在する)「国」が成立したとすると、その時点で「国印」が鋳造されたとみることも可能ではあります。
ただしこの時点では「国名」は「二字」ではなく「三字」あるいは「四字」のものもありました。例えば「上毛野」「下毛野」「遠水海」「吉備道中」「波伯吉」「无耶志」などです。
これらについては後に二字に国名が統一(変更)されるまで継続したものとみられ、当時「国印」が作られていたとするとこの通りの国名で造られたものとみるべきですが、実際には「印」のサイズは規格化されていたと思われ、鋳造する際の「型」が決まっていたとすると、各国名で「字数」が異なるとすると技術的に対応が困難ではなかったかと思われるのです。(それもあって「新日本王権」は「国名」を二文字に統一する策を用いたとも思われます)
このことは「各国府」に保管されていた「庚午年籍」に、本当に「国印」が押されていたかということが疑われることとなります。「養老令」(大宝令)では「公文」には「印」を押すとされており、「戸籍」についても「西海道戸籍」では「印」が前面に押されているのがわかります。しかし「庚午年籍」当時にそのような規定があったかは不明であり、それは「公文」に「年号」を記すようにという規定が「大宝令」以前はなかったという、以前行った推定とやや重なるといえます。
最初に戻って、「筑紫諸国」の「庚午年籍」に「官印」を押したという記事の背景として、そもそも「国印」が押されておらず、また改めて「国印」を押す「道理」がなかったということを示しているのではないでしょうか。これに「国印」を押してしまうと「庚午年籍」作成当時に「国印」があったことになってしまい、大切な「庚午年籍」を「改変」してしまうという恐れがあったなどの理由により「妥協案」的に「官印」(これは「太政官印」でしょうか)を押したと理解すべきではないかと考えていますが、さてどうでしょう。

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