古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

「大華厳寺」という寺名について

2017年11月25日 | 古代史

 肥沼氏のサイトで東大寺に元々「大華厳寺」という扁額がかけられていたという記事がありました。林修先生ではないが「初耳」であり、なるほどと思った次第です。そのようなことの経緯として以下のことを考えてみましたので記します。(試案です)

 この「大華厳寺」という寺名は明らかに「華厳経」という経典に深く関係していると思われるわけですが、『続日本紀』など渉猟しても「聖武」が「華厳経」について詔を出したという記事は皆無です。「金光明経」や「法華経」「大般若経」などについては転読や写経の指示が出ていますが、「華厳経」については見られません。このことは中心経典に変転があったことを示しますが、そもそも「大仏」は「毘盧遮那仏」であるとされ、この仏は「華厳経」にゆかりの深いものであり、その意味では「大華厳寺」という寺名に矛盾はありません。また「大仏開眼」の際に「導師」として「聖武」以下を引き連れて「目」を入れたのは「婆羅門僧正」と称されるインド僧「菩提僊那」でしたが、彼は「華厳経」を常に読経していたとされるなど「華厳経」に関係の高い人物でした。彼の存在と「大華厳寺」という寺名は直接つながっているとさえいえるでしょう
 この人物は「遣唐使」であった「多治比広成」「学問僧理鏡」「中臣名代」らの要請により「天平六年」(七三六年)に「唐」より来日したものであり、彼が来日した際には「行基」が出迎えをするにど「聖武」の朝廷から歓迎を受けまた支持されていたと思われるわけです。その理由としてはやや不明な点はありますが、後日「東大寺」を建立するために、「行基」と「橘諸兄」が「伊勢神宮」に遣わされ、「舎利」を献上することで「伊勢神宮」の領地(飯高郡)から寄進を受けることとなったという経緯があったという「伝承」と関連しているようです。なぜならその「舎利」は「菩提遷那」が「天竺」から持ち来たったものと言うことが言われているからです。そして、その「舎利」について「伊勢神宮」ではこれを「(如意)寶珠」であるとして歓迎したとされます。 

「実相真如之日輪、明生死長夜之闇/本有常住之月輪、掃無明煩悩之雲/我遇難遇之大願、於闇夜如得之燈/亦受難受之宝珠、於渡海如請之《請之》船/造聖武大仏殿故、慶豊受大神宮事/善哉善哉■■■、神妙神妙自珍者/《五》先垂跡地神霊、富相応所安一志/飯高施福衆生故、…」(「行基菩薩秘文」による)

 これによると「日輪」(これは天照大神)すなわち「大日如来」の本地は「廬舎那仏」であるとして、「大仏」を作りそれを収容する寺院を造ることを「善いこと」であるとしています。これについては一般には「平家」によって「東大寺」が焼亡した際に再建のため「伊勢神宮」に「重源上人」が「後白河法皇」から遣わされた時点で作られた話と解釈されています。しかし、そもそもこの「伊勢」参詣が「天平の創建時に伊勢に祈願したという先例」に基づくものであったとされており、そのような事実がないにも関わらず「先例」に基づくとしても説得力がないのは確かですから、話の内容から考えて実話であったという可能性が高いと思われます。飯高郡の豪族らしい人物が以下のように「位」を授けられているのはその現れと思われます。

「天平十年(七三八年)九月丙申朔甲寅。伊勢國飯高郡人无位伊勢直族大江授外從五位下。」
「天平十四年(七四二年)夏四月甲申。伊勢國飯高郡采女正八位下飯高君笠目之親族縣造等。皆賜飯高君姓。…」

 ここでは「无位」からいきなり「外」ではあるものの「従五位下」とされており、これは破格の出世といっていいでしょう。これは「和銅」改元の際に「熟銅」が産出したということに貢献したことで「无位金上元」が同様に「従五位下」を授けられた例と酷似しています。

「(七〇八年)和銅元年春正月乙巳。武藏國秩父郡獻和銅。…是日。授四品志貴親王三品。從二位石上朝臣麻呂。從二位藤原朝臣不比等並正二位。正四位上高向朝臣麻呂從三位。正六位上阿閇朝臣大神。正六位下川邊朝臣母知。笠朝臣吉麻呂。小野朝臣馬養。從六位上上毛野朝臣廣人。多治比眞人廣成。從六位下大伴宿祢宿奈麻呂。正六位上阿刀宿祢智徳。高庄子。買文會。從六位下日下部宿祢老。津嶋朝臣堅石。无位金上元並從五位下。」

 このように希少な資源が見つかった場合には特にその発見者、発掘者などに対して破格の待遇を与えることが行われていたとみられるわけです。
 また「伊勢神宮」への参詣については多くの史料が「行基」と共に「橘諸兄」についても記していますが、『続日本紀』には確かに「伊勢神宮」へ使者として「橘諸兄等」が派遣された記事があります。

「天平十年(七三八年)五月辛夘。使右大臣正三位橘宿祢諸兄。神祇伯從四位下中臣朝臣名代。右少弁從五位下紀朝臣宇美。陰陽頭外從五位下高麥太。齎神寳奉于伊勢大神宮。」
 
 この派遣の後に飯高郡の「无位伊勢直族大江」に対しての「外從五位下」を授けるという褒賞が行われているわけであり、これは「飯高郡」からの調庸の施入に対するものではなかったかと考えられ、この地から産出していたという銀あるいは水銀という特殊な金属材料が目的であったものでしょう。
 この時と前後して(時期は史料により異なる)「行基」も派遣されたとする伝承があります。たとえば『日本帝皇年代記』によれば「行基」は「天平十三年」に「伊勢神宮」に「仏舎利」を献上するため派遣されています。

「辛巳(天平)十三 勅行基法師、授仏舎利一粒、献伊勢太神宮、有種々神託…」

 この時の「仏舎利」が「菩提遷那」の提供したものであるということが言われているわけであり、そのことは「廬舎那佛」の造仏に際して「菩提遷那」の深く関わっていることと、それにさらに「伊勢神宮」とが関連していることを示すものです。

 しかし「金光明四天王護国之寺」という「扁額」がかけられ詔でもそのことが言われるようになったということは「菩提僊那」が東大寺の創建と関係があるということが『続日本紀』という「正史」から「消されている」こととなります。これに関しては以下のことが推測できるのではないでしょうか。それは「菩提僊那」とともに渡ってきた僧として「仏哲」という人物がいるとされる点です。彼は「大仏開眼」の際に舞われたという「倍櫨破陣楽」を伝えたとされている人物です。(『東大寺要録』巻第二所収の『大安寺菩提伝来記』には以下のようにあります)

「…勝賓四年壬辰七月九日開眼大會( 注略)即仰諸大寺令漢楽矣爾時彼佛哲□□少々師於彼瞻波國習得并?并『部侶』抜頭楽?歌令傅習…」(『続々群書類従』第十一)

 ここでいう「部侶」が「倍櫨」であるとみられるわけですが、この「林邑」というのは今の「ベトナム」付近を指すものであり、結局この時渡ってきた僧はみな中国の人ではなかったこととなりそうですが、それは「玄宗」から中国人の僧の派遣を拒否されたからではなかったかと思われるのです。
 その後の「鑑真」の際にもそうでしたが、「玄宗」は「道教」を自らの宗教としていたため「仏教」だけに興味を示すことに嫌悪感があったものとみられ、高僧要請に対し「中国人」以外であればよいとしたのではないかと思われます。そのため「菩提僊那」「仏哲」などのインドやベトナムの僧が来日したとみられるわけですが、それが本来所望した「高僧」というわけではなかったところに問題があったと思われるわけです。
 遣唐使が招請したかった人物は本来(その後鑑真が招請されたように)「授戒」が可能な高僧ではなかったかと思われ、そう考えると「鑑真」が渡ってきた当初「東大寺」で「授戒」していたという点が注意されます。彼が「東大寺」にいたとすると「大華厳寺」という寺名は彼には似つかわしくないものと思われ、扁額がこの時点付近で外されたとみれば納得出来ます。(鑑真と華厳経にはつながりがないと考えられます)
 「菩提僊那」の消息も「鑑真」と面会したという下の記録以降確認できなくなるのもそれを裏付けるといえないでしょうか。

「…後有婆羅門僧正菩提亦来参問云。某甲在唐崇福寺住経三日。闍梨在彼講律。闍梨識否。和上云憶得也。」(『東大寺要録』「大和尚伝」より)


 このように「鑑真」が来日した際には「菩提遷那」が慰問に訪れ、「長安」の「崇福寺」であなたの「律」の講義を受けたが覚えていらっしゃるかという問いに「鑑真」が覚えていると返事したとされます。このように「菩提僊那」は「律」を講義される立場であり決して高僧ではなかったこととなります。
 東大寺の主として「鑑真」が入ったことで「菩提僊那」については「主役」の座から外されたらしいことがうかがわれ、「大華厳寺」という看板が外されるとともに「聖武」としては本意ではなかったと思われる「華厳経」についても軽視されることとなり、詔などで言及することがなくなったのではないかと考えます。


コメント (2)    この記事についてブログを書く
« 紀元前八世紀という時期(補足) | トップ | 「聖武」と「伊勢神宮」 »

2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
「大華厳寺」という寺名について (肥さん)
2017-11-26 00:48:19
話題にしていただき,ありがとうございます。
James Macさんにして「初耳」というのもうれしいです。
さっそく「肥さんの夢ブログ」にリンクさせていただきました。
コメントについて (James Mac)
2017-12-01 23:27:43
肥沼様

コメントありがとうございます。
>James Macさんにして「初耳」というのもうれしいです。
いえいえ知らないことだらけで全然勉強が足りません。
逆に知らないのをいいことに好きなことを言っているというのが実態です。
山田様にも言えることですが、肥沼様も発想が柔軟で多角的であり、参考になるというか羨望します。
これからもいろいろ教えていただければと思います。

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

古代史」カテゴリの最新記事