ここに出てくる「大興」という用語については、この時代「隋」に関してのみ使用されているものです。
「大隋?者。我皇帝受命四天護持三寶。承符五運宅此九州。故誕育之初神光耀室。君臨已後靈應競臻。所以天兆龜文水浮五色。地開泉醴山響萬年。…謀新去故如農望秋。龍首之山川原秀麗。卉物滋阜宜建都邑。定鼎之基永固。無窮之業在茲。因即城曰『大興城』。殿曰 『大興殿』。門曰 『大興門』。縣曰 『大興縣』。園曰 『大興園』。寺曰 『大興善寺』。三寶慈化自是『大興』。萬國仁風?斯重闡。伽藍欝?兼綺錯於城隍。幡蓋騰飛更莊嚴於國界。法堂佛殿既等天宮。震旦神州還同淨土。…」(『大正新脩大藏經/第四十九卷 史傳部一/二○三四 歴代三寶紀十五卷/卷十二』)
ここで見るように「城」「殿」「門」「県」「園」「寺院」などあらゆるものに「大興」という名がつけられたとされます。つまり、「大興」という語は「隋」(特に「高祖」)に関する専門用語ともいえるのです。
たとえば「北周」の時代、まだ「高祖」(楊堅)が「北周」の皇帝配下の武将であった際に「大興」郡に「封じられた」とされています。
「…年十四,京兆尹薛善辟為功曹。十五,以太祖勳授散騎常侍、車騎大將軍、儀同三司,封成紀縣公。十六,遷驃騎大將軍,加開府。周太祖見而嘆曰:「此兒風骨,不似代間人!」明帝即位,授右小宮伯,進封『大興郡公』。…」(『隋書/帝紀第一/高祖 楊堅』より)
また『隋書』の別の部分にも同様のことが書かれています。
「京兆郡開皇三年,置雍州。…大業三年,改州為郡,故名焉。置尹。統縣二十二,?三十萬八千四百九十九。大興 開皇三年置。後周于舊郡置縣曰萬年,《…高祖龍潛,『封號大興』,故至是改焉。》」(『隋書/志第二十四/地理上/雍州/京兆郡』より)
ここでは「京兆郡」の下部組織としての「県」の設置の経緯などが述べられていますが、「大興」は筆頭に挙げられ、その記述に対する「注」として、「高祖」(文帝)が「北周」の時代、「龍潛」つまりまだ世に埋もれているときに「萬年」郡に封じられ、その地を「大興」と「号した」とされていますから、その時点で「大興郡公」となったわけですが、これは「大興王」という呼称の「原型」ともいえるものではないでしょうか。また、このことが後年「受禅」の後「大興」という「県」を設ける理由となったと見られ、彼はこの「大興」という語と地域について特別な感情を持っていたものと思われます。それは「楊広」(後の「煬帝」)を皇太子にする際の「文帝」の「詔」にも現れています。
「…(開皇)八年冬,大舉伐陳,以上為行軍元帥。及陳平,執陳湘州刺史施文慶、散騎常侍沈客卿、市令陽慧朗、刑法監徐析。尚書都令史?慧,以其邪佞,有害於民,斬之右闕下,以謝三?。於是封府庫,資財無所取,天下稱賢。進位太尉,賜輅車、乘馬,袞冕之服,玄珪、白璧各一。復拜并州總管。俄而江南高智慧等相聚作亂,徙上為揚州總管,鎮江都,??一朝。高祖之祠太山也,領武候大將軍。明年,歸藩。後數載,突厥寇邊,復為行軍元帥,出靈武,無虜而還。及太子勇廢,立上為皇太子。是月,當受冊。高祖曰:「吾以『大興公成帝業』。」令上出舍 大興縣。…」(『隋書/帝紀第三/煬帝 楊廣 上』より)
ここでは「大興」の地において「帝業」を開始したという意味のことが書かれており、「皇帝」となった現在に至る中でこの「大興県」という場所が彼にとって特別な場所であったことが推察されます。
また「北宋」の「志磐」が表した『仏祖統紀』という書物の中でも「文帝」については以下のように「大興」を城とした王とされています。
「…西天竺沙門闍提斯那來上言。天竺獲石碑■説。東方震旦國名大隋。城名大興。王名堅意。建立三寶。…」(『仏祖統紀』(大正新脩大蔵経)より)
この「王」の名として書かれている「堅」とは「楊堅」つまり「隋」の高祖である「文帝」を意味しますから、彼が「大興城」に居する「王」として(「天竺」から見て)「大興王」と呼称されていたとして不自然ではないこととなります。
また、同じ『元興寺伽藍縁起』には完成までに要した「黄金」の量として「金七百五十九両」とも書かれています。その一部がこの「高麗大興王」からの「三百二十両」であったとすると、残り(四百三十九両)はどの地域からの助成ないし貢上であったものが不明とならざるを得ません。
この当時国内からは「金」が産生されていないと考えられますから、必然的に「高麗」以外の「百済」「新羅」「加羅」からのものと考えざるを得ませんが、「新羅」「百済」からはそれほど多くの金が算出していたという記録は見られません。
『隋書東夷伝』の「冠」や「衣服」などの装飾に関する記事を見ても、「高麗」には「金銀」とあるものの、「百済」には「銀」に関するものはあっても「金」はなく、「新羅」に至っては「金」も「銀」も全く触れられていません。(「加羅」は「伝」自体が立てられていません)
しかし、七世紀に入ってからの「倭国」と「新羅」との交渉記事には多く「金」(銀も)の存在が書かれており、そのことからこの「六世紀末」から「七世紀初め」という時代に「新羅」ではすでに「金」は産出されていたという可能性も考えられますが、この「三百二十両」を「高麗」からと考えるとそれより多い「四百両以上」の金を「新羅」「百済」「加羅」などから調達しなければならなくなりますから、そのようなことが可能であったかはかなり疑問と思われることとなるでしょう。
しかしこの「三百二十両」が「隋」からのものと見ることができれば、残りを「高麗」をはじめとする半島諸国からのものと考えることにはそれほど無理はないのではないでしょうか。
以上のことから、実際にはここに「大興王」とあるのは「隋」の「高祖」を意味する「暗号」あるいは「異名」のようなものではなかったと思われます。
これが「高祖」であるとすると、「重興仏教」と偉業を讃えられる彼ですから、夷蛮の国が「仏像」を作るとしたなら、それに「助成」するというのはあり得ることと思えますし、その「黄金三百二十両」という量も「隋皇帝」ならそれほど苦にもならないものでしょう。(軍功を挙げた将軍などにたびたび多量の黄金を下賜している記録があります)
そう考えると、「大興王」とは「隋」の「高祖」を指すものであり、「高麗」からという書き方は「隋」からと読み替える必要があると思われますが、その場合ここでは「隋」という国名が出されていないこととなります。それについては『書紀』ではそれ以外の記事においても「唐」「大唐」というように「隋代」でありながら、一切「隋」という国名を出していないことと関係していると言えるでしょう。つまり「隋」から「助成」を受けて「丈六仏」を完成させたということを(特に「唐に対して」)隠蔽しようとしていたのではないかと推察されるわけです。
この時「隋」の高祖(文帝)が「黄金」を助成したと推定されるわけですが、それと関連していると考えられるのが「開皇二十年」記事の中にある「兄弟統治」とおぼしき表現に対して、これを「無義理」とし「訓令」によってこれを改めさせた、という記事です。
「大隋?者。我皇帝受命四天護持三寶。承符五運宅此九州。故誕育之初神光耀室。君臨已後靈應競臻。所以天兆龜文水浮五色。地開泉醴山響萬年。…謀新去故如農望秋。龍首之山川原秀麗。卉物滋阜宜建都邑。定鼎之基永固。無窮之業在茲。因即城曰『大興城』。殿曰 『大興殿』。門曰 『大興門』。縣曰 『大興縣』。園曰 『大興園』。寺曰 『大興善寺』。三寶慈化自是『大興』。萬國仁風?斯重闡。伽藍欝?兼綺錯於城隍。幡蓋騰飛更莊嚴於國界。法堂佛殿既等天宮。震旦神州還同淨土。…」(『大正新脩大藏經/第四十九卷 史傳部一/二○三四 歴代三寶紀十五卷/卷十二』)
ここで見るように「城」「殿」「門」「県」「園」「寺院」などあらゆるものに「大興」という名がつけられたとされます。つまり、「大興」という語は「隋」(特に「高祖」)に関する専門用語ともいえるのです。
たとえば「北周」の時代、まだ「高祖」(楊堅)が「北周」の皇帝配下の武将であった際に「大興」郡に「封じられた」とされています。
「…年十四,京兆尹薛善辟為功曹。十五,以太祖勳授散騎常侍、車騎大將軍、儀同三司,封成紀縣公。十六,遷驃騎大將軍,加開府。周太祖見而嘆曰:「此兒風骨,不似代間人!」明帝即位,授右小宮伯,進封『大興郡公』。…」(『隋書/帝紀第一/高祖 楊堅』より)
また『隋書』の別の部分にも同様のことが書かれています。
「京兆郡開皇三年,置雍州。…大業三年,改州為郡,故名焉。置尹。統縣二十二,?三十萬八千四百九十九。大興 開皇三年置。後周于舊郡置縣曰萬年,《…高祖龍潛,『封號大興』,故至是改焉。》」(『隋書/志第二十四/地理上/雍州/京兆郡』より)
ここでは「京兆郡」の下部組織としての「県」の設置の経緯などが述べられていますが、「大興」は筆頭に挙げられ、その記述に対する「注」として、「高祖」(文帝)が「北周」の時代、「龍潛」つまりまだ世に埋もれているときに「萬年」郡に封じられ、その地を「大興」と「号した」とされていますから、その時点で「大興郡公」となったわけですが、これは「大興王」という呼称の「原型」ともいえるものではないでしょうか。また、このことが後年「受禅」の後「大興」という「県」を設ける理由となったと見られ、彼はこの「大興」という語と地域について特別な感情を持っていたものと思われます。それは「楊広」(後の「煬帝」)を皇太子にする際の「文帝」の「詔」にも現れています。
「…(開皇)八年冬,大舉伐陳,以上為行軍元帥。及陳平,執陳湘州刺史施文慶、散騎常侍沈客卿、市令陽慧朗、刑法監徐析。尚書都令史?慧,以其邪佞,有害於民,斬之右闕下,以謝三?。於是封府庫,資財無所取,天下稱賢。進位太尉,賜輅車、乘馬,袞冕之服,玄珪、白璧各一。復拜并州總管。俄而江南高智慧等相聚作亂,徙上為揚州總管,鎮江都,??一朝。高祖之祠太山也,領武候大將軍。明年,歸藩。後數載,突厥寇邊,復為行軍元帥,出靈武,無虜而還。及太子勇廢,立上為皇太子。是月,當受冊。高祖曰:「吾以『大興公成帝業』。」令上出舍 大興縣。…」(『隋書/帝紀第三/煬帝 楊廣 上』より)
ここでは「大興」の地において「帝業」を開始したという意味のことが書かれており、「皇帝」となった現在に至る中でこの「大興県」という場所が彼にとって特別な場所であったことが推察されます。
また「北宋」の「志磐」が表した『仏祖統紀』という書物の中でも「文帝」については以下のように「大興」を城とした王とされています。
「…西天竺沙門闍提斯那來上言。天竺獲石碑■説。東方震旦國名大隋。城名大興。王名堅意。建立三寶。…」(『仏祖統紀』(大正新脩大蔵経)より)
この「王」の名として書かれている「堅」とは「楊堅」つまり「隋」の高祖である「文帝」を意味しますから、彼が「大興城」に居する「王」として(「天竺」から見て)「大興王」と呼称されていたとして不自然ではないこととなります。
また、同じ『元興寺伽藍縁起』には完成までに要した「黄金」の量として「金七百五十九両」とも書かれています。その一部がこの「高麗大興王」からの「三百二十両」であったとすると、残り(四百三十九両)はどの地域からの助成ないし貢上であったものが不明とならざるを得ません。
この当時国内からは「金」が産生されていないと考えられますから、必然的に「高麗」以外の「百済」「新羅」「加羅」からのものと考えざるを得ませんが、「新羅」「百済」からはそれほど多くの金が算出していたという記録は見られません。
『隋書東夷伝』の「冠」や「衣服」などの装飾に関する記事を見ても、「高麗」には「金銀」とあるものの、「百済」には「銀」に関するものはあっても「金」はなく、「新羅」に至っては「金」も「銀」も全く触れられていません。(「加羅」は「伝」自体が立てられていません)
しかし、七世紀に入ってからの「倭国」と「新羅」との交渉記事には多く「金」(銀も)の存在が書かれており、そのことからこの「六世紀末」から「七世紀初め」という時代に「新羅」ではすでに「金」は産出されていたという可能性も考えられますが、この「三百二十両」を「高麗」からと考えるとそれより多い「四百両以上」の金を「新羅」「百済」「加羅」などから調達しなければならなくなりますから、そのようなことが可能であったかはかなり疑問と思われることとなるでしょう。
しかしこの「三百二十両」が「隋」からのものと見ることができれば、残りを「高麗」をはじめとする半島諸国からのものと考えることにはそれほど無理はないのではないでしょうか。
以上のことから、実際にはここに「大興王」とあるのは「隋」の「高祖」を意味する「暗号」あるいは「異名」のようなものではなかったと思われます。
これが「高祖」であるとすると、「重興仏教」と偉業を讃えられる彼ですから、夷蛮の国が「仏像」を作るとしたなら、それに「助成」するというのはあり得ることと思えますし、その「黄金三百二十両」という量も「隋皇帝」ならそれほど苦にもならないものでしょう。(軍功を挙げた将軍などにたびたび多量の黄金を下賜している記録があります)
そう考えると、「大興王」とは「隋」の「高祖」を指すものであり、「高麗」からという書き方は「隋」からと読み替える必要があると思われますが、その場合ここでは「隋」という国名が出されていないこととなります。それについては『書紀』ではそれ以外の記事においても「唐」「大唐」というように「隋代」でありながら、一切「隋」という国名を出していないことと関係していると言えるでしょう。つまり「隋」から「助成」を受けて「丈六仏」を完成させたということを(特に「唐に対して」)隠蔽しようとしていたのではないかと推察されるわけです。
この時「隋」の高祖(文帝)が「黄金」を助成したと推定されるわけですが、それと関連していると考えられるのが「開皇二十年」記事の中にある「兄弟統治」とおぼしき表現に対して、これを「無義理」とし「訓令」によってこれを改めさせた、という記事です。