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古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

「富本銭」について(一)

2017年07月02日 | 古代史

  既に「無文銀銭」については「阿毎多利思北孤」あるいは「利歌彌多仏利」の時に導入されたものであり、特に「高額」取引に利用されたと考えた訳ですが、その直後「銅銭」が製造されることとなったとみられます。それが「富本銭」であったものです。
 「富本銭」は「飛鳥池」の埋め立て工事に伴って行なわれた発掘作業によって「工房」跡と共に鋳型や半完成品も含め大量に出土したことで注目されました。
 この「富本銭」というものは以前は「お呪い」などに使用される「厭勝銭」であって、実際には貨幣としては使用されていなかったと考えられていました。しかし「飛鳥池遺跡」は明らかに当時の「貨幣鋳造所」の遺跡と考えられ、また長野県や群馬県からも出土が確認されており、これまでに五六〇枚以上という相当多数の枚数見つかっていることからも「実際に使用されていた」ものと考えるべきでしょう。
  この「富本銭」については「従来」から、「いつ、誰により、どのような意図で作られたものか。また、それはなぜ廃絶されたのか。さらに、『無文銀銭』との関係や、後の『和同銭』との関係はどのようなものであったか」という疑問が提出されていました。
 「無文銀銭」もそうですがこの「富本銭」についても全く『書紀』『続日本紀』に登場しません。しかし、「飛鳥池遺跡」などからの「富本銭」の出土状況は「国家」としての「富本銭鋳造」事業であったことを示しています。にもかかわらず、『書紀』にも『続日本紀』にも影も形も見えていません。『続日本紀』には「鋳銭司」設置記事はありますが、そこでどのような貨幣を鋳造していたのか等重要な内容が欠けています。このことは「評制」や「国宰」など同様「隠蔽」されていることを示すものですが、それは即座にその隠蔽の「意図」も同様であったと推測できることを示すものです。つまり、『書紀』や『続日本紀』のこの「沈黙」は、「富本銭」や「無文銀銭」が「他の王朝」に関わるものであり、「九州倭国王権」に直接つながる性質を持っていることを示すものと言えるでしょう。

 この「富本銭」に続いて鋳造されたとされる「古和同銅銭」では、その成分分析が行われいずれも多量の「アンチモン」を含んでおり、この二つがかなり近似していることが指摘されています。
 「古和同銅銭」というのは「和同開珎」の初期鋳造品をいいますが(「文字」の形や「鋳造」の具合がその後の「和同開珎」(新和同)と異なっている)、この「古和同銅銭」の原材料の産地(銅と鉛)として候補が挙がっている内の一つが「豊前」(大分県)の「香春岳」の銅山であり、特に「放射性同位体」の比率が近似しているとされます。(ただし、この「香春岳」の銅山がいつ頃開かれたかは史料がなく不明ですが)
 また「アンチモン」は「伊予」の「市の川アンチモン鉱山」(現在は廃鉱)からの算出ではなかったかと推測されています。
 このように「古和同銅銭」は「富本銭」と成分が共通しているわけですから、「富本銭」もその主要な原材料の生産地が「豊前」の国などであったと考える事ができると思われます。
 それと関連しているのが「和銅年間」に「大宰府」から「銅銭」が献上された記事です。

「和銅三年(七一〇年)春正月壬子朔丙寅条」「大宰府獻銅錢。」

 この記事は非常にシンプルではありますが、「大宰府」から献上されたという意味の中に、「鋳造」もこの「大宰府下」であったと考えられること、時代状況としてこれが「古和銅銅銭」であった事が推定されますが、上に述べたように現在発見されている「古和銅」の場合その成分が「富本銭」に酷似していると考えられることなどから、この「大宰府」近辺では以前から「富本銭」を鋳造していたのではないかと考えられる余地が生まれます。この事からも「富本銭」と「九州倭国王権」との間に深い関係があると推察できると思われます。

 「富本銭」と鋳造用の鋳型などが発見された「飛鳥池遺跡」では、その後の調査により「富本銭」と同じ場所(層)から木簡が出土しましたが、そこには「丁亥」と書かれておりこれは「六八七年」を意味すると考えられています。このことから「奈文研」(奈良文化財研究所)の見解では、「富本銭」の製造時期としてはこの年次付近であり、これを大きく遡上するものではないと考えているようです。しかし、その「層序」から考えて、製造年の範囲の一端を示すものではあるものの、その「上限」や「下限」の時期を限定するものではないと思われます。
 この層と同じレベルあるいは「下」と考えられる層(つまり古い層)からは旧「飛鳥寺」(「法興寺」…これは私見によれば本来「元興寺」とは「別寺院」と考えられます)の「禅院」の瓦と同じ瓦が出ています。
 この禅院は一般には「道昭」が「唐」から帰国後建てたものとされています。その年次は『類聚国史』によれば「六八二年」とされていますが、『三大実録』によれば「六六二年」と書かれていて、両者で食い違っています。
 「道昭」については帰国の年次が(なぜか)『書紀』に明記されていませんが、「道昭」が「師事」した「三蔵法師玄奘」は「六六四年」に亡くなっており、「道昭」の帰国は彼の存命中とされますから「六六四年」より以前であることは間違いありません。また彼は「遣唐使団」の一員として「白雉年間」に「唐」に渡ったとされていますから、その派遣年次である「六五三年」よりは以前ではないと思われます。これに関しては「斉明七年」、つまり「六六一年」帰国という説が有力のようです。
 また、『続日本紀』には「道昭」が亡くなった際の記事として以下のように書かれています。

「『続日本紀』文武四年(七〇〇年)三月十日条」
「於元興寺東南隅、別建禅院而住焉、……於後周遊天下、……凡十有余載、有勅請還、還住禅院坐禅如故、……後遷都平城也、和尚及弟子等奏聞、徙建禅院於新京、今平城右京禅院是也」

 つまり、帰って来てから『元興寺』に「禅院」を作り、その後天下を「周遊」したとされ、その後十数年間の「周遊」の後、「禅院」に「還ってきた」と言うわけです。これによれば「禅院」の建築は彼が帰国して直後のこととなり、「六六二年」という「三大実録」の記述の信用性が高いもののようです。
 しかしこの『続日本紀』に書かれている「元興寺」が「飛鳥寺」なのかは異論があるところであり、「飛鳥池遺跡」の遺跡がこの『続日本紀』にいう「元興寺」なのかは疑問です。私見では『書紀』『続日本紀』に「元興寺」とある記述は実際には「法隆寺」に関わるものであり、「飛鳥寺」(法興寺)とは別寺院と考えています。そのことを踏まえると「道昭」の帰国年次が「六六二年」であり、また帰国後「元興寺」に禅院を設けたというのが事実してもこの「飛鳥池遺跡」から出土したこの「瓦」がその「禅院」と同一かは疑問が出る所です。つまり「瓦」から年代を特定することは実際には困難でしょう。

 ただし、この「飛鳥池遺跡」での「富本銭」鋳造に際して使用された「鋳型」の材料については、「斉明天皇」の所業として『書紀』が伝える「酒船石」遺跡の「石垣」の石材を再利用して作られていたのではないかという考え方があるようです。
 確かに、発見された「鋳型」の成分鉱物と、「酒船石遺跡」の石垣の成分鉱物が同一であり(「凝灰岩質細粒砂岩」)、これは奈良県天理市付近から産出するものであることが判明しています。この石材は「飛鳥池遺跡」でも「石敷き」の材料として使用されており、この地域で使用される石材として非常に一般的であったことがわかります。
 現在の推定では「石垣」の一部の石材を砕いて鋳型を造ったと考えられており、そうであれば「六六〇年代」の「鋳造」という可能性は否定できません。
 ちなみに、この「斉明」というのが『書紀』に言うように「天智」「天武」の母であるとすると、この時点で「母」の作った石垣を崩すとか、すでに崩れていた石垣を修復せずにそのまま「鋳型」の材料として使用したという事となりますが、もしそれが事実とすれば、この「富本銭」を鋳造させた人物は「斉明」の子供とは思えません。もしも子供なら、母の作った石垣の「補修」を行うことはあっても、「砕いて」別用途に転用するとは思えません。そのような一種「無遠慮」な行動は、明らかにここで「富本銭」の鋳造に関わった人物と「斉明」とは関わりのない人物であったということを意味するものと思われます。この事から、この時「飛鳥池工房」を構築した人物について「天智」でも「天武」でもないこととなり、それは年次から言うと「唐」の捕囚から帰国した「筑紫君薩耶麻」であったと言う可能性が考えられると思われます。
 また、これらのことから一見「六六〇年代」以前は「富本銭」の製造を行なっていなかったように受け取られるかも知れませんが、そうとは断言できません。それはこの「飛鳥池遺跡」で製造されたものではないと考えられる「富本銭」が発見されているからです。

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