古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

「神話」が国家により造られた時期について(二)

2017年09月11日 | 古代史
 西村秀己氏の研究(※1)では、「応神」と「瓊瓊杵尊」、「仁徳」と「彦火火出見」(山幸彦)というように、『神功皇后紀』と「天孫降臨説話」の各々の人物相関図が酷似しているとされます。ただ、「西村氏」はその「酷似」とも言うべき両者の関係をどう考えるべきか結論は出しておられませんが、私見によれば「神話」に合わせて『神功皇后紀』を造作したとするなら、その意図も目的も不明と言わざるを得ないでしょう。そのような「改定」や「造作」にどのような「現実的」利益があるか全く想像できません。しかし、その逆なら可能性としてはあり得ると思われます。つまり『神功皇后紀』に合わせて「天下り神話」を造作したという場合です。ただし、その場合でも、その造作が実際の『神功皇后紀』付近で行われたとする必要があるでしょう。それは「神話」に現実を投影することにより、現実に「説得力」を持たせるという「神話形成」の常道とも言うべき目的があったと考えるからです。

 「西村氏」は「神功皇后」の時代の現実を「神代」に当てはめたのか、あるいはその逆なのか、と言う問題が提起されているわけですが、実はその結論に関わらず、いずれも「不審」なものとなると思われます。その理由は、いずれの時代も『書紀』が成立したとされる時代からかけ離れているということにあります。
 『書紀』の成立が『続日本紀』に書かれたように「七二〇年」という年次であったとした場合、そこに書かれた内容はその「八世紀時点」の政権にとってどれほどか「有利」となる内容でなければならないはずですし、少なくとも「彼等」の利益に直結する内容でなければならないはずです。しかし『神功皇后紀』と「神代」が酷似していることがどれほど「八世紀」の政権に有利に働くのでしょうか。
 その効果というものは「八世紀」に存在していた誰か或るい誰か達の先祖である「神功皇后」の時代の正統性保持には役だっても、現実の「政権」の中央に位置する彼等には恩恵は少ないと思われます。(八世紀当時の中央には「神功皇后」の末裔と思われる「息長氏」勢力はそれほど強くないように思われます)そのような「隔靴掻痒」ともいえる「まだるこしい」ことをせずに、「八世紀」の「現実」と「神代」が「直接」結びつくような「神話」を構築する方が遙かに簡単で効果的ではないでしょうか。
 「現実」と「神話」の「リンク」は有り得えても、「古代」と「神話」の「リンク」はその動機と目的が「曖昧」というより、「無意味」でさえあると思われます。

 「神話」は決して「民話」そのものではなく、権力により作られる「政治的」なものという性格が強いと思われ、「建国神話」という類のものは全て同様の性格を有していると言えます。そう考えると、その「権力」の座にあるものが声を大にして主張したいこととは、現実の政権の正統性(正当性)であり、現実の政権の「大義名分」の所在であり、それを「保有」しているという現実が「神話」により裏打ちされていること、また「伝統」に立脚し依拠しているということを主張するためのものであって、「現実」というものが「神話」から帰結された「予定調和」であるということを言わんとして作り上げられたものといえるものです。(これによく似た論理は戦争当時軍部を中心として行われた「八紘一宇」とう思想で現実化しています。そこでは「現実」としての「神国日本」を構築するために「神話」が積極的に利用されています。これによく似た論理が使用されたものではないでしょうか)
 もし、そうであるとすると、「現実」と「神話」は「直接」リンクさせられて当然であり、逆に「古代」と「神話」をリンクさせるとすると、その意味が不明となるでしょう。それでは「現実」と「古代」の間をさらに結びつける必要が出てきてしまい、いわば「二重手間」となってしまうからです。
 これを合理的に理解するためには「時代」の位相をずらす必要があると思われます。つまり、『神功皇后紀』の実年代は『書紀』に書かれたような時間帯ではないと考えられ、これを「古代」から「現実」に引き戻す必要があると思われますが、ではその「現実」とは「いつ」のことなのでしょうか。
 そう考えると、『神功皇后紀』が現実の世界としてアクティブであった時代を想定する必要がありますが、それが『書紀』や『古事記』の示す時代ではないことは明らかです。少なくとも『書紀』と『古事記』で圧倒的に時代が異なるというのはそもそも不審であり、『神功皇后紀』という時代について「七世紀」から「八世紀」にかけての時期に固定的、安定的な理解が当時形成されていなかったこととなります。
 「改定」や「潤色」の内容が『古事記』『書紀』で異なっているというのは、この『神功皇后紀』やその前後関連した『応神記』『仁徳紀』などの時代の事をどう評価すべきなのか「王権」の中で固まっていなかったことを示しているものですが、それは彼等をそのまま評価すべきなのかどれほどの潤色改定を加えるべきなのかが定まっていなかったことを示すものであり、それほど評価がいわば「クリチカル」であったことを物語るものです。このことは「彼等」の業績(治績)がそれほど「画期的」であったことを示すものであり、「毀誉褒貶」の含まれる性質のものであったということではないかと思われますが、それは「対中国」という中でのことではなかったかと考えられます。それを示すのは「神話」など『古事記』『書紀』の中に「卑弥呼」が全く現れないことです。

 「卑弥呼」は「倭王権」にとって欠くべからざる「倭王」であり、「万世一系」を謳うならば必ず「天皇」の一人として描写すべき人物であるはずですが、それは見事に欠落していると同時に「晋の起居注」が『神功皇后紀』に小さく引用されています。これは「晋」や「魏」への「卑弥呼」の対応に対する評価が『書紀』『古事記』編纂時点では高くなかったことの裏返しでしょう。「卑弥呼」や「壹與」は「魏」「晋」に対して「臣従」する意を表し、何度も「朝貢」していたわけであり、それは『古事記』『書紀』編纂担当者(というより当時の王権)からは「屈辱的外交」と受け取られていた可能性があるでしょう。彼等はそのため意図的に「卑弥呼」を記事から外しているのではないでしょうか。同様のことは「卑弥呼」になぞらえられたその『神功皇后紀』そのものにいえるのではないでしょうか。
 「卑弥呼」と関連づけたこと及びその「神功皇后紀」自体に対して「年次移動」その他の「潤色改定」を相当程度加えたと見られることは、「神功皇后」自体に対しても肯定的評価をしきれなかったことが窺えるわけです。とすれば「卑弥呼」同様『応神記』『神功皇后紀』『仁徳紀』などに対しても対中国という点で「倭国王」としてあるべきではない「屈辱的行動」があったと見たものではないでしょうか。ではそれは一体どのようなものであったのでしょうか。

 確かに「倭国」の対中国との関係は常に一方的であり、その意味では常に「屈辱的」であったといえるかもしれませんが、最も可能性があるのは「隋」との関係ではなかったでしょうか。「隋」との間には「天子」自称について「宣諭」されそれを受け入れた(受け入れざるを得なかった)事件(当然謝罪を伴ったものと思われます)やそれに先立つ「訓令」事件があり、それらに対する対応について「否定的」な見解を持っていたものと思われるのです。
 そう考えると、彼等の真の時代としては「六世紀後半」が最も想定されるものであり、そのため『古事記』『書紀』で「四世紀」などへの年次移動を行うこととなったものと思われますが、そのことにより「空白」となってしまった「六世紀末」には本来は「五世紀末」付近である「推古」の時代を持ってきていわば「穴埋め」をしていると思われます。(古賀氏により推古紀に見える「観勒」の上表文についてその本来の年次が120年ほど遡上する可能性が指摘されています。(※2))


(※1)西村秀己「神代と人代の相似形」(『古田史学会報』60号2004年2月)
(※2)古賀達也「倭国に仏教を伝えたのは誰か 「仏教伝来」戊午年伝承の研究}(『古田史学論集』第一集所収 明石書店 1996年3月)
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「神話」が国家により造られた時期について(一)

2017年09月11日 | 古代史
 「伊豫三島神社」や「厳島神社」などの創建の社伝によれば、いずれも九州から「八幡大菩薩」が垂迹した、とされています。「厳島神社」はその社伝で、創建について「推古天皇」の時(端正五年、五九三)に「宗像三女神」を祭ったと書かれていますが、また『聖徳太子伝』にも「端正五年十一月十二日ニ厳島大明神始テ顕玉ヘリ」とあります。さらに、『平家物語』等にも「厳島神社」については「娑竭羅龍王の娘」と「神功皇后」と結びつけられた中で創建が語られており、その内容は仏教との関連が強いものです。
 さらに「謡曲」の「白楽天」をみると以下のようにあります。

 「住吉現じ給へば/\。伊勢石清水賀茂春日。鹿島三島諏訪熱田。安芸の厳島の明神は。娑竭羅竜王の第三の姫宮にて。海上に浮んで海青楽を舞ひ給へば。八大竜王は。八りんの曲を奏し。空海に翔りつゝ。舞ひ遊ぶ小忌衣の。手風神風に。吹きもどされて。唐船は。こゝより。漢土に帰りけり。実に有難や。神と君。実に有難や。神の君が代の動かぬ国ぞ久しき動かぬ国ぞ久しき。」

 これによれば「厳島神社」だけではなく、「伊勢石清水賀茂春日。鹿島三島諏訪熱田」という多数の神社の「明神」は「娑竭羅竜王の第三の姫宮」というように考えられていたのがわかります。この「娑竭羅竜王の第三の姫宮」については、『法華経』第十二部「提婆達多品」の中に書かれており、それによれば「文殊菩薩」が竜宮に行き『法華経』を説いたところ八歳の竜女が悟りを開いた、と言うものです。その竜宮の主である「娑竭羅龍王」には八人娘がいて、この悟りを開いたという竜女はその三番目である、ということになっています。この伝承が「厳島神社」の創建伝承に現れるわけであり、神社の創建伝承に「法華経」が関与しているという一種不可思議なこととなっているのです。
 その「厳島神社」の創建伝承をみてみると、「祭神」は「市杵島比売」とされ、この人物は「(娑竭羅)竜王の娘には妹、神功皇后にも妹、淀姫には姉」という関係であると記されています。(女性とされているわけです)
 ここに出てくる「淀姫」という人物は佐賀県に祭神としてまつる神社が数多いのですが、「神功皇后」の「新羅征伐」説話中に現れ、その「神功皇后」の妹として「松浦」の水軍をまとめて加勢したと伝えられています。
 「宗像」「松浦」という地名、「淀姫」を含む「三女神」に対する信仰という点においても、九州地域との在地性が高く、また信仰の内容から言っても「海人族」に関わる信仰であることがわかります。
 これらのことから「厳島神社」創建の人物は「宗像三女神」のうちの「比売大神」(市杵島比売神)に対応する人物と考えられます。

 また「京都」の「八坂神社」の祭神は「薬師如来」が垂迹した「牛頭天皇」とされ、この「牛頭天皇」というのは起源不明ではあるものの、その后は「頗梨采天女」であったとされますが、この「頗梨采天女」は「娑竭羅龍王の娘」とされ、「南方」の「竜宮城」に住んでいたという逸話が残っています。
 つまり各地の神社に伝わる「娑竭羅龍王の娘」は「牛頭天皇」すなわち「素戔嗚尊」の后とされている訳であり、「宗像三女神」と仏教の融合がそのまま「日本神話」につながっていることがわかります。
 これらのことは「娑竭羅龍王」との関連で仏教文化が倭国内に伝搬したことを示すと考えられ、「六世紀末」という時代の「仏教文化」拡大に「海人族」が深く関与していることが推定されます。

 後でも述べますが、一般には『法華経』に「提婆達多品」が添付されたのは「六〇一年」に造られたとされる『添品妙法蓮華経』が最初であるとされますが、実際には「六世紀末」の「天台大師智顗」によるものであり、それは「南朝」が「隋」に滅ぼされる以前の(五八九年以前)であったと見られます。(講説した記録がある)通説ではそれが「倭国」に伝来したのは一般にははるか後代の「九世紀」とされており(※)この「六世紀末」から「七世紀」という時代には「流布」していなかったとされます。しかし「一般への流布」とは別次元のこととして「隋帝」から「倭国王」への「訓令」として直接伝えられたとする仮定はそのような通説と矛盾するものではありません。むしろこう理解した方が「龍女伝説」に対する解釈として適切であるように思います。
 つまりこの『提婆達多品』が補綴された『法華経』の伝来が「隋」との交渉の結果であり「開皇年間」であったとみるべきとすると、上に見るように「厳島神社」などの「創建年次」が「五九三年」とされている事はまさに整合すると言えるでしょう。つまり、これらの寺院の創建の年というのは、「遣隋使」(ないしは「隋使」)が「提婆達多品」の添付された「法華経」を持ち来たったその年であったのではないかとさえ考えられる事となります。もし「伝承」が後代に「造られた」(創作された)とするなら『書紀』の記述を踏まえるのは自然であり、それに沿った形で「伝承」を形作るものと思われ、『書紀』と食い違う、あるいは『書紀』の記述と反する「伝承」が造られたとすると甚だ不自然でしょう。その意味で「端正年間」という表現も含めて「厳島創建伝承」には『書紀』の影は見えないとみるべきであり、その意味で「独自資料」という性格があったとみるべきです。「伝承」だからという理由だけで否定し去ることは出来ないものと思われます。

 また、上に見る「厳島神社」の創建伝承は、仏教(法華経)の伝搬の発信地が「九州」であったことを示していると同時に、「宗像三女神」に対する信仰と関連して語られていることが注目されます。
 「九州」にその本拠とでもいうべきものがある「宗像三女神」の分社、末社やそれに関係した「寺社」が「東方」に増えていくのですから、伝播の経路としては「筑紫側から近畿側へ」というベクトルであることに留意すべきでしょう。(さらにいえばこれは「遣隋使」の帰国の行程と関係があるのかも知れません。帰国の途次「宗像」の海人族に瀬戸内航行の護衛を頼んだことがこの「厳島」や「伊予三島」の創建説話に関係していると言う事も考えられます。)

 ところで、この「厳島神社」創建に関わって「神功皇后」が登場するのは唐突に思えますが、それは「神功皇后の伝説」を含めた「神話」がこの時造られたという可能性もあると思えます。
 『古事記』を見ても「推古」の時代までしか書かれておらず、それは「記紀」の原資料となった各種の記録や説話をまとめたものがこの「六世紀末」付近あるいはその後継王朝の時代に一旦成立したという可能性が高いことを示すと思われ、『隋書』で「阿毎多利思北孤」の「太子」とされた「利歌彌多仏利」か、その後継者が「勅撰事業」として編纂させたものが、後の『書紀』編纂の際の重要な根拠資料になったという可能性があると思われます。ただし『古事記』の「序文」は「唐」の「長孫無忌」等がまとめたという「五経正義」を下敷きとしているとされますから(※)、それ以降に書かれたものであることは間違いないものの、その内容は当然それ以前のこととなります。この時点で諸々の説話がまとめられ、成立したとすると、「神功皇后」説話が元々は「最近」の話(七世紀から遡ることせいぜい百年以内)として書かれたものであったという理解も可能ではないでしょうか。

 「記紀」(特に『書紀』)でこの「神功皇后」の時代がかなり過去のこととされているのは、『三國志』の「卑弥呼」に仮託しようとした「八世紀」の造作と考えられますから、本来の年次に書かれているかははなはだ疑問です。(そもそも『書紀』の「神功皇后」の部分は、「森博達氏」の論によれば「唐人」の手になる部分(α群)ではなく、「日本人」編纂者の手による部分(β群)であり、より後代の成立であって「潤色」「改定」の手がかなり入っている部分であると考えられています)


古田武彦「古事記序文と五経正義」(『多元的古代の成立』(下)邪馬壹国の展開 二〇一一年ミネルヴァ書房)
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