古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

「不改常典」と伊勢行幸(二)

2017年09月25日 | 古代史

 「持統」は「伊勢」へ行幸したわけですが、この時「三輪(大神)高市麻呂」は「冠」を脱ぎ捨ててそれを止めようとしたと『書紀』に書かれています。なぜ彼は「冠位」を捨ててまで「持統」の伊勢行幸を止めようとしたのでしょうか。それは「高市麻呂」の奏上の中に「農時」には民を使役するべきではないという意味のことが言われていることが(当然ながら)重要です。

「(六九二年)六年二月丁酉朔丁未。詔諸官曰。當以三月三日將幸伊勢。宜知此意備諸衣物。賜陰陽博士沙門法藏。道基銀人廿兩。
乙卯。…是日中納言直大貳三輪朝臣高市麿上表敢直言。諌爭天皇欲幸伊勢妨於農時。
三月丙寅朔戊辰。以淨廣肆廣瀬王。直廣參當麻眞人智徳。直廣肆紀朝臣弓張等爲留守官。於是。中繩言三輪朝臣高市麿脱其冠位。擎上於朝。重諌曰。農作之節。車駕未可以動。」

 このように「農時」あるいは「農作之節」の妨げとなってはいけないとするわけですが、それは『後漢書』に良く似た話があり、それを下敷きにしたものとも考えられます。(以下の例)

「…顯宗即位,徵為尚書。時交阯太守張恢,坐臧千金,徵還伏法,以資物簿入大司農,詔班賜羣臣。意得珠璣,悉以委地而不拜賜。帝怪而問其故。對曰:「臣聞孔子忍渴於盜泉之水,曾參回車於勝母之閭,惡其名也。此臧穢之寶,誠不敢拜。」帝嗟歎曰:「清乎尚書之言!」乃更以庫錢三十萬賜意。轉為尚書僕射。車駕數幸廣成苑,意以為從禽廢政,常當車陳諫般樂遊田之事,天子即時還宮。永平三年夏旱,而大起北宮,意詣闕免冠上疏曰:「伏見陛下以天時小旱,憂念元元,降避正殿,躬自克責,而比日密雲,遂無大潤,豈政有未得應天心者邪?昔成湯遭旱,以六事自責曰:『政不節邪?使人疾邪?宮室榮邪?女謁盛邪?苞苴行邪?讒夫昌邪?』竊見北宮大作,人失農時,此所謂宮室榮也。自古非苦宮室小狹,但患人不安寧。宜且罷止,以應天心。臣意以匹夫之才,無有行能,久食重祿,擢備近臣,比受厚賜,喜懼相并,不勝愚戇征營,罪當萬死。」帝策詔報曰:「湯引六事,咎在一人。其冠履,勿謝。比上天降旱,密雲數會,朕戚然慙懼,思獲嘉應,故分布禱請,闚候風雲,北祈明堂,南設雩塲。今又勑大匠止作諸宮,減省不急,庶消灾譴。」詔因謝公卿百僚,遂應時澍雨焉。」「後漢書/列傳第三十一/鍾離意」

 ここでは「鍾離意」という「顯宗」の側近が「日照り」が続いて農民が苦労しているのに「宮殿」の造営に彼らを駆り出すなどの行いを、「免冠」つまり「冠」を脱いで諫めています。一見これを下敷きにしただけのものともいえそうですが、「高市麿」の場合は当時それほど「天候不順」があったようにも受け取られず(前年には長雨があったとされてはいるものの)、「宮室」造営に比べれば「行幸」はそれほど農民の負担でもないともいえ、「免冠」して諫言」するほどのことでもなさそうです。そう考えると、この「免冠」しての「諫言」には別の理由があると見なければなりませんが、考えられるのは「十七条憲法」(第十六条)に反していると言うことです。

「十六曰。使民以時。古之良典。故冬月有間。以可使民。從春至秋。農桑之節。不可使民。其不農何食。不桑何服。」(『推古紀』十七条憲法)

 つまり「春」から「秋」までは「農桑之節」であるから「民」を使役すべきではないというわけです。この条項に反することとなる事態を何とかして防ごうと「高市麿」が必死になっていたことが窺えるわけですが、そのような緊迫した行動をとった最大の理由は、これが「不改常典」に反するからではなかったでしょうか。
 この「十七条憲法」が「持統」が即位の際に「遵守」するとした「不改常典」であったなら、「高市麿」が「冠」を脱いでまで制止しようとした理由も了解できるものです。
 「即位」の際の誓約は、当時の国家統治を担うものにとって重要なものであり、従うべきものであったと思われ、この「伊勢行幸」はそれを自ら破る行為であると「高市麻呂」は考えたものでしょう。
 つまり「持統」は「即位」にあたって「不改常典」に反しないという制約を行っていたことが推定され、ここで「伊勢行幸」を行うことはその「誓い」を自ら破ると言うこととなってしまいますが、これは古代では重大なことであったはずです。
 最高権威者が「天」と「祖先」に対して誓った言葉を自ら破るというのは、由々しき事態であり、これを必ず是正しなければ「天変地異」が起きても不思議はないと捉えられていたと思われます。そうであればそれを直言できるのは「近臣」であり、また「大神」という氏名が示すように本来の職掌が「神官」であり「祖霊」(この場合「阿毎多利思北孤」)を祀る役割もあった自分しかいないと「高市麿」は思い定めたゆえに「冠」を脱ぎ捨ててまで阻止しようとしたのではないかと思われるわけです。

 ただし、この「三月三日」の行幸については「中国」と同様の「節句」の行事であったと思われます。『隋書たい国伝』によれば「節」の行事は中国と同様であるとされています。
その意味で「三月三日」の節句についても「隋」との交流以前から行っていたものであり、倭国としては当時ごく普通の年中行事であったという可能性もあるでしょう。しかし「十七条憲法」が施行されて以降「農桑之節」は「王権」として行う事は避けなければならなくなったものであり、そのこと自体がまだ浸透しきっていなかったということもあるでしょう。このことは「十七条憲法」の施行と「持統」の時代が年次の経過としてそれほど隔たったものではないことを推定させます。「三月三日」という日付が『書紀』に出てくるのがこれが最初であることもそれを裏付けます。
 この時「持統」は旧来の習慣に囚われて「憲法」の要請に違背することを余り強く意識していたなかったのではないでしょうか。

 また「孝徳紀」の記事においても「十七条憲法」を意識しているような文言が見受けられます。

「三月癸亥朔…辛巳。…夫爲君臣以牧民者。自率而正。孰敢不直。若君或臣。不正心者。當受其罪。追悔何及。是以。凡諸國司。隨過輕重。考而罰之。又諸國造違詔送財於己國司。遂倶求利。恒懷穢惡。不可不治。念雖若是。始處新宮。將幣諸神。屬乎今歳。『又於農月不合使民。縁造新宮。固不獲已。』深感二途大赦天下自今以後。國司。郡司。勉之勗之。勿爲放逸。宜遣使者諸國流人及獄中囚一皆放捨。」((大化二年)三月癸亥朔…辛巳条)

 この「詔」では派遣された国司の罪状を朝集使が報告し、それに基づき裁く予定であったが、新しき「宮」を造ることもあり(慶事なので)、「大赦令」を出すので特に許すとされています。さらにこのような「農事」の季節に民を動員することについて「やむを得ない」とされており、これは「十七条憲法」に違背することを懸念した発言であると思われるものです。
 このように当時「十七条憲法」が「不改常典」として存在し、「天皇」も側近もそれを意識せざるを得ない政治的雰囲気であったことが強く窺えるものです。

コメント

「不改常典」と伊勢行幸(一)

2017年09月25日 | 古代史

「不改常典」については以前すでに書いていますが(http://blog.goo.ne.jp/james_mac/e/63587e93470e54a32a5bd1f550374970 からの一連の記事)、「天智天皇」が定めたという「常識」に囚われて、議論が混乱していると思います。
 『続日本紀』における出現の仕方では「近江大津宮御宇大倭根子天皇」「淡海大津宮御宇倭根子天皇」というように書かれており、これを以て「天智」と即断しているわけですが、肝腎の「天智紀」にはそれを窺わせる何も書かれていないのが現実であり、そこからあたかも「無」から「有」を創造するかのように「皇位継承法」であるというような無理な議論を行っているのが現状なわけです。しかし、議論の根本は「不改常典」の中身であり、それは『続日本紀』の「詔」(宣命体)を直視すると、議論の余地なく明らかであると思われるのです。それは「食国法」とされており、支配・統治するものにとっての「根本法典」であるとされているのです。「皇位継承」の際に出てくるのは、それを遵守することで「皇位」の継承が成立するというのが「儀礼」として存在していたものであり、「皇位」につくものが誰であろうとこれを遵守すべきと言う「絶対的存在」であったからです。ですから当然「皇位」を継承する際にはこれに言及せざるを得ないものなのであったものです。そして、そのような「絶対的根本法典」を『書紀』内に探索すると「十七条憲法」以外に見あたらないのです。
「十七条憲法」はその「憲法」の名が示すように「絶対」であり、また「超越的」な存在ですから、それが「不改常典」つまり「代えてはいけない根本法規」という名にふさわしいのも当然です。

「持統」も「元明」即位の詔によれば同様に誓約したことが窺えます。

「元明の即位の際の詔」
「(慶雲)四年…秋七月壬子。天皇即位於大極殿。詔曰。現神八洲御宇倭根子天皇詔旨勅命。親王諸王諸臣百官人等天下公民衆聞宣。關母威岐藤原宮御宇倭根子天皇丁酉八月尓。此食國天下之業乎日並知皇太子之嫡子。今御宇豆留天皇尓授賜而並坐而。此天下乎治賜比諧賜岐。是者關母威岐近江大津宮御宇大倭根子天皇乃与天地共長与日月共遠不改常典止立賜比敷賜覇留法乎。受被賜坐而行賜事止衆被賜而。恐美仕奉利豆羅久止詔命乎衆聞宣。…」

 この「詔」はかなり難解ですが、大意としては「元明」が「即位」するにあたって「文武」から継承することとなった「食国天下之業」というものは、「藤原宮御宇倭根子天皇」つまり「持統」が「近江大津宮御宇大倭根子天皇」が定めた「不改常典」を承けて行っていたものであり、またそれを「文武」へと授けたものであるというわけです。そして今それを「自分」(元明)が今「継承」するというわけです。
 つまり、「持統」は「即位」にあたって「不改常典」に反しないという制約を行っていたことが推定されるわけです。
これを踏まえて「持統」の「伊勢行幸」を考察してみます。

 『書紀』の『持統紀』に「持統」が「伊勢」へ行幸したという記事があります。
 一連の記事は以下のものです。

「(持統)六年(六九二年)二月丁酉朔丁未(11日)。詔諸官曰。當以三月三日將幸伊勢。宜知此意備諸衣物。賜陰陽博士沙門法藏。道基銀人廿兩。
乙卯(19日)。詔刑部省。赦輕繋。是日中納言直大貳三輪朝臣高市麿上表敢直言。諌爭天皇欲幸伊勢妨於農時。
三月丙寅朔戊辰(3日)。以淨廣肆廣瀬王。直廣參當麻眞人智徳。直廣肆紀朝臣弓張等爲留守官。於是中納言三輪朝臣高市麿脱其冠位。擎上於朝重諌曰。農作之節車駕未可以動。
辛未。天皇不從諌。遂幸伊勢。
壬午。賜所過神郡及伊賀。伊勢。志摩國造等冠位。并兔今年調役。復兔供奉騎士。諸司荷丁。造行宮丁今年調役。大赦天下。但盜賊不在赦例。
甲申。賜所過志摩百姓男女年八十以上稻人五十束。
乙酉。車駕還宮。毎所到行。輙會郡縣吏民。務勞賜作樂。
甲午。詔。兔近江。美濃。尾張。參河。遠江等國供奉騎士戸。及諸國荷丁。造行宮丁今年調役。詔賜天下百姓困乏窮者。稻男三束。女二束。
夏四月丙申朔丁酉。贈大伴宿禰友國直大貳。并賜賻物。
庚子。除四畿内百姓爲荷丁者今年調役。
甲寅。遣使者祀廣瀬大忌神。與龍田風神。
丙辰。賜有位親王以下至進廣肆難波大藏鍬。各有差。
庚申。詔曰。凡繋囚見徒一皆原散。
五月乙丑朔庚午。御阿胡行宮。時進贄者紀伊國牟婁郡人阿古志海部河瀬麿等兄弟三戸服十年調役雜徭。復兔筴抄八人今年調役。」

 最後の「御阿児行宮」記事において、「大系」の注では同様の出来事を記した『万葉集』の「左注」について「誤り」と断定しています。つまり、この記事は上に書いたように「三月」の行幸の際の出来事であり、それに対する褒賞を授与したのが五月の時点だというわけです。
(以下万葉集「四十~四十四番歌」までについての「左注」)

「右日本紀曰 朱鳥六年壬辰春三月丙寅朔戊辰浄肆廣瀬王等為留守官 於是中納言三輪朝臣高市麻呂脱其冠位 擎上於朝重諌曰 農作之前車駕未可以動 辛未天皇不従諌 遂幸伊勢 五月乙丑朔庚午御阿胡行宮」

 つまり、「左注」はこの「阿胡行宮」記事を、その記事が書かれた「日付」である「五月」の出来事と解釈しています。これを「誤り」としているわけですが、しかし「大系」の言うように「三月」の出来事であるなら、他の「褒賞」記事と同様その時点で記せばいいことであり、五月といういわば時期外れの褒賞記事ははなはだ「不審」といえます。しかも「車駕還宮」記事の前に「阿児行宮」に直結する記事が全くないのはさらに疑わしく、この記事が「三月」の「伊勢行幸」とは別途に行われたと見るのが至当と思われます。
 また、この記事は「古田氏」などによる解釈では、「大系」の「注」とは異なり、三月から五月までずっと「伊勢行幸」を続けていたと考えられています。「筑紫」から「瀬戸内」をあちらこちら寄りながらゆっくりと進んだというわけです。しかし、「還宮記事」を無視しないとすると、上で見たように「阿胡行宮」記事を「別」と考える方が合理的であり、「伊勢行幸」からは「三月中」に「還宮」したと考えるべきではないでしょうか。

 そもそも、この記事の中では「持統」は「三月三日」という日付を出して、この日に「伊勢」に行くと宣言しています。『當(まさ)に三月三日を以て伊勢に將幸(いでま)さむ。』とは、単にこの日に出かけると言うような意味ではなく、この日の内に「伊勢」に到着しているという意を多分に含んでいると思われます。それは「干支」ではなく「数字」で日付が書かれている事からも推定できます。つまり、「三月三日」というように日付を明確に設定していることには「意味」があったはずであると思われるわけです。
 『書紀』の「本文」としての記事中に、「干支」ではなく「数字」で日付が書かれている例は非常に少なく、この「三月三日」以外には『推古紀』と『天智紀』に「薬猟」の行われたという「五月五日」だけなのです。それ以外は「補注」部分や「百済系資料」からの引用部分及び「伊吉博徳書」からの引用部分だけであり、「本文」としてはこのような「数字日付」は希有な例です。
 この事から、この「三月三日」という表記も「薬猟」同様「節」(節句)であったものと思われ、今で言う「桃の節句」が該当するものと思われますが、これは中国の古代では「疾病」などを祓う儀式を行うべき日とされていました。
 「藝文類聚」の「三月三日」の項には、「應劭」の「風俗通義」が引用されていますが、そこには以下のようなことが書かれています。

 「…應劭風俗通曰.按周禮.女巫掌歳時以祓除疾病.禊者潔也.故於水上盥潔之也.巳者祉也.邪疾已去.祈介祉也.…」

 これによれば「三月三日」という日には(昔は)「女巫」つまり「巫女」のような「祝子」(ほうり)(神と人の仲立ちをする人物)が、川の水の中に「盥」(たらい)を浮かべ、そこで「沐浴」をすることで「疾病」を祓うことができるとされていたのです。つまり、「女巫」が「疾病」を「祓除」するために「水上」で「みそぎ」の儀式が必要であったものであり、そのために「川」へ行く必要があったものです。
 ここでは「周礼」が引き合いに出されていることからも分かるようにかなり古くからあった儀式であると思われ、このようなものは相当早期に倭国に流入していたと考えられます。
 この事から考えて、この時の「伊勢行幸」は、「伊勢」のどこかで「沐浴」し「祓除」を行なうという目的があったのではないでしょうか。
 「持統」の「詔」の中には「宜知此意備諸衣物。」という指示があり、これは「沐浴」に使用する「練衣」(ねりぎぬ)の準備をするようにという意味を含んでいるという可能性もあります。
 このような典拠のある儀式であるとすると「日付」が重要であり、「三月三日」という日付が特に言及されている理由はそこにあると思われ、当然「三月三日」には「伊勢」にいなければならなかったものではないでしょうか。その日は儀式を行うべき日であったからこそ「日付」を明確にしていると思われるのです。そうであれば「五月」に「仮宮」にやっと到着したという解釈では「三月三日」という日付が宙に浮いてしまうでしょう。 
 このことから、当初目的としていた「三月三日」は「儀式」を行うべき日と推定されますが、実際には「出発日」として記事中には出てきます。この日に「留守官」などを定めたとしており、実際に出かけようとしていたと見られます。(これを「三輪高市麻呂」に阻止されたものと見られます)
 このことから考えて、「持統」は当初は「目的の儀式」を行う日と出発日を「同日」と設定していたように見受けられ、そうであれば「伊勢」はかなり近いところにあると考えなくてはいけなくなります。少なくとも「一両日」程度で行けるような範囲の中に「伊勢」はあると考えざるを得ないと思われます。

 後の『養老令』の規定によれば「車駕」による行程は「一日三十里」、「人が歩く」場合は「五十里」とされていました。また、「古代官道」の「駅間距離」も同じく「三十里」とされていますから、基本的には「車駕」であれば「官道上」を移動する際は「一日一駅」、「歩く」場合は「二駅」程度ていどとされていたようです。「倭国王」などの場合は「輿」に乗ったと見られ、これは「人が担ぐもの」と思われますから、「歩く」という場合に相当するかと思われます。すると「二駅」程度が一日で移動できる距離となり、「伊勢」は「都城」(宮殿)からその程度の距離に存在していたと考えられることとなります。
 そもそも中国の古代においてもこの「儀式」ははるか遠方の場所で行なうのではなく、都城の「郊外」で行なわれるのが常であったわけですから、この場合においてもそれほど遠距離の場所を想定するべきではないと考えられるものです。

 ところで、この「三月三日」の「儀式」は「曲水の宴」の原型でもあります。当初は「沐浴」だけであったものが、その後「直会」を行い(捧げ物がありますからそれを食する儀式も伴ったものでしょう)「宴」が催されたと見られ、「盥」を「杯」に変え、それを水に流してその間に歌を歌うという趣向が考えられたようであり、これはかなり早期にそのような様式が確立していたと見られます。
 この「曲水の宴」という儀式は古来「三月上巳」というように「三月」の最初の「巳」の日に行われていたものですが、「魏」の時代に「三月三日」という日付に固定されたものであり、それ以降については「日付表示」となったもののようです。
 『晉書』の「禮志」(巻二十一志十一禮下)を見ると以下のようです。

「漢儀,季春上巳,官及百姓皆禊於東流水上,洗濯祓除去宿垢。而自魏以後,但用三日,不以上巳也。晉中朝公卿以下至于庶人,皆禊洛水之側。趙王倫簒位,三日會天泉池,誅張林。懷帝亦會天泉池,賦詩。陸機云:「天泉池南石溝引御溝水,池西積石為禊堂。」本水流杯飲酒,亦不言曲水。元帝又詔罷三日弄具。海西於鍾山立流杯曲水,延百僚,皆其事也。」

 つまり「周代」以降「上巳」の日に行っていたが、「魏以後」「三日」と固定されたとされているものです。干支では「年毎」に日付が一定しませんから、宮廷儀式としては「日付」を固定する必要があり、そのため「三月三日」と固定したもののようです。
 この「魏」の時代以降「曲水の宴」の要素が増したとされているようですから、この『持統紀』で「日付表示」が為されているということは、その内容に「曲水の宴」の要素が多分に含まれているということを推察させるものです。

 この「曲水の宴」については「久留米市」の「筑後国府」跡から「遺構」が出ていることが注目されます。この「曲水の宴」遺構は「八世紀」以前のものと考えられており、また遺跡からも「七世紀後半」と考えられる建物跡なども見つかっており、『持統紀』記事といろいろな関連が考えられるものです。
 この時の「王城」(首都)と考えられる「筑紫」(「太宰府」)からの距離としても、「久留米」であれば、出発したその日のうちに到着して儀式を行うことも可能であり、この時の「伊勢行幸」の候補地としては可能性がかなり高いといえるのではないでしょうか。
 この久留米という場所は、「古代官道」の駅としては太宰府から「二駅目」、距離にして約二十五キロメートル程度であり、これは先に見た「一日」にして行くことが可能な範囲の中にまさに存在している事となります。

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