2014年2月25日(火)
仕事で室積(光市)に行き、昼食は、早長八幡宮近くの「宮本」で「海商煮込みうどん」を美味しくいただいた後、午後一の仕事(講演)を済ませて、次の周南市の仕事までに少し時間があいてしまった。室積に立ち寄ったのは、かれこれ30年振りだし、往時を思い出しながら辺りをちょいと散策してみた。
早長八幡宮から普賢寺までの昔ながらの通りは、今では「海商通り」との名称で知られるようになったみたいで、途中の綺麗な公園には、「みたらい燈籠堂」なる平成3年に復元された元禄時代の灯台が鎮座している(タイトル写真)。
この公園には、山頭火が室積に立ち寄った際に作ったと言われる自然石の句碑があり、「わがまゝな旅の 雨にぬれてゆく」と刻んである。気楽な一人旅なれば、雨に濡れながら歩く室積の風景もまた一興なのであったろうと想う。
海商通りを南下すると、突き当りのすぐ右手に臨済宗の名刹「峨嵋山普賢寺」の山門に出る(写真下)。
山門内の両脇には、3メートル位ありそうな雄大な木彫りの仁王像が睨みをきかせており、また楼上には国宝級らしい「十六羅漢像」が安置されているそうな。近くに寄って見ても、また少し離れて見ても惚れ惚れするような、威風堂々たる山門ではある。
山門を潜って、正面に見えるのが普賢堂で、ここに普賢菩薩が鎮座しておられる。
縁起によれば、一条天皇の時代って言うから今からほぼ千年前のこと、播磨の書写山の「性空上人」が生身の普賢菩薩を見たいと祈願したところ夢のお告げがあり、摂津の江口の里に行って普賢菩薩の化身である遊女の長者に出会った。
その遊女から、「周防なる 室積の中なる みたらいに 風は吹かねども ささら波立つ」の謡を聞き、周防の室積の里に行った。
そこで漁人が海中から網で引き上げた普賢菩薩に対面し、この地にお堂を建てて本尊として祀ったとのことらしい。因みにこの本尊は、海上守護仏、知恵仏、無病安全仏として広く信仰を集めていて、50年に一度しか開帳されないそうな。
また、ここの境内には「平判官康頼の碑」が建っている。治承元年(1177)に後白河法皇が起こした平清盛への反乱(鹿ヶ谷の変)に連座して、平康頼・藤原成親・僧俊寛が捕われ、九州の南端鬼界ヶ島へ流されることとなった。
一行が瀬戸内海を船で下る途中、室積の浦に立ち寄った際にこの地で出家し、その時に詠んだ一首が碑に刻んである。
「終(つい)にかく 背(そむ)きはてけむ 世の中を とく捨(すて)ざりし ことぞかなしき」
能の「俊寛」或いは「鬼界ヶ島」で有名なエピソードの一端に、こんなところでお目にかかるとは思っていなかった。
普賢堂から普賢寺本堂へ周り、そのまま山口大学付属中学校を左に見ながら半島突端の象鼻ヶ岬まで足を伸ばし、帰りは途中から左側山手の自然遊歩道へ入って、高台にある護国神社へも立ち寄ってみた(写真下)。
ここは当初、維新の志士として知られる来島又兵衛やその他の神霊を祀っていたが、元治元年(1864年)の下関砲撃事件の戦死者や、同年7月の「蛤御門の変」の戦死者なども合祀されたと書いてある。
瀬戸内海の島々を一望に見渡せる絶景の地で、英霊安らかにと懇ろに手を合わせたが、何せ周囲の木々が生い茂っていて境内からはこの絶景は見通せないのが残念っ。
更に自然遊歩道を北上して途中から山大附属中学校横に出、再び海商通りを戻って帰路に着く。
で、もう一度、海商通りをゆっくりと歩いてみた(写真下)。
落ち着いた街並みはとてもいいのだが、平日の午後だからか、何せ人が通らない。写真にも見えるように、路傍の所々に四角い敷石のようなものが並べてあるのに気がついた。
数も七つだったり三つだったりと色々なようだが、結局通りがかる地元の人に会えないままにここを後にしたので、どんな意味合いがあるのか分からずじまいになってしまった。
どなたか知っている方がいれば、教えてください。
てな訳で、仕事の合間を縫った、二時間半余り1万6千歩のプチウォーキングでありました。
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