2009年4月11日(土)
今週は乾燥注意報が出る程に晴天が続き、お陰で(?)足がうずうずしてきたので、取り敢えず近場の旧山陽道を歩いてみることにした。
防府駅前をスタートして、⇒山頭火の小径⇒佐波川/大崎橋⇒玉祖(たまのや)神社⇒佐野峠⇒大道⇒長沢池/大村神社⇒四辻⇒陶⇒東津橋⇒小郡と、途中色々寄り道をしながらの約6時間半43、082歩だった。
玉祖神社(写真1)は初めて行ってみたが、「周防一之宮」の名前に違わず立派な社殿だった。三種の神器の一つである「曲玉」を造った玉祖命(たまのおやのみこと)を祀ると由緒に書いてあるが、4月10日の「玉の祭り」には、全国各地から宝石・貴金属の業者が参拝するそうな。
放光地区を過ぎると旧山陽道は突然山中に入るが、ありがたいことに、防府ロータリークラブによって、案内板や道路整備がしてあり(写真2)、本来なら荒れ放題であろう山道がとても歩きやすく、気分も晴々とする。このような目立たない地道な活動をしていただいている同クラブには、敬意を表するとともに心から感謝。
長沢池は、いつも車で通り過ぎるだけで、ゆっくりと歩いて回ったことはなかったが、今日は池の北西に突き出た弁天様(写真3)や大村神社、鋳銭司郷土館、史跡大村益次郎墓にも立ち寄ってみた。大村益次郎については充分知っていたつもりだったが、郷土館の説明や資料を見て、知らないことが一杯あったことに気が付いた。それにしても、18歳で蘭学を習い始めたと思ったら、大分で漢学を修め、すぐに大阪で医学を学んで、今度は宇和島藩に講師で招かれ、更に江戸に出て塾を開いたと思いきや幕府講武所の教授になり、桂小五郎に口説かれて今度は長州に戻って、幕府の長州征伐に対抗する参謀となるなど、今時のTVの波瀾万丈と比べて、そのスケールの大きさに改めて度肝を抜かれる思いがする。
東津橋を渡った椹野川の土手に、「藩米(はんまい)津出蔵(つだしくら)跡」なる案内板が建っていて(写真4)、周辺から集められた米をここから大阪へ向けて船で運んでいたそうで、塩と並んで長州藩の財政を支える一翼を担っていたわけだ。それらがやがて、倒幕から明治維新への基盤の一つとなったことを思うと、それなりに感慨深いものがあるわぃ。
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そういう道って、たまらなくわくわくするっちゃね
クロといちろうと歩きたい。
そして地元なのに、知らない事、物は多い。