今回の旅のお供は『苦しくて切ないすべての人たちへ』(南直哉)。帰路の機中で読了した。
「苦しくて切ない人たちへ」
ぼくが触手を伸ばす類のタイトルではない。その上ごていねいなことに、表紙には「恐山の禅僧が説く、心の重荷を軽くするメッセージ」という添え書きがある。そうなると、読んでいるのを誰かに気づかれるだけで恥ずかしい。南直哉の著作でなければ、おそらく買ってはいないだろう。言い換えれば、南直哉著だからこそ買った。
どうやらそれは直哉老師も同様だったようで、「事タイトルに関しては、編集者尊重主義者」の氏も、さすがにこれには抵抗があったと、のっけから記している。
ところがどっこい。ぼくの方に故もあって、じつにタイムリーに胸に響く一冊となった。
*******思うに、人は自分の生まれてくる理由も、目的も、意味も知らない。しかも、自分の存在は他人に一方的に決められる、いわば「お仕着せ」の自分である(体は他人製、名前=社会的人格は他人の決定)。したがって、いくら考えようと、「自分の命の大切さ」だの、「自分の生きる意味」だのを自利で発見できるわけがない。理由も目的も意味も知らず、ただ生まれて来ただけの無価値な存在(存在理由・目的・意味を持たない「価値」など、無い)が、「自分の大切さ」を感じることができるとすれば、それは自分以外の誰かに大切にされたからである。お仕着せの服を着る気になれるのは、似合うと褒められた時だけだ。(P.236)*******
読んでよかった。