答えは現場にあり!技術屋日記

還暦過ぎの土木技術者のオジさんが、悪戦苦闘七転八倒で生きる日々の泣き笑いをつづるブログ。

『哲学入門以前』(川原栄峰)を読む

2023年04月28日 | 読む・聴く・観る

 

『哲学入門以前』(川原栄峰)を読んだ。

いったい、読み始めてから何ヶ月が経過したのだろう。とにもかくにもちびりちびりと、思いついては読み、思い出しては読み、なんとなく読んでみようかと読み、読むのだぞと叱咤して読み、ときには、寝起きの脳にはこりゃムリだわいとあきらめ、またときには、脳をフル回転させながら読み、そうこうしながら、やっとこさ読み終えた。

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猫がお化粧をしたということは聞いたことがないし、蛙が裸をはじいている様子は全くないし、犬が血統を誇ったり恥じたりしている風もないし、蟬が命短い自分のさだめを嘆いているとは思えない。それに、一般に、動物が自殺したということは聞いたことがない。ところが人間は化粧して、着物を着て、自慢したりはずかしがったり、劣等感にとらわれたり、自分を疑ったり(考えたり)、極端な場合には自殺したりする。人間だけは「自分で自分を」見ることができるからである。サルトルはこのような人間のあり方を「対自」存在といい、これ以外の猫、犬、蛙、蟬その他山川草木日月星辰すべての在り方を「即自」存在と呼ぶ。(P.220)

犬、猫、蛙、蟬などに比べれば、たしかに人間は「対自」的にあるということはよくわかるけれど、しかし人間だけのいわば内部のこととして考えたら、これはなかなか由々しいことである。(P.221)

対自という以上は、人間には「自己」が二つある、ということになる。(中略)たしかに「自分で自分を見る」という場合、見る自分と見られる自分との二つが考えられる。(中略)私は嘘つきだと言う場合、そう見られた自分はたしかに嘘つきだが、そう見ている自分は嘘つきではないのである。このように人間は、自分について何々であると言うとき、そのことにおいて、それと同時に、その何々ではなくなる、という妙なことがあるのであって、これはなにも嘘つきの場合だけとはかぎらない。(中略)私は無知であると自分を見ている自分はもはや無知ではないのである(P.224)

自分で自分を見るーー対自。私は嘘つきである、私は無知である、(中略)などなど。これはいつでも「私は何々である」という形をとる。この「何々」をPと略記することにしよう(述語“プレイデイケイト“の頭文字P)。そうすると、私が私を見て、「私はPである」と言うーーこういうことになる。そして私を見て私をPだと認めて、それを誇ったり、はじたり、あわれんだり、自慢したり、後悔したり、疑ったりしているのが人生であるが、そうしているその私の方は決してPではない。この、私をPと見ている私の方を今かりにEと略記する。(P.225)

「私はPである」というのは、正確には「私はPのひとりである」と言い直した方がよい。(P.226)

そうだとしたら、Pは「ほんとうの私」ではないと言わざるをえない。私に無縁ではない、私がそのPなのだから、たしかにPは私に関係はある、私はPであるのだから。しかしそのPは、「ほんとうの私」からはずれている。ほんとうの私は、「私はPである」と言っている私、言いつつある私の方、つまりEの方だ。

ではEとな何か?私はPであると言っている私とは一体何なのか?(中略)これは無限につづく。だからEとはPであるという形では絶対に答えられない。それもそのはず、Eはいつも答える側にいるのであって、答えられる側にはいないのである。本質を規定するとき、いつも規定する側にいるのであって、規定する側にはいない。(中略)別の言い方をすると、常に主体の側にいて、決して客体にはならない。Eはそのようなあり方をしている。決して「何々である」のではない。(P.227)

自分の目を見たことのある人は絶対にいないはずだ。目で見るのであって、目を見ることはできない。(鏡に映して見てもそれは自分の目の「鏡に映った映像」であって自分の目そのものではない。それを見るには自分の目で見るよりほかないが、しかし、見ている目を見ることはできない。(P.228)

決して客体になることのない絶対の主体、「私はPである」と言うとき、いつも言う側にいて、言われる側にはいない「私」、これをどう言い表したらよいのか、全く困ってしまう。(中略)むしろこの「私」(E)があるからこそ、「自分を」見たり、問題にできるのである。だからナッシングどころか、これは必ず「ある」のにちがいない。サムシングとして、何かとして、Pという形や語で言い表わされうるものとして、「ある」わけではないが、しかしやはり「ある」。都合のいいことに、日本語には同じ「ある」という語に、「・・・である」という用法と、「・・・がある」という用法の二つがある。だから、Pの方はいつも「私はPである」という形でいい表わせるのに対して、絶対的な主体としての私(E)の方は「私がある」という言い方で言い表わすことができる。「私がある」「われあり」少し大げさに言うと、この「私がある」「われあり」のありつまり「存在」「有」こそは、古今東西を通じて哲学の最も根本的な問題なのである。(P.229)

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『哲学入門以前』を読んだ。

ほほ〜ナルホドね、とうなずきつつ読んだ。ときにはアタマを抱え、うんうん唸りながら読んだ。

といっても、読み終えて何かがわかったわけではない。

川原先生いわく、

「哲学とは本のことではなく、文字のことでもない。哲学とは、ひとりひとりのこの私が事柄の深みに身を沈めることであり、跳躍し、飛躍し、超越することである」

まことそのような気はするけれど、このわたしは、たぶんどこまで行っても「哲学入門以前」はおろか、その「以前」にもたどり着くことができず、身を沈めたまま跳躍することもできないのだろう。

だが、とにもかくにも読み終えたというとりあえずの充足感はある。

うん、それでいいのだ。

 

 

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