答えは現場にあり!技術屋日記

還暦過ぎの土木技術者のオジさんが、悪戦苦闘七転八倒で生きる日々の泣き笑いをつづるブログ。

『ブガロンチョのルノワール風マルケロ酒煮』(清水義範)を読む

2023年04月27日 | 読む・聴く・観る

 

立川志の輔がいくつかの新作を創作するにあたっては、小説家清水義範の作品をもとにしているのはファンのあいだでは有名な話らしい(『バールのようなもの』『バス・ストップ』『みどりの窓口』など)。

ということで、清水義範を読む。手始めに選んだのは『国語入試問題必勝法』だ。そのなかに『ブガロンチョのルノワール風マルケロ酒煮』という短編が収められている。ブガロンチョというデタラメな食材を使った架空の料理をつくるというバカバカしい話を、大真面目に書いているところがやたらとたのしい短編だ。

その冒頭、ルイ十四世の料理人であったシャルル・マルクナールの逸話を紹介したあと(これも作り話なのだがこの時点ではまったく気づかない)、2つめのエピソードに移る。

******

 時代は変って十九世紀末、のちに印象派とまとめて呼ばれる画家たちがポントワーズの森にピクニックをしたことがある。そのピクニックには趣向があって、それぞれ、弁当に自分の美意識を盛り込んでそれを競おう、ということになっていた。そこである者は七色のサンドイッチを持ってくる。ある者は果物とパンと干し肉を銀の皿に盛って暗い影におく(これはコローだろう。多分)、ある者は踊り子に料理を運ばせた(これはドガ)。

 ところがモネの弁当はどこにも取り柄のない、パンとチーズの塊を竹の皮に包んだだけのもので、みんな、どうしたことかと注目した。

 食後、モネはその竹の皮をさりげなく小川に流した。と、その皮の表には、赤々と太陽が描かれており、それはまるで森の落日が川面に反映しているかのように美しいものであったという。

 さすがは「印象ー日の出」の画家であると言うべきであろう。

******

ほぉー。読むなりすぐさま蛍光ペンを入れた。もちろん、いつかネタにしてやろうという魂胆からである。

だが、その目論見は次の逸話を読み、あえなく崩れることとなる。

******

 ロシアのピョートル大帝は若い日、ドイツ、オランダ、イギリスなどへ渡り自ら造船術を習ったりしたことで有名だが、そんな時、ドイツのザクセン地方で一日乗馬を楽しみ、夕刻になってしまったことがある。腹がへったなあ、何か食べるものはないだろうかと思っていると、近くの農家で農夫がさんまを焼いていた。そのうまそうな匂いにひかれて、そのさんまを買い求めて食べてみたところ、空腹だったこともあり、実にうまい。この世にこんなうまいものがあっただろうか、という気がするほどである。

 そして後年、大帝となったピョートルは王宮でさんまを求めるのだが、王にただ焼いただけの魚を出すわけにもいくまいと、さんまのボルシチとか、ムニエルとか、サバイヨン・ソースかけ、とかになって出てくるので、あの思い出の味とはまるで違っていた。そこで王は言う。

「このさんまは一体どこでとれたものだ」

「はい。バルト海で」

「それはいかん。さんまはザクセンに限る」

******

やられた。

そうだったのか。

元ネタは言わずと知れた『目黒のさんま』。パロディーと呼ぶのも憚られるほどそのままだ。いわば「目黒のさんまのまんま」である。しかしそのあとを読み進めると、それが作者のテクニックが稚拙であるがゆえにそうなったのではなく、むしろ精緻な構成ではないかということに思いが至る。

冒頭に、いかにもありそうな話をひとつ。印象派の画家たちを登場人物とした2つめは、若干の引っかかりと疑念を抱く部分(コローとかドガとか)を入れつつも最後をきれいにまとめ、ミエミエのパロディーである3つめで「じつは全部ウソなのよ」と明かす。三段落ちだ。もちろんそれは、その後の本編への導入として練り上げられた構成、つまりマクラである。これからデタラメな話をするからね、という前置きである。

******

 作るものは、「ブガロンチョのルノワール風マルケロ酒煮」を中心に、オードブルとサラダ。これにワインとフランスパンを加えれば立派な晩餐になる。

******

で、そのあとにつづく本編は、どこまでも嘘っぽい話を徹頭徹尾それらしく描写する。これぞナンセンス。バカバカしくておもしろい。

清水義範。しばらく就寝前のお供にしようと思っている。

 

 

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« ライオン | トップ | 『哲学入門以前』(川原栄峰... »

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。