答えは現場にあり!技術屋日記

還暦過ぎの土木技術者のオジさんが、悪戦苦闘七転八倒で生きる日々の泣き笑いをつづるブログ。

自分事他人事

2024年03月22日 | ちょっと考えたこと(仕事編)

 

【サクランボとリンゴ】

 サクランボは冷蔵で保存しない方がよいことをご存知だろうか?

 そもそもサクランボは、急激な温度変化に弱いデリケートな果物なのだそうだ。と聞くと、すぐに冷蔵保存と意識が直結するのが現代人の性だが、あれに限ってはそれをすると逆効果なのだという。したがって、ほとんどの場合、常温で売られており、その保存の基本は冷暗所で常温。というのが、その筋では当たり前のことらしい。
 とはいえ、初夏の果物だ。冷やして食べる方が美味いに決まっている。というのもまたテクノロジーにまみれて生きている現代人の悲しい性だが、さあ、となればどうすればよいのか。食べる1時間ほど前から冷蔵し、頃合いをみはからってやおら食す。これがもっともよい食べ方だという。

 そんなことを知ったのは、一昨年初夏のある贈与がきっかけだった。東北在住の知人から届いたそのサクランボは、梱包をあけて箱の中を見ると、たとえば時間がたって凝固した血液がそうなるように、深く暗い朱色をしていた。アメリカンチェリーのような、と言えばわかりやすいだろうか。だがそれは、アメリカサクランボではなく、れっきとした佐藤錦である。

 これはどうしたことだろう?と訝しがった妻は、あえて贈り主ではなく、箱に書かれた生産者のところに電話をした。事情を説明する妻に、年配男性とおぼしき生産者は、すぐさまその原因が「クール便」であることを特定したという。聞けばそのおじさん(たぶん)は、「冷蔵で送らないでくれ」というのが、発送に際しての基本的スタンスなのだという。とはいえサクランボは傷みやすい。そのため、どうしても遠隔地に送る場合は、冷凍にするか、もしくはそのことを承知してもらったうえで冷蔵保存による輸送を選択する。それ以外は、あえてそうしないでくれと念押しをしているという。ということは、非は運送会社にある。

 ところがその生産者は、それを盾に自分を正当化するどころか、自分事として謝罪をし、なおかつそのあと、何も言わずに別のものを送り届けてくれた。しかも彼は、贈与主である知人にはまったく知らせることなくその一連の行為を遂行した。そんなことがあった後、その生産直売農家が、妻のお気に入りに登録されたのは言うまでもない。
 
 生産直売といえば、別の例もある。これもまた場所は東北、産物はリンゴである。そことの付き合いは長い。といっても彼我の関係は売り手と買い手にすぎず面識もないが、兎にも角にも贔屓にしていたその味があきらかに落ちたのはいつ頃だったろうか。ほぼ時期を同じくして応対も親切ではなくなった。   
 「代替わりをしたんだろうか?」
 さびしそうに妻がつぶやく言葉がぼくの脳内に残っている。
 何年かそれがつづき、彼女は他所に代えることも真剣に考えていたようだが、変更することなしに購入をつづけてきた。まったくダメ、というわけではないからだ。それはそれなりに、フツー以上の品質を保っており、あくまでも元との比較において劣化したというだけで、他人様への贈与として失礼なものではないと判断していたからだ。

 ところが、もうそろそろ、と思っていた矢先の昨年、それがみごとに復活した。といっても、以前好んで取り寄せていた品種ではなくなったのだが、いずれにしても、あきらかに美味くなった。


【かつおのタタキ】

 もうひとつの例をあげよう。地元高知だ。県を代表するといっても過言ではないある人気飲食店のことである。カツオのタタキが看板であるそこは、かつてはどちらかといえば観光客向けではなく、地元民に愛された店だった。だが、今という時代は、そんな店を放ったらかしにしておいてはくれない。おそらくネットの口コミで広がった評判は、いつのまにかそこを超有名店の座に押し上げていた。

 そんな人気店へ久しぶりに赴いたのは昨年秋のことだ。連れは県外から来た客3人。じつはその前夜、魚の旨さには定評がある居酒屋に連れて行ったはよいが、カツオのタタキで失敗していた。火がとおりすぎていたのである。高知県外の方はご存じないかもしれないが、カツオのタタキというやつは鮮度がよい魚を使えばよいというものではない。そこには料理のウデが求められる。「タタキ」という料理において、焼きすぎるなどというのは致命的なウデのなさか、完全な失敗だ。
 このままでは高知県民として遠来の客に申しわけが立たない。そのリベンジとして選んだのが、くだんの有名店だった。

 ところが、その目論見はみごとに外れる。新鮮で焼き加減も上々。あいかわらずウデはたしかだ。だが、あろうことか、薄すぎる。かつては1.5~2センチほどはあったものが、おおよそ1センチほどになっている。心なしか枚数も一枚少ないような気がする。
 きっとよほどの事情があるのだろう。そう考えたぼくは、当日夜のゼロ次会でもその店を選んだ。アテはもちろんタタキである。連れは地元民ではないが、その店を訪問した数はおそらく両手の指で余る。これまでの味と品質を熟知しているといっていい。

 だが、期待に反して結果は同じだった。そしてそれから約1ヶ月後、これまた県外からの来客を連れて行った妻が、帰ってくるなり同じことを告げた。それで容疑は確定だ。


【自分事他人事】
 
 これらの例から考えさせられることは色々さまざまある。だが、ぼくが言いたいことはひとつ。信頼とはなんぞや、である。

 まずサクランボの例は、信頼や信用はどうやって築き上げられるのか、について教えてくれる。食べ物に限らず、商品を売る場合にもっとも上位にくる価値は何かと問われれば、品質であるというのが一般的な解だろう。だがぼくは、そうとばかりも言えないぞという考えの持ち主だ。もちろん、箸にも棒にもかからない場合は論外だが、ある一定以上の品質さえ備えていたら、あとは売り手の人柄とか人間性、俗に言う「よい人」かどうかが大いに左右すると思っている。
 そんなことを言うと、ママゴトじゃねえんだから、という向きもあるかもしれない。だがそれは、立派にビジネス戦略として成立するものでもあるとぼくは信じている。何よりそこには、自分の商品にまつわるすべてを自分事として捉え責任をもつという一貫した姿勢がある。そこから生まれた信頼があるかぎり、今後、たとえ大儲けはできなくても、商売は安泰だろう。昨今流行りの「持続可能な」という冠をつけたビジネスにとっては、もっとも大切なスタンスではないだろうか。

 「リンゴ」の場合は、品質の劣化に対応のわるさが重なるという救いがたいパターンだ。だが、買い手は見放さなかった。そうするうちに、何が要因でそうなったかはわからないが、品質が復活したことによって顧客をつなぎとめることができた。品質劣化の根本原因が解消されたかどうかは読み取れない。だが、たとえそれが解決したうえでそうなったとしても、その生産直売農家の商売は危ういとぼくは思う。その商売におけるスタンスは、「サクランボ」とは正反対に位置しているような気がするからだ。

 では「タタキ」の場合はどうだろうか。これはもう、考えられるかぎり最悪のパターンである。品質が落ちたのではない。だが、サイズという要素が味と食感を大きく左右することを知ってか知らずか、たぶん、承知の上で薄くした。そこには、「これぐらいなら」という自分都合にもとづいた判断があるのではないか。そして、ぼくがなんとしても救いがたいなと感じるのは、そこに欺瞞があることだ。顧客を欺いている。百歩譲って、コスト的にやむを得ない事情があったとしても情状酌量とはならない。それならば、理由を説明して価格に上乗せするべきだろう。たとえそのことによって客が離れていったとしても、そうするしか道はない。

 「リンゴ」と「タタキ」に共通するのは、自分事にしない姿勢だ。食うのは他人。つくる自分の都合が何より優先する。つまり他人(ひと)事なのである。ぼくがここで言う「自分事」とは、「他人(ひと)の事」を「自分の事」だと考え行動できることを指している。そういう意味で、あくまでも「他人(ひと)事」としか捉えられないスタンスとは決定的に異なっている。
 仕事というもの、さらに広く言えば人間というものが、人と人との関係性のなかでしか存在しないことを思えば、この姿勢のちがいは、ビジネス社会をどのように泳ぎきっていくか、あるいは、人としてどう生きていくかを決めてしまうほど重い。

 たぶん自分にはない責任を「自分事」として引き受けたサクランボ農家と、あきらかに自分にある責任を、「他人(ひと)事」であるかのように商売をするリンゴ農家や居酒屋。おそらく、その信頼と信用を築き上げるには、三者三様に並大抵ではない努力と苦労があったにちがいないと推察する。
 だが、漫然と手をこまねいていてはそれを継続することができない。どころか、崩れるのはあっという間でもある。もちろん他人事ではない。公共建設業と生産直売農家や飲食業をいっしょくたにはできないだろうが、という向きもあるだろうが、これらを自分事としてとらえることができなければ、明日はわが身だ。まちがいない。


コメント    この記事についてブログを書く
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« リマインド | トップ | 世代交代 »

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。