立川志の輔3年ぶりの高知公演を聴いてきた。ぼくにとっては当代ナンバーワンの噺家である志の輔は、御年70歳になったばかり。衰えるどころか、ますます練達の度合いが深まった感がする高座だった。
よく言われる説に、落語という芸能は演者が六十代になってからがもっともよいというものがある。ぼくとてそれに全面的な異を唱えることはなく、おおむねそのとおりだとは思うが、あえて当たり前のことをそれらしく言うとそれは人それぞれで、イキがよかった若いころがよかった人もいれば、五十代がよかった人もいたり、老いてわるくなった人もいる。そして、これは落語という芸能の奥深さであると同時に彼の人の凄さだとぼくは思うのだが、昭和の大名人と謳われた六代目三遊亭圓生などは、残された音源を聴く限り、79歳で没するまでその芸が枯れるどころか、どんどんと熟練上達していったような感を受ける。つまり、それやこれやを押し並べての落としどころが六十代だということなのだろう。
そこにはいわゆる世代交代論が入り込む隙はない。
交代したいならば超えてゆけ、でしかない。
正直羨ましいなと思う66歳のぼくは、近ごろではそれも少し治ってはきたが、「なぜオレがバリバリと音の出るような仕事をしてはいけないのか」と、忸怩たる思いをもつこともしばしばだった。
もちろん、詮無いことだと承知はしている。ぼくがそうすることによって、あとからつづく者の道を塞いでしまっては何にもならないからだ。それゆえ、控える。そういった思考に拠って立てば、自分のエネルギーをフルパワーで出力することは半ば悪である。
「もうアナタが表に出てる場合じゃないでしょ、そろそろ世代交代をしないと」
少し年長のある県職員に面と向かってそう言われたのは、今をさかのぼること15年以上も前のこと。ところがその時分といえば、ぼく自身も会社としても、後々の礎となり骨格を形成することとなる取り組みが端緒についたばかりの頃で、内心では、「まだはじまったばかりぢゃないか。それにオレ、まだまだ若いし」とまともに取り合うことなく、曖昧に生返事をしたのを覚えている。
だが、今になって考えれば、当事者として真剣に世代交代を意識しはじめたのは、あの発言を嚆矢としてもよいのではないだろうかと思うほどに、それはズサッと胸に刺さった。
そういう意味では、あの発言に感謝するべきだろう。そう忠告した本人は、ただの一般論を述べただけで、ぼくとわが社の行く末を真面目に案じた上での発言ではなかった蓋然性はかなり高い。だいたい、いかにもそれらしい正論を吐くそんな人たちに限って、自分がいない未来に責任をもたないという意味で、自分がいる今にも責任をもっていないに等しいと、捻くれ者のぼくはいつも思ったりする。
だが、その意図がどうあれ、またそこに意図があろうとなかろうと、人の言動は、受け手がどう入力するかで、その影響力の大小が決まる。繰り返すが、その文脈では、あの発言に感謝すべきだろう。
さて眼前の志の輔だ。
ここにはいわゆる世代交代論が入り込む隙はない。
交代したいならば超えてゆけ、でしかない。
御年70を数え、ますます練達の度合いを深めてゆく芸を堪能しつつ、いまだに正直羨ましいなと思うぼくはしかし、「なぜオレがバリバリと音の出るような仕事をしてはいけないのか」と忸怩たる思いをもつことはない。
なぜならばそれは、ぼくの身が置かれた環境に応じてぼく自身が選んだ道に他ならないからだ。
たしかにそのような需要はあり、それを受けての選択にはちがいなかったのだけれど、その責任を自らの内に引き受けたのは誰あろう、ぼく自身に他ならない。であれば、行くしかないではないかこの道を。ねえ。
よく言われる説に、落語という芸能は演者が六十代になってからがもっともよいというものがある。ぼくとてそれに全面的な異を唱えることはなく、おおむねそのとおりだとは思うが、あえて当たり前のことをそれらしく言うとそれは人それぞれで、イキがよかった若いころがよかった人もいれば、五十代がよかった人もいたり、老いてわるくなった人もいる。そして、これは落語という芸能の奥深さであると同時に彼の人の凄さだとぼくは思うのだが、昭和の大名人と謳われた六代目三遊亭圓生などは、残された音源を聴く限り、79歳で没するまでその芸が枯れるどころか、どんどんと熟練上達していったような感を受ける。つまり、それやこれやを押し並べての落としどころが六十代だということなのだろう。
そこにはいわゆる世代交代論が入り込む隙はない。
交代したいならば超えてゆけ、でしかない。
正直羨ましいなと思う66歳のぼくは、近ごろではそれも少し治ってはきたが、「なぜオレがバリバリと音の出るような仕事をしてはいけないのか」と、忸怩たる思いをもつこともしばしばだった。
もちろん、詮無いことだと承知はしている。ぼくがそうすることによって、あとからつづく者の道を塞いでしまっては何にもならないからだ。それゆえ、控える。そういった思考に拠って立てば、自分のエネルギーをフルパワーで出力することは半ば悪である。
「もうアナタが表に出てる場合じゃないでしょ、そろそろ世代交代をしないと」
少し年長のある県職員に面と向かってそう言われたのは、今をさかのぼること15年以上も前のこと。ところがその時分といえば、ぼく自身も会社としても、後々の礎となり骨格を形成することとなる取り組みが端緒についたばかりの頃で、内心では、「まだはじまったばかりぢゃないか。それにオレ、まだまだ若いし」とまともに取り合うことなく、曖昧に生返事をしたのを覚えている。
だが、今になって考えれば、当事者として真剣に世代交代を意識しはじめたのは、あの発言を嚆矢としてもよいのではないだろうかと思うほどに、それはズサッと胸に刺さった。
そういう意味では、あの発言に感謝するべきだろう。そう忠告した本人は、ただの一般論を述べただけで、ぼくとわが社の行く末を真面目に案じた上での発言ではなかった蓋然性はかなり高い。だいたい、いかにもそれらしい正論を吐くそんな人たちに限って、自分がいない未来に責任をもたないという意味で、自分がいる今にも責任をもっていないに等しいと、捻くれ者のぼくはいつも思ったりする。
だが、その意図がどうあれ、またそこに意図があろうとなかろうと、人の言動は、受け手がどう入力するかで、その影響力の大小が決まる。繰り返すが、その文脈では、あの発言に感謝すべきだろう。
さて眼前の志の輔だ。
ここにはいわゆる世代交代論が入り込む隙はない。
交代したいならば超えてゆけ、でしかない。
御年70を数え、ますます練達の度合いを深めてゆく芸を堪能しつつ、いまだに正直羨ましいなと思うぼくはしかし、「なぜオレがバリバリと音の出るような仕事をしてはいけないのか」と忸怩たる思いをもつことはない。
なぜならばそれは、ぼくの身が置かれた環境に応じてぼく自身が選んだ道に他ならないからだ。
たしかにそのような需要はあり、それを受けての選択にはちがいなかったのだけれど、その責任を自らの内に引き受けたのは誰あろう、ぼく自身に他ならない。であれば、行くしかないではないかこの道を。ねえ。