散日拾遺

日々の雑感、読書記録、自由連想その他いろいろ。
コメント歓迎、ただし仕事関連のお問い合わせには対応していません。

レモンの木陰に鳥の宿り

2022-01-03 23:45:04 | 日記
2022年1月3日(月)

 レモンを収獲して半日過ごす。「隔年結果」と呼ばれる傾向はかなり確度の高いもので、敷地内のレモン樹は昨年は不作だったのが今年は一転鈴生り、二本の樹から400個ほどもいただいた。小粒の鈴生りは摘果を怠った証拠だが、道楽園芸の御愛嬌といったところ。冬の青空に黄色い果実がよく映り、枝を切り落とすたびに爽やかな香りが発散される。写真は相変わらずヘタクソで上達の気配がない。




 切り立った南斜面に枝が伸びているのと、鋭く長い棘があるのとで、ゆるゆる進めるうちに陽は西へ動いていく。幹の裏側に回ってみたが、なおさら陽がまぶしい。


 人の目はよくできたもので、逆光の中でもめぼしいものを見逃さない。無粋を承知でストロボを焚いて記録に供する。


 中央に既に用済みとなった鳥の巣。密生する葉と鋭い棘に守られた空間は、鳥の宿りに一等地を提供したことだろう。鳥の種類はとんと見当がつかないが。
 楽しみにしていたモズとは、今年まだ会えずにいる。ヒヨドリ、セキレイ、ジョウビタキ、シラサギにカラス、昨日は飛び地の草むらで背後からキジが飛び立った。
 皆元気で年を越したのだ。

Ω

いにしえの阿波のみやこの八重桜?

2022-01-03 18:07:48 | 日記
2021年12月24日(金)/2022年1月2日(日)

 謎解きで思い出したことをついでに書き留めておく。 
 本朝の初め、奈良周辺に国都が定まるより早く、都が阿波にあったとする主張する説がある。阿波、つまり現在の徳島である。いくらなんでもと取り合わないのが平均的な反応であろうが、案外そういったものでもない、かもしれない。

 確かに、かねがね腑に落ちないところはあったのだ。「国譲り」で出雲族が国土を返納ないし献上する、そこへ天孫が降臨し、長駆東征して橿原宮に入り即位する。日本列島の西半分を股にかけた古の壮挙であり、天からの降臨といったメタファー(?)を拭いとってみれば、そこに一定の歴史事実が姿を現すと期待されるところ。「皇室の祖先は九州地方から起こって(あるいは高天原に擬せられる海の彼方から九州を経由し来たって)東進し、奈良に都を定めて全国を支配した」という大筋を、少なくともたたき台として措定したくなるのが自然である。
 だが、ここに素朴な疑問が生じる。降臨の地はなぜ出雲ではなく日向・高千穂峰なのか?ストーリー上の必然性がないうえ、南九州はその後の征討の対象になる「まつろわぬ」エリアであり、相当に不自然である。また、降臨後になぜ出雲には目もくれず奈良を目ざすのか?「国譲り」と「神武東征」がてんで噛み合っていないではないか。
 遡って国産みのこと。イザナギ・イザナミによって諸国が産み落とされる、その順序は記紀が編まれた時代までの皇室にとっての、それぞれの地の重要性を反映すると考えるのは自然な発想であろう。健やかに産み落とされた国々の第一は「淡路」すなわち「阿波路」、早くもここに「阿波・首都説」は有力な根拠を見る。
 実はこの件、伊予勢としても気になるところ…というのも、淡路/阿波路の次に産み出されたのは現在の四国四県であり、その筆頭は「えひめ」なのである。
 そもそも「四国」の古名は「伊予之二名島(いよのふたなのしま)」であり、「伊予」が四国全体を指すものとして用いられている。四国は後に出てくる九州同様、「胴体が一つで顔が四つある」ものとされ、四つの顔の名は順に、
  • 愛比売(えひめ) - 伊予国
  • 飯依比古(いいよりひこ、イヒヨリヒコ) - 讃岐国
  • 大宜都比売(おおげつひめ、オホゲツヒメ) - 阿波国(後に食物神としても登場する。あわは粟に通ずる)
  • 建依別(たけよりわけ) - 土佐国
 伊予と阿波が女性神、讃岐と土佐が男性神。「えひめ」の語源には「織物に優れた女性」「長女」など諸説あるようだが、いずれにせよ神話の登場人物名を県名にしているのは愛媛だけである。

 話が逸れたが、このように国産みにおいてイの一番に言及される淡路と四国が、天孫降臨にも東征に全く登場しないのもこれまた不自然。どうにもちぐはぐでしかたがない。
 内容も形式もユニークな『阿波から奈良へ、いつ遷都したのか』の著者・笹田孝至氏は、このちぐはぐの理由を「改竄」によるものと断じる。それは「歴史書としての本旨本貫を逸脱し、天皇家の権威を引き下げ」る目的で行われた意図的・組織的な改変であり、その首謀者・実行者は藤原不比等をおいて他にないという。
 この点に関して筆者が揺るぎない確信を持っていることは、『いつ遷都したのか』というタイトルからも窺われる。遷都は事実であって今さら真偽を論ずるまでもない、ただ、その時期はいつなのかと問うているわけだ。


 内容ばかりでなく形式もまたユニーク、23センチ × 18センチほどのこの出版物は通常の書籍ではない。中身は縦横それぞれ四重に折りたたまれた一枚の紙であり、広げると長辺 1メートル近い大きさになる。この大きさはダテではない、というのもその一面は阿波の地図であり、びっしりと記入された地名に注を付す形で、国産み、須佐之男命の大蛇退治、国譲り、神武東征などの子細が書き込まれている。つまり日本神話は事実上すべて、阿波一国の中で展開された歴史事実を記したものであり、阿波こそが古代日本の檜舞台であったことを、一面に集約して表そうという野心の現れなのだ。



 面白い。前項で「持てる限りの知的資源を投入して謎解きに挑む姿は好ましい」と書いたが、同じ面白さである。そういえばずいぶん昔、地球という惑星に火星や金星と違って大量の水が存在する理由を、とことん追求したわくわくするような本があった。ネット検索してみると僕だけではない、多くのファンが鮮やかに記憶している。これなども同種の面白さで、要するに荒唐無稽の誹りを恐れず、論理と事実を頼りに自分の関心を追っていく忠実さが良いのだ。ファーブルなども同じで、その結果として彼が進化論を拒絶したのだというなら、それは彼の愚昧ではなく純真の証である。


高橋実『灼熱の氷惑星』原書房(1975)

 どうも話がそれるな… 『阿波から奈良へ、いつ遷都したのか』は、ちゃんとISDNの付記された書籍であるのに、書肆情報で検索してもネットで出てこない。なぜだろう、僕が注文したときにはちゃんとアクセスできたはずだが?
 それはさておき、副次的な方面でいちばん印象に残ったのは、これほど重要な文書に関して笹田氏が「改竄」の存在を断定的に指摘する点である。しかし「これほど重要な文書に関して」というのが実は錯覚というもので、どうでもいい文書なら誤記や転記ミスは起きがちとしても、わざわざ改竄したりはしない。重大事件の本質に関わる枢要な文書だからこそ、隠蔽も改竄もしたい者があるわけで、その事例を日本人は昨年中イヤと言うほど見せつけられた。国家のありようの根本に関わる記紀なればこそ、改竄の存在をよくよく疑わねばならないというのが、歴史に正しく学ぶ態度というものであろう。
 綿密詳細を究める笹田氏の論考の結論に関しては、乗ってみたいのはやまやまだが、いくつか分からないことがある。たとえば「いつ」という核心的な問いに関して、氏は「平城遷都」がまさにその時であったとする。平城京の前の都である藤原京は、通説のように奈良県橿原市と明日香村にかかる地域にではなく、阿波国の現在でいえば吉野川市鴨島町にあったというのだ。西暦710年以前の国政の中心は阿波(倭)にあり、それが本州諸地域の発展に伴って奈良(大倭)に移されたのは必然的な事情によるものだったが、その間の経緯を何としても隠蔽したい理由が藤原氏にはあった。それが笹田氏の主張の根幹である。
 魅力的な説であるものの、斑鳩法隆寺に代表される710年以前の奈良地域の隆盛や、それを裏づける各方面の資料と折り合いのつくものかどうか。しかし、さすがに無理でしょうと笹田説を退けるなら、ぐるっと回って最初の疑問が復活することになる。記紀の伝える国産み・国譲り・東征など一連の物語は、地理的にあまりにもちぐはぐで何かが間違っているとしか思えないのである。

 改竄は、おそらく行われた。何がどう改変されたか、それが問題に違いない。直感はそのように告げる。
 それにしても、ああ改竄、また改竄、昔も今も改竄だらけ。
 これってウチだけですか?

Ω

『土偶を読む』を読みました

2022-01-02 07:50:43 | 読書メモ
2022年1月2日(日)
 ウィーン・フィルのニューイヤーコンサートを聴きながら、くつろいでページを繰っていくうちに、引き込まれてあっという間に通読してしまった。


竹倉 史人『土偶を読む ―― 130年間解かれなかった縄文神話の謎』晶文社(2021)

 「土偶の謎を解明した」との筆者の宣言に対しては、さっそく疑問や異論が出ているようで、例えば下記。
『土偶を読む』を読んだけど(1)https://note.com/22jomon/n/n8fd6f4a9679d
 議論の行方を楽しみに見守ることとして、持てる限りの知的資源を投入して謎解きに挑む姿は好ましく、文脈の副産物に収穫が多々あるのが読書の楽しみである。
 以下、抜き書き:

***

 古代人や未開人は「自然のままに」暮らしているという誤解が広まっているが、事実はまったく逆である。彼らは呪術によって自然界を自分たちの意のままに操作しようと試みる。今日われわれが科学技術によって行おうとしていることを、彼らは呪術によって実践する。遺伝子を組み換えたり、化学肥料を開発したりするのと同じ情熱で、かれらは植物に対して呪術を行使する。異なるのはその方法と費用対効果だけであって、収量を上げるために自然界を制御しようとする心性は何千年経とうが変わらない。(P. 30)

 人類ははるか古代から、この “善意ある存在” を ”精霊” として表象し、そのような存在から一方的に贈り物(ギフト)を受け取ることを良しとしなかった。秋には祭祀の場を設け、そこで精霊たちへ供物を捧げ、時には精霊と気前の良さを競うように盛大な返礼式(=収穫儀礼)を行ってきたのである。これは植物と人間における贈与論といってもよいだろう。長い都会暮らしで私の生命感覚は鈍磨していたようである。一粒の野生のクルミは、「食べる」という行為が単なる栄養摂取のそれではないことを教えてくれた。それは命という共通項を媒介にして、自分の肉体と植物とがひとつながりになる行為なのであった。(P.68)

 クリやトチノキがこれだけの密度で集中的に自生することは考えにくく、(是川)遺跡周辺には現代でいう「里山」が広がっていたことがわかる。つまり、人為的に植栽・間伐などが行われ、有用な樹種が優先するような森林環境が維持管理されていたのである。(P.101)

 ミミズク土偶が作られた縄文後期後半から晩期前葉にかけて、関東地方では直径三〜五センチメートルの木製や土製の輪状のピアスが流行していた。当時の服飾のトレンドが土偶の造形にも反映したのだと考えられる。(P.141)

 帰宅後、採集した貝を一通り試食してみることにした。
 収獲したのはマツバがガイ、ベッコウガイ、ウノアシガイ、キクノハナガイである。鍋で塩茹でにして、まず○○に食べさせ、問題がないようであれば私も食べてみた。(P.171-2)

 縄文の土偶製作者は抽象芸術家でもデフォルメ造形家でもなく、あくまで写実主義のキャラクター作家なのであるから、(P.172)

 目黒区にある八雲中央図書館…ここに『日本近海産貝類図鑑』が所蔵されている。この『貝類図鑑』実に1173ページにわたっておよそ5000種の貝類が掲載されている世界最大級の図鑑である 。(P.175)

 それゆえ、顔に関係する情報処理のシステムは特に発達しており…顔パレイドリアはいわばその副産物であって、実際には顔でなくても、そこに顔に似たパターンが存在すると、それを自動的に顔として認知してしまうのである。図はその一例だが、顔パレイドリアが不随意、つまりわれわれの意志とは無関係に発生することがわかるだろう。すなわち数ある資格情報の中でも顔状のパターンは”特別扱い”されており、特異的な強制力をもって顔の認知が生成されるのである。(P.196)

 顔文字も顔パレイドリアを利用している 。(P.197)

 「くりくり」「アルクマ」「ふっかちゃん」…どのキャラクターも被り物の部分が植物で、顔の部分は動物によって構成されている。これは当然と言えば当然である。動物には顔があって植物には顔がないからである 。
 こうした植物+動物というフュージョン系のデザインの最古のものが、トチノミとマムシが融合した5000年前のカモメライン土偶であったと私は考えている。この数千年の間にわれわれ人間の何が変わり、何が変わっていないのだろう。非常に興味深いトピックである。(P.228-9)

 アナロジーは似たものを探す。— 樹木の幹とそこから側方へ伸びる細い枝、これに類似したものは何か?そう、それはわれわれの人体の、胴体とそこから生えた腕の関係に似ているのである。
 こうしたブリコラージュによって樹木の枝が「腕」として表象されるのは極めて普遍的な事象である。アナロジーは人類の認知の基盤をなすものであり、最も普遍的な思考様式だからである。(P.948-9)

※ パレイドリアという言葉に、精神病理学以外の場所で出会ったのは初めてである。旧知のやや偏屈な友達に、旅先で思いがけず遭遇した感じ。
 最後の引用部分に関して、「手足」を「枝」と表現することは古語では日常的に行われていた。やや婉曲的な効果があるかと思われる。
 「帝いかり給ひて…四つの枝を木の上に張り付けて、火をつけて焼き殺し給ひてき」(水鏡・雄略)

***

 元日の夜の楽しみ、春から縁起のよさそうな。

Ω


謹賀新年

2022-01-01 08:36:39 | 日記
2020年1月1日(土)

 元旦の空は静かに澄んでいる。東の山稜から西の海面までただひたすらに明るく静まり、身のうちを流れる血の音まで耳を澄ませば聞こえてきそうである。

門松は冥土の旅の一里塚めでたくもありめでたくもなし

 まことにごもっとも、いっそ「めでたくもなくめでたくもなし」としたいようなものだが、この澄みきった静謐ばかりは心からありがたい。

Ω