散日拾遺

日々の雑感、読書記録、自由連想その他いろいろ。
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ツクシとホウシコ

2020-03-20 18:26:44 | 日記
2020年3月20日(金)
 空気は冷たいが陽差しは温かい。柿田の飛び地はもともと水田だったところで、そのためか放っておくと、すぐに稲科とおぼしき青草が腰高に繁茂して手がつけられなくなる。4月後半から7月前半にかけての緑に勢いには当たるべくもなく、そのような季節を「夏」と呼んだのではないか。単に気温が高い時期の謂ではなく、自然の相を観じて季節を数えたに違いない。8月とりわけお盆も過ぎると、緑の現在量は大きくとも質的にはピークを過ぎて熟れ始める。すなわち「秋」である。
 夏が来る前に青草の根株を少しでもこそげておこうと、草刈り機をブンブン振り回していたら、知らない間にこびとがやってきて人のスマホに写真を残していった。


 柿田の飛び地は河野川に面した北向きの斜面に四段を数え、刈っているのは上から二段目。もう一段下に大きな栗の木があり、その周囲一面に土筆(つくし)が生えているのに一昨日気づいていた。あらためて見回せば、飛び地の至る所に茶色い頭が見えている。料理人も到着したこととて草刈り機を置き、卵でとじると旨いんだぞと舌なめずりしながら二、三本採ったところで、ああ無念。どれもこれも胞子がはじけた抜け殻ばかりで、味も風味も期待できない。数日遅かった、遅かりし由良之助~


 土筆はスギナの地下茎から生じた胞子茎だから、胞子をつくって放出するのが役目である。大役終えて枯れるのを待つ立ち姿が西陽に誇らしく、「使命は遂げた、煮るなと焼くなと好きにせい」と言わんばかりの凜々しさよ。まことに今年は完敗だ。

 「ツクシは、スギナにくっついて出てくることから「付く子」、袴の部分で継いでいるように見えることから「継く子」となった説が有力である。「つくしんぼ、つくしんぼう」(土筆ん坊)、地域によっては「ほうしこ」(伊予弁等)とも呼ばれる。 」
(wikipedia)
 正しくも良く書けており、両親とりわけ母はもっぱら「ほうしこ」と呼んでいた。大和言葉の響きがあり、いっぽう胞子は漢語で植物学用語だから、「胞子(の)子」ではないだろうと思うのだが、それなら「ほうしこ」とはどんな意味かと訊かれると対案がない。偶然にしてはよくできたものである。
 誕生日でもあり、俳句好きなら一ダース分の素材がありそうな春の日の午後。

Ω


 


【読書記録】「中村屋のボース」

2020-03-12 19:25:32 | 読書メモ
2020年3月12日(木)
 中島岳志 『中村屋のボース ー インド独立運動と近代日本のアジア主義』 (白水社, 2005)

 出版時に話題になり、書店に平積みされてから既に15年経っている。話題作はすぐに読まない/読めない性だが、ほとぼりが冷めて入手するまで7~8年、それから読むまで7~8年では気が長すぎるか。
 もっとも、 ネット上の詳しいレビューも最近のものが多い。著者の玄洋社理解に対して疑問を呈したものが複数あり、これは一書の評価を超えて重要な問題につながっている。「ノンフィクションであって学術書ではない」といった批判もあるが、だからこそ学術書よりノンフィクションを求める読者 ~ 僕自身を含む? ~ に歓迎されるのだろう。さしあたり、こういう人物がいてこういう事実があったことを知るだけで、大きな収穫である。僕など恥ずかしながら、R.B.ボースとチャンドラー・ボースの区別がついていなかった。

 読むにつれて関心・疑問はしばしば trivial な方向へ流れ、たとえば1915年当時、イギリス外務省からR.B.ボースの逮捕要請があったにも関わらず、日英同盟(1902-23)の時代でありながら日本政府が簡単には応じず、むしろボースを泳がせておこうとしたらしいことが大いに気になる。
 インドの独立運動はイギリスにとって獅子身中の厄介な虫で、第一次世界大戦勃発(1914)後はなおさら危険な存在となりつつあった。日露戦争から10年を経て、イギリスの歓心をつなぐことが既に外交上の必須条件でなくなっているとはいえ、この非協力は相当に露骨で敵対的と見なされかねない。当時の日本政府にどんな判断や計算があったのか、その後のアジア展開に関してどのような展望をもっていたのか、そのあたりが知りたくて仕方がないのである。(P.69あたり)

 これに関連して、下記のくだりが面白い。
 「R・B・ボースとグプターの二人は、退去命令書を手にしたまま、即座に頭山満のもとへ向かった。彼らは在宅中の頭山と面会し、国外退去命令を受けたことを伝えるが、頭山は彼らの話す英語がわからない。R・B・ボースが途方にくれていると、尾行の警官が間に入って通訳をした。」(P.84)
 「尾行の警官」とさらりと書いたものだが、1915年当時英語が堪能であったことだけをとっても、この警官はただの巡査などでありえない。相当に能力の高い諜報担当者と見るべきで、それがわざわざ尾行対象者に通訳の便を買って出るなど「ありえない」図である。政府・警察側が暗にR・B・ボースらの逃走成功を望んでいるとしか思えないが、その解釈でいいのか。
 さらに trivial に食い下がるなら、なぜ尾行者は「間に入る」ことができたのか。在宅中の頭山満と面会するにあたって、インド人二人はまず頭山邸の応接間に通されたに違いない。路上の立ち話なら尾行者が「間に入る」こともできただろうが、頭山自身が招じ入れるのでなければ、屋外から中を窺う以上のことはできなかったはずである。
 実は相当に大事な場面で、ここはぜひとも資料根拠を示しつつ、綿密に考証してほしかった。

 思いがけない余得が一つ、東銀座のインド料理店「ナイル」に個人的な思い出がある。医科大の二学年上にKというアジア通があり、学生時代のアジア好きが嵩じて現在もILOで活躍中である。確かこのKが「ナイル」に連れて行ってくれた。その後に教会通いを始めた頃、小川貞昭牧師が辛いものを好むと知り、あるとき誘って連れ出した。祖父に甘える孫の気分でもあったか、ともかく辛いカレーにこちらが悪戦苦闘するのを横目に、よく光る頭に汗一つ浮かべず涼しげに平らげていらしたのが懐かしい。
 「ナイル」といってもエジプト料理ではない、インド人創業者の名前だとは当時から聞いていたが、この人物がP.215-6に登場するA.M.ナイルであるという。1928年に来日して京都帝国大学の土木工学科に学んだ後、1933年に満州に渡り、満州国を舞台にインド独立運動を推進した人物である。中村屋もナイルも、今ではそうしたものものしさと無縁の食事処になっているのが面白い。

***

 確かにノンフィクション的であるかもしれないが、R.B.ボースという人物の生涯がただ一つの目的に捧げられていることに対応して、書籍全体の主題も副題が示す方向に自ずと収斂する。著者自身のあとがきから転記することで、読書記録に代えておく。

 「R.B.ボースの提示する思想には、共鳴する部分が多かった。彼のインド独立に賭ける並々ならぬ情熱にも激しく心を動かされた。その人間性にも魅了された。しかし、彼が最終的に日本の膨張主義を看過し、その軍事力を利用してインド独立を成し遂げようとした点に、どうしても引っかかりをおぼえた。日本に亡命し帰化した彼には、そのような道しか選択の余地が残されていなかったのだろうかという問いが、私の中で何度も駆け巡った。
 私は、R・B・ボースが書いた文章に向かって、そのことを問いかけ続けた。
 本文中で見たきたように、R・B・ボースは、1920年代には日本の志那保全論者を厳しく批判し、日本政府や玄洋社の「支那通」たちに対して厳しい見解を示した。また、日本の朝鮮統治に対しても、立場上、公の場では明言することが出来なかったが、常に強い不満を抱いていた。インドの独立を目ざす彼にとって、帝国主義的傾向を強める日本は、インドを苦しめるイギリスと同じ穴の狢であった。しかし、1930年代に入ると満州事変を境に、R・B・ボースは日本の中国政策批判を完全にやめた。そして、日本によるアジアの解放というイデオロギーに、インド独立のための戦略的観点から同調していった。
 一方、彼はインドの宗教哲学者オーロビンド・ゴーシュの思想に大きな影響を受けており、究極的には国民国家体制を超えた世界のあり方を志向していた。そして、それを実現するため、東洋精神の発露としてのアジア主義を唱えた。R・B・ボースにとって「アジア」とは、単なる地理的空間ではなく、西洋的近代を超克するための思想的根拠であり、個々人の宗教的覚醒を伴う存在論そのものであった。彼は、物質主義に覆われた近代社会を打破し、再び世界を多一論的なアジアの精神主義によって包み込む必要があると主張し続けた。しかし、そのような理想は、「大東亜」戦争のイデオロギーに吸収され、それを補完する役割を果たした。結果的に、大日本帝国による植民地支配や「大東亜」戦争は、多くの人命を奪い、アジア諸国の人々の尊厳を深く傷つけた。
 R・B・ボースは、イギリスの植民地支配からインドを独立させアジア主義の理想を実現させるためには、日本という帝国主義国家の軍事力に依存せざるを得ないという逆説を主体的に引き受けた。「ハーディング爆殺未遂事件」などのテロ事件を主導してきたR・B・ボースは、目的と手段が乖離するというアイロニーを、避けて通ることのできない宿命と認識していた。彼はテロや戦争の限界を十分に理解した上で、なおかつそのような手段を用いなければ植民地支配を打破することなどできないという信念をもっていた。
 そして、この問題はR・B・ボースの生涯に限定された課題などではなかった。これは近代日本のアジア主義者や「近代の超克」論者がぶつかった大きな問題であり、広く近代アジアにおける思想家・活動家たちにも共通する難問であった。「近代を超克し東洋的精神を敷衍させるためには、近代的手法を用いて世界を席巻する西洋的近代を打破しなければならないというアポリア」こそが、20世紀前半のアジアの思想家たちにとっての最大の課題であり、苦悩だったのである。」
(P.331-2)

Ω

3月11日

2020-03-11 12:18:33 | 日記
2020年3月11日(水)
 2011年3月11日は金曜日、つまり終日クリニックで診療にあたる日だった。そのことがこの一日を、なおさら忘れ難いものにしている。2時46分に目の前にいた患者さんのこと、それ以降に来た人のことと、来なかった人のこと、いろいろあるが真っ先に思い出すのは、その朝の通勤途中のことである。
 目黒駅で私鉄を降り、昇りエスカレーターに足をかけた途端、目の前に手袋が落ちた。しなやかな女物である。拾って前の女性に声をかけると、「あ」と会釈して受けとった。それだけなら記憶に残ることもなかったろうが。
 エスカレーターを昇りきった時、女性は一歩横へ退いてこちらに向き直り、
 「ありがとうございました」
 あらためて丁寧に頭を下げた。
 「どういたしまして」
 それだけのことである。
 女性の姿形も、年の頃もわかりはせず、思い出せもしない。ただその礼儀正しさが通勤の混雑の中で一瞬つつましく香ったこと、それを決まって思い出すのである。あの女性はあの日そのあと、どんな一日を過ごしたのだろうか。

 クリニックは当時、中央線沿いのバス通りに面した雑居ビルの5階にあった。揺れの後は停電が起きて、患者さんはエレベーターで上がってくることができない。外付けの非常階段があっても、5階まで昇ってこられる健脚の患者は少数である。
 どうするかと医者らが相談するより早く、受付の若い女性二人がすばやく対応した。一人が地上に降りて来院者を待ち受け、その場で簡単に仕分ける。診療を急がず処方だけで足りる患者については、その旨を医師に伝えて処方箋を出してもらい、地上に戻って患者に渡す。診察を希望し、階段を昇れる患者だけを5階にあげる。この工夫のおかげで、その後の診療は驚くほど円滑に進んだ。
 ただ、そのために彼女らは1階と5階を何十回往復したことか。若く元気な脚にもさぞや負担だったに違いない。いずれ言葉を尽くして労いたいと思ったが、その機会はめぐって来なかった。震災後いくらも経たないうちに、二人揃って退職したのである。その日その後に何があったのか、事情はわからぬままだった。

 それぞれ、今はどうしているのだろうか。

Ω

3月10日

2020-03-10 08:55:56 | 日記
2020年3月10日(火)
 かつてこの日に何があったかということが、ここへ来てようやく語られ始めている印象がある。たとえば下記。

 自分の成長期に8月6日・9日・15日の意味は聞き漏らすべくもなかったが、3月10日について意識したのはずっと後のことだった。むろんこれは象徴的な日付であって、事実上すべての日本の都市と、その住民が経験した惨劇の最も大規模な例に他ならない。ただ東京の場合に特筆されるのは、住宅密集地を周囲から中へ向かってあまさず焼き尽くし、住民を皆殺しにしようとする意志と計画性が空前絶後の成功を収めている点である。
 つらいできごとの記憶をことさら維持するのが、怨恨や憎しみの増幅のためであるなら愚かしいし、東京でわれわれに行われたことを、重慶でわれわれが行ったことと切り離すこともできない。記憶に促されて歩き出す方向を選ぶのは今の自分であるけれども、これほどの事実を知ることなしに、ぼんやり生きて幸せになれるとも思えない。
 上記サイトの筆致にどこまで共感するかは人にも依るだろうが、3月11日とあわせて3月10日を忘れまいとの呼びかけは至当なものである。3月をそういう月として過ごしたい。上中旬に歴史と苦難を振り返り、下旬の入りの春の彼岸に祖霊を思う。この季節が教会暦の受難節(レント)にあたるのも天啓と思われる。

 既に何度か書いたので手短にすませるが、かつて長期政権の首班をつとめ剰えノーベル平和賞を受賞した大政治家が、東京空襲の立案者であり遂行者であるカーチス・ルメイに勲一等旭日大綬章という本朝最高の栄誉を贈ったことは、われわれの国の「国柄」に関する重要な示唆を与えている。
 われわれの国家は、国民を守ることを第一の目的とは決して考えていない。その意味では、存在そのものが憲法違反のようなものである。それはたとえば、新型コロナウィルス禍の初期において困難を経験した一住民の下記の投書によっても知られ、日本の空を覆う米空軍の聖域を歴代政権が問題にしようともしないことからも裏づけられる。
 コンビニ強盗の濡れ衣を着せられかけた若者を、すんでのところで冤罪から救い出した母親が「こんな平和ないい国に生まれて、幸せやと思うていた自分が浅はかでした」と涙ながらに述懐したのも、やはりこのことにつながっている。


 編集者は「礼節を欠いた」と表現しているが、不正確ないし不十分である。欠けているのは礼節などという微妙なものではなく、「人権の尊重」という政治権力にとって最も重要なわきまえであり、困難のうちにおかれた国民の焦眉の急に対する想像力と配慮である。誰が担当しても難しい状況なのだから、個別の失敗や不手際をいちいち難じようとは思わない。ただ、基本的に顔がどちらへ向いているかが問題なのだ。1945年から今日に至るまで、この点でどれほどの進歩があっただろうか。

半藤氏のオピニオン / カーチス・ルメイ叙勲のこと
https://blog.goo.ne.jp/ishimarium/e/0f2946932814b707cac0a825697650bc 
秋の憂鬱
https://blog.goo.ne.jp/ishimarium/e/65fe29bacd2fd146c15932bf8464758c 
トト姉ちゃんの不思議/岡山は6月だった
https://blog.goo.ne.jp/ishimarium/e/8f9f207c5215fca5b948ff773bfb599d 
夏が来れば思い出す
https://blog.goo.ne.jp/ishimarium/e/3c079b276b5bafe0b3ff3eed286a7bc2 

Ω



 

太田バイオリン教室同窓の皆様へ

2020-03-08 23:33:25 | 日記
謹告

「はじめまして」様 (2014年8月12日コメント拝受)
> 私も太田先生からバイオリンを習いました。懐かしいです。K子さんとともに昔を思い出しました。

「M田」様 (2020年3月8日コメント拝受)
> 父がSK中金に勤務、松江で小4まで太田先生に習いました。K子さんと一緒に遊びました。当時太田先生に習っていた友人と時々アンサンブルを楽しんでます。

 コメントありがとうございました。反応が遅くなって申し訳ありません。
 お差し支えなければ下記まで御一報いただけないでしょうか。教室の皆様のその後の御様子など、お聞かせいただければありがたく存じます。

sanjitsushuui@gmail.com

  亭主敬白