散日拾遺

日々の雑感、読書記録、自由連想その他いろいろ。
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2月の西行(上)

2020-03-04 22:49:29 | 日記
2020年3月5日(木)
 ほぼ一ヶ月前に書くはずだったこと。
 2月9日(日)に奈良学習センターで公開講演会、このため前日8日(土)に新幹線で関西に入った。
 その時点では知らなかったが、この日は日本棋院の棋士採用試験が行われ、張栩九段・泉美六段の長女である心澄(こすみ)さん(13歳)が合格してプロ入りを決めた。スーパーファミリーの4代目誕生、もっとも、そういう角度から騒ぎすぎて若い人たちに妙な負担をかけるのは愚かしい。それよりこちら、2014年9月のこの記事を懐かしく読み返す。つまらないことと思っても折々に書いておくものだ。さて、治勲さんはどんな祝辞を贈ったのかしらん。
 → 「かわいいやりとり」
https://blog.goo.ne.jp/ishimarium/e/ebdf0243a28c9d3b4ada8c75c6831e52

 のんびりした移動にするつもりで早く出たのに、家を出たとたん珍しくショートメッセージの着信音が鳴った。北海道在住の従弟からで、彼の父つまり僕にとって義理の叔父の容態が急に傾いたという。こちらは三代続く牧師の家系で、叔父はかつて活躍した大津で療養中である。今日の目的地である神戸に直行する予定を急遽変更、京都で新幹線を降りて在来線で二駅戻り見舞いに立ち寄った。
 例にない奈良出張、しかも思うところあって早めに出たのでなければ、この見舞いは成立しなかった。ここ数年こういうことが頻りに起き、人生が偶然の連鎖であるとは次第に信じられなくなっている。関西在住の叔父叔母よりも一時間早く病室に着き、しばらく水入らずで過ごした。語りかけても返事はないが、酸素マスク越しの眼が反応し、握り返す手の力が思いのほか強い。

 叔父が大津で牧師をしていたころ、こちらは名古屋に住んでいたから、週末は父が名神を飛ばして大津を訪れ従弟らと風呂に入ったりした。山好きの叔父に連れられて石鎚山に登ったのは高校二年の夏、雨で景色は少しも見えず、山小屋で逼塞していたっけ。
 叔父が京都教会に移ってからも、よく遊びに行った。西陣の堀川病院を見学の帰りに立ち寄ったら、「いいところへ来た、これから醍醐寺に行こう」という。醍醐寺ですって? 叔父はコーヒーを淹れるのが好きである。醍醐寺の水は美味と定評あり、「醍醐味」という言葉はそこから出たのだ、水をくんできてコーヒーを飲もうと講釈付きで、夏の盛りにのこのこ出かけていった。
 「醍醐味」の話はやや正確を欠いたようだが、そこは牧師であって仏教の専門家ではないのである。ともかく好奇心旺盛で「牧師」の定型におさまらず、至って磊落な人物だった。ポリタンクに水を満たして帰り道、「今日は甲子園で池田高校の試合やったな」とそわそわし始めた。野球を見るのも好きである。道沿いの団子屋に入って「池高どうなってますか」と叔父が訊いたら、「負けてますな」と愛想のかけらもない京都の挨拶。夏春夏の三連覇に挑む池田高校が桑田・清原のPLに、0-7でまさかの敗北を喫する瞬間を醍醐寺近くの団子屋で見た、つまりあれは1983年の夏だったのか。数々の武勇伝をもつこの牧師の甥ではあったが、まだ信徒ではなかった頃である。

 牧師館で約束通りコーヒーを振る舞われ、その足で東京へ戻った。乗り換えの大阪駅の売店にスポーツ新聞の号外が出ている。通りがかりの小学生たちが、
 「わ、PL勝ちよった!」「やったやった!」
 当然ながら大阪訛りで躍り上がったことなど、叔父の手をさすりながら思い出しては告げてみる。
 これが叔父との地上で最後の語らいになった。

Ω


連帯と同調

2020-03-04 10:36:08 | 日記
2020年3月4日(水)

 「連帯を求めて孤立を恐れず」
 安田砦の壁かどこかに記された有名な落書で、日本人の急所を突いた名文句である。

 これをきれいにもじったものがあって、
 「孤立が怖くて連帯できず」
 こちらは後年のたぶん天声人語? 見事に図星を指された感あり、以来折に触れて思い出す。

 このように「連帯」と「孤立」の狭間で懊悩葛藤したのが、昭和も半ば過ぎの青年像。もっとも「昭和」は60余年に及んだ。時間的な長さばかりでなく、その歴史内容において一元号の限界をはるかに超え、20年刻みで前・中・後期にざっと三分しただけでも、各意味合いはまったく違う。令和の人間が自分にとって古く感じるものを何でもかんでも「昭和」で括るのは、日本人お得意の歴史無視(虐待?)の卑近な例というものだ。それで「半ば過ぎ」などとせめてもの注釈をつけたのだが、気がつけば「連帯」はほとんど古語辞典に属する語彙になっている。
 レフ・ワレサらの「連帯」は原語で何というのか、ポーランド語のソリダルノスチ、英語の solidarity にあたるものらしい。ポーランド人にとっても、やや堅苦しい言葉のはずで、だからこその意味創出力があっただろう。デュルケムが「有機連帯 organic solidarity」ということを考えたともある、大根の育て方の話ではない。何しろこの言葉には輝かしい響きが、聞く耳のあるものにとっては伴っていた。花はどこへ行った?

 令和初年の超キーワードは「同調」で間違いなかろうが、「孤立」が死ぬより怖くて人がしがみつくのが「同調」だとすれば、上記の昭和セットの行間に既にその影はありありと浮かんでいる。むしろ「同調」の形に、戦前版・高度成長期版・バブル崩壊後版といった亜型を見るべきか。平成から令和に入ってそれは行間を抜けだし、社会の表舞台に踊り出た。
 同調圧力に振り回され煩悶する忙しい日々、「連帯」などはヒマ人の嗜好品。さしずめ
 「同調気にして連帯知らず」
 といったところか。
 ウィットもひねりもないな、これじゃ。

Ω