散日拾遺

日々の雑感、読書記録、自由連想その他いろいろ。
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ランタナの仕立て方

2018-11-18 13:42:48 | 日記

2018年11月13日(火)

 ランタナという植物はいつ頃どこからこの国に渡ってきたものか、子どもの頃には見た覚えがなく、いつの間にか田舎家の庭に現れ、いったん根を生やしたうえは強靭な生命力と旺盛な繁殖力で、うっかりすると一面を占領しかねない勢いである。Wikipedia によれば南米原産、世界中に帰化植物として定着し、日本では小笠原諸島、沖縄諸島に移入分布しているとある。やや現状に遅れているようだ。

Wikipedia

  花はハマ細工みたいな幾何学構造で色分けがパッチリ美しいが、枝がしっかりしてアシナガバチの営巣にも適するから油断ならない。のびのび伸ばせば2メートルを超える高さになり、それを生かして門のアーチに仕立てている例が東京の近隣に散見される。似たような眺めをネットから拝借。

http://kono1.jp/hitokoto/hitokoto11928

  こんなのに前庭を塞がれてはかなわないので、邪魔にならない場所に一株だけ残し、木小屋後の草地にニ株移植して、他は丁寧に抜きとった・・・つもりだが、早晩思いがけないところからピンクや橙色の花が顔を出すことだろう。

  可愛くて厄介な風情を思い浮かべながら職場近くを歩いていたら、突然目の前に実物が出現した。一瞬わからなかったのは、こんもりとした冠状の剪定ゆえである。腰高の丸い樹冠を覆う花がツツジでもサザンカでもないランタナとは予想の外、予想とか想定とかは日常環境に広く浸透して一帯を無毒化している。そのシールドに綻びがあった。

 葉々の奥に透見される枝の一部は、幹と呼べるぐらい太くしっかりしている。どのくらい年月をかけたものかわからないが、この一株に注目した誰かが絶えず心を配り、刈り込みと剪定を丹念に繰り返したことはまちがいない。できあがりを見れば、手塩にかけた人の影が朧に浮かぶ。花木も人も同じことである。

***

 「他の生徒に個別に対応している時、大抵の子は予め与えられた課題を完了することに汲々としていますが、彼は必ず私の話す言葉に耳を聳(そばだ)てています。課題は後でもできるが、その場のやりとりはその場でしか聞けないことをよく知っているのです。
 あれだけ優秀な頭脳をもっていれば、他との違いを感じて慢心することが避けがたいとしたものですが、彼はいつも驕らず謙虚です。そう言えば彼のお兄さんもそうでした。
 おそらくこういうケースでは、幼少から日常的に優れた人と接していたり、偉大な人々の話を聞いたりして育ったため、少々できても自分はまだまだと考えるのでしょう。能力を比較する対象がそもそも違うのですね。
 一つ一つは小さなことの積み重ねが、総合されて大きな違いを産み出していく、そのことを実感する次第です。」

 ある教師がある生徒を評したものだが、評されている子どもの将来性とともに、評する側の観察と推理の深さ、子どもに向けるまなざしの温かさを好もしく思う。子どもがある形にまで育った時、その樹冠や枝ぶりを整えるべく丹精込めた手の跡が、見える者には見えるだろう。その繰り返しが文化をつなぐのである。

Ω


三「しょう」一線

2018-11-18 12:46:45 | 日記

2018年11月18日(日)

 6勝1敗で三人並んだ。

 貴景勝、大栄翔、阿武咲、みんな四股名に「~ しょう」がつく。

 当てる漢字はみんな違うが、いずれ劣らず相撲は元気。録画を見るのを楽しみに、ただいまゼミの真っ最中。

...似てる?

Ω


The Killing Bottle

2018-11-17 16:47:56 | 日記

 2018年11月8日(木)

 本屋で『赤と黒』を冷やかしながら、この日は電車内で別のものを読んでいた。

 大学一年の英語の授業に少々思い出がある。1975年度は別々の講師による2科目が開講され、その一つで読んだのはフィッツジェラルドの『バジルとジョセフィン』、少し前に映画が公開されて話題を呼んだ『華麗なるギャツビー』のプロトタイプともいうべき小品。もう一方がL.P. ハートリーの『毒壜 The Killing Bottle』という短編だつた。

 思い出があるというのは両科目の成績評価に関わってだが、さらりと面白く書く自信がないので今は割愛。それよりも "Killing Bottle" の中にひっかかる表現があり、この40年間ときどき思い出していたという件である。62頁ほどの短編の冒頭、主人公の人となりが素描される下り。

 "... How well he had done at school, and even afterwards, while his parents lived to applaud his efforts!  Now he was thirty-three; his parents were dead; there was no one close enough to him to care whether he made a success of his life or not.  ..."

 そう、この部分をあらためて確かめたくて、書架の底から引っ張り出してきたのだった。

  個の自立を尊ぶ西欧人にもこういう心の動きがあるものかと、そこがいちばん不思議だったのである。不思議に思った当時は大学に入りたての18歳で、親離れなどはそのうち自然にできるものと思っていたところへ、33歳の英国人にこんなことがあり得るとすれば、そう簡単ではないのかなどと落ち着かない気がした。

 読み直している40数年後の今は親を亡くすということがついに現実となり、さて自分の内に何が起きるか、興味と不安こもごも抱えて眺めているところである。何が起きるにせよ、少年期の葛藤めいたものが焼けぼっくいよろしく再燃していることは疑いない。自分の子どもが大人になる頃に、自分の中の子どもが再活性化するのはよく知られたことで、「更年期」とはイヤな言葉であるが、使い方のために殊更イヤな言葉にされた観がある。

 「更」の字義は下記の通り、

① あらたまる。あらためる。「更改」「更新」「変更」

② 入れかえる。入れかわる。「更代」「更迭」

③ 一夜を五つに分けた時間の単位。季節によって長さが異なる。中国・朝鮮の古い制度の伝わったもの。

 ①、②の意を汲んでの「更年期」なら意義深くてけっこう、今まさにその期を迎え「あらためて」気になる文を読み直してみたわけだ。

***

 『毒壜』の実質的な登場人物は4人だけ、イギリス人男性3人に混じる紅一点が、「城」への招待者 Rollo Verdew の妻なるロシア人女性である。この布置で思い出すのはたとえば『魔の山』のマダム・ショーシャで、西欧的秩序の支配する重たい空間へ身軽かつ蠱惑的に切り込む攪乱者として、ロシア人女性は最適であるらしい。事実この女性は「イギリスの男」の鈍重さを思うさま切り捨ててのけるが、それは目の前にいるのがイギリス人男性だからであって、ロシアの男たちを懐かしむとか称揚するとかいった含みは全くない。

 かつ、ジム某には「他人から期待されるところを果たそうとする」傾向や、決断を外部の状況なり人物なりに委ねる傾向があるとされ、それがこの女性との対比をいっそう鮮やかにするのだが、このあたり返す返すも英国人より日本人に近いものを感じさせる。主人公のこの性格設定がイギリスの読み手にとって heimlich なものか fremd なものか、少々興味深い。

 作品そのものにはとりたてて魅力を感じないが、せっかくならもう少し読んでみたくて一冊とりよせた。装丁は悪くない。

Ω

 


今場所の注目は・・・

2018-11-12 17:34:17 | 日記

2018年11月12日(月)

 毎度のお願いですが、

 顔をむやみに張るということ、力士の面々には是非とも控えてほしい。流れの中でたまたま顔に入るのは致し方ないとして、故意に顔を張るのは禁じ手・反則にせよと言いたいぐらいだ。横ビンタを張るという行為は、相手を侮辱しメンツを潰すという明瞭な心理社会的意味をもっている。それが国技の土俵上で連日公然と行われるなど、情けないことこのうえない。武道なのか、ケンカなのか、以上はモラルもしくは美学の問題。

 のみならず、

 張り手はスポーツ力学的にも合理性を欠く。相撲の根本は低い腰の備えから押し上げ、相手の体を浮かすところにある。下から上へが突き押しの原則。これに対して、立ち合いに手を伸ばして顔を張りに行く動作は、自分の重心を高くし脇を甘くする結果を必然的に生じるから、冷静に対応されたらかえって不利を招く性質のものだ。ただ、顔を張られると反射的に突進が止まるのは力士といえども避けがたく、その神経心理学的な(?)利得が力学的なマイナスを上回るという裏技性が張り手の正体である。要するに姑息で下品な小細工だが、それで楽することを覚えると下品でもやめられなくなる。記録的にはずば抜けて史上一位の大横綱がいつになっても張り手をやめない、誰もこれをやめさせない、ああイヤだイヤだ・・・

 などと嘆いていましたら、

 小結・貴景勝。貴乃花部屋の閉鎖と千賀ノ浦部屋への移籍という落ち着かない状況の中で、初日に稀勢の里、二日目に豪栄道を破って一躍脚光。結果よりも、その内容に注目したい。初日は稀勢の里が一度、二度と張りにきた。先場所までは、貴景勝自身が腕を振り回してビンタを張る下品の筆頭、張られるとカッとなって張り返すのが落ちだったのに、この日は違う。相手の小細工にお構いなく丸い体をさらに丸めて押しに押し、最後は横からの「いなし」一発で横綱を土俵に這わせた。二日目は豪栄道が立ち合いに左から張りに行ったが、短躯の貴景勝が低く出てくる肩の上で見事に空振り、逆に左からの強烈な「いなし」でこれまた突き落としの勝ち。

 顔を張るのをやめ肩口あたりを「いなす」ことを覚えた小結が、性懲りもなく顔を張りに来る横綱・大関を連覇する図が痛快である。昔から四つ相撲ファンで押し相撲に惹かれるところがあまりなかったが、今場所の貴景勝は見守りたい。相手が何をしてこようが動じることなく、低く出てひたすら押し、動き回り、機を見ていなす。誠実愚直な相撲ぶりが、15日間貫徹されることを祈る。

http://www.sumo.or.jp/ResultRikishiData/profile/3582/ より拝借

Ω

 


赤と黒の誤訳の話

2018-11-08 22:41:24 | 日記

2018年11月8日(木)

 翻訳を鵜呑みにせず原文を確認すること、あわせて複数の翻訳をつき合わせて比べてみること、この性癖とりわけ後者の最初のきっかけは、たぶん『赤と黒』である。

 高校一年の時に友人から借りた訳本で読み、よく分りもしないまま、あれこれあげつらっていた。しばらくして、たぶん高校の二、三年頃であろう、本屋で立ち読みしていて偶然気づいたのである。第一部の終わり、つまり上下二冊の文庫版だと上巻の最後の頁、ジュリアン・ソレルのおイタがバレてルナール氏邸から遁走する場面。誰かの放った銃弾が身をかすめたところで、厚かましくもこの悪戯者が値踏みする。

 「(銃を発射したのは)ルナール氏じゃないな」

 ここまでは同じ。その後が、

 「あの人の射撃は下手くそだから、こんな風には撃てやしない」(S文庫版)

 「あの人にしちゃ、拙すぎる」(I文庫版)

 まるで正反対なのである。むろん、どちらかが間違っているのだ。今夕、三省堂二階の文庫コーナーでふと思い出し、確かめてみた。あれから40年以上経ち、誤訳のあった側は訂正したに違いないと思ってのことだったが、何とびっくり、今でも食い違ったままである!

 面白くなってきた。同じフロアに洋書のコーナーがある。原著がないかと探したが、残念ながらフランス語版は見あたらず、代わりにペンギンの英訳版が見つかった。ワクワクしながらその箇所を開くと、

 "(He's)too poor a shot for this."

 shot には「射撃」とあわせて「射手」の意があり、これはS文庫版と同方向の訳である。しかし、だからS文庫が正しいとも限らない、ペンギンも間違えている可能性だってあるわけだが、文の構造が互いによく似た仏・英語間で、この種の間違いの起きる可能性は低かろう。

 あとは帰宅後に原文探し。便利な時代、2分で見つかるこのサイトに原著まるまる載っている。 https://beq.ebooksgratuits.com/vents/Stendhal-rouge.pdf

 件の箇所は、

 Ce n’est pas M. de Rênal, pensa-t-il, il tire trop mal pour cela.

 末尾を英語に逐語変換すれば、

 He shoots too poor for this.

 つまりルナール氏の射撃は「からっぺた」と見切っているわけで、どうやらS文庫の勝ちらしい。このほうが主人公とルナール氏との心理的な布置ともよく照応する。

 大出版社の起用した大家の訳でもこういうことが起きる。「必ず原文にあたれ」とは、法学部と医学部それぞれにおける恩師 ~ 片岡輝夫先生と融道男先生 ~ が、奇しくも異口同音に厳しくおっしゃったことだった。学恩に報いるに程遠い毎日ながら、ゼミなどあるたびに「オリジナルにあたる」ことの意義を繰り返し伝えている。中途半端にアタマの回る小才子より、腹の据わった鈍才のほうが愚直に守るようである。

Ω