2018年10月26日(金)に遡って・・・
のど飴を舐めながら診療にあたることを患者さんに詫びながらの一日 - どこかの議員がこれで難クセをつけられたそうで、事実なら気の毒というほかない。そんな低級な言いがかりをつける患者さんは当外来にいないが、こちらの気もちとしていちいち詫びを言ってたら、気の毒そうに「まだ治らないんですか?」と言われた。
この人は先週に続いての来院で、確かに先週も同じ詫び言を言ったのだ。一週間も風邪を引きずるのは自分としても珍しいが、実は単純に引きずっているのではない、今週前半は気管支炎レベルまで重症化し、放送大学へ来て初めて収録予定をキャンセルした。どうも回復が遅い、歯がゆいほど疲れが抜けないとこぼしたら、高校の同窓女子からメールで慰められた。
> 私も二年前夏に父が亡くなった後で秋に肺炎になり1週間入院しましたよ。
> 娘に三人目が産まれる直前で、家族巻き込んで大変でした。
> 休養が必要です。
まるで同じだ、そういうものか。ライフイベント・ストレスの病原性に関する Holmes と Rahe の仕事だの、書きかけの原稿に自分がつけた「鈍感な心と雄弁な身体」というタイトルだのを思い出し、なるほど体は正直なのだと再確認。「お疲れが出ませんように」というさりげない挨拶の、知恵の深さにも感じ入る。
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こういう時に学術書だの何だの、ものものしい言揚げなどは鬱陶しいばかりだが、ふと三男が残していった書棚の本から『宝島』を手に取ったら面白くてやめられなくなった。
通勤の往復、昼休み、そして夕食後まで、明日から土日の面接授業、咳が止まらずガハゲハ言いながら、やめられない、止まらない、結局読みきってしまった。
スティブンソン(Robert Louis Balfour Stevenson、1850-1894)の筆の力といってしまえばそれまでだが、彼の文章は「天才の閃きというよりも、入念に推敲を重ねて練り上げられた労作」であり、従って「非英語国民の英語学習にもふさわしい」という趣旨の解説を確か "the Suicide Club" の対訳本で読んだ。コケの一念とばかり原文にこだわったおかげで、かえって多くを読み損ねて今日に及ぶ。
蒲柳の質にて 44歳で早世したが、その早い晩年には南洋生活の影響もあってかヨーロッパによる植民地支配への批判に傾き、吉田松陰についての著作もある由("Yoshida-Torajiro")。知性の深さ広さは驚嘆に値し、それが子供に愛される『宝島』に平明かつスリリングに結実しているのがなおさら凄い。
魅力を解説するなどは野暮というものだが、どう語るにしても省けないのがジョン・シルバーという人物の造形である。陽気で包容力あり旦那衆の御機嫌とりにも如才のない朗らかな好人物と、残忍非道で仮借なき物欲の権化、少年の勇気に惚れ込み身を挺してこれを守る男気と、目的を達するために嘘も裏切りも平然とやってのける冷血、背反する両者が同居するというよりは、むしろ場面に応じて見事に入れ替わるこの人物の圧倒的な印象は、ふと『宝島』(1883)に続く『ジキルとハイド』(1886)を思わせる。
本編の真の主人公は一本足の海賊ジョン・シルバーなり ~ パラ五輪のシンボル・キャラクターに海賊シルバーはどうだろうか ~ などと思いながら読んでいたら、スティブンソン自身、当初は『船のコック』をタイトルに予定していたと知り、納得。
ついでながら、『ジキルとハイド』を「善なるジキル」と「悪しきハイド」の対置と思いこむなら、読んでいない証拠である。ハイドは隠れもない悪人だが、ジキルはとりたてて傑出した善人ではなく、むしろ平均的な小市民にすぎない。19世紀市民社会の偽・善に対する露・悪の象徴的構図が「ジキル vs ハイド」であり、ほどほどの善と極端な悪の対置には不均衡が伴っている。
その目で見れば『宝島』の人物布置も、ほどよく立派ながら抜けもある中流人たち ~ 典型が「郷士」のトリローニ ~ に対する極悪人ジョン・シルバーの反乱という構図になっている。それが正しい均衡なのかもしれない。
スティブンソンがイギリスの作家と言い条、精確にはスコットランドの出身であることが、個人的にはいっそう嬉しい。一世紀前のイングランド系アイルランド人ジョナサン・スウィフトと、とりたてて似ているわけではないのに並べて思い出す一因だろうか。
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