散日拾遺

日々の雑感、読書記録、自由連想その他いろいろ。
コメント歓迎、ただし仕事関連のお問い合わせには対応していません。

stigma on me

2016-03-23 09:37:27 | 日記

2016年3月23日(水)

 スティグマ stigma は烙印という意味で、基本的にはネガティヴかつ禍々しいものでしかないが、これが逆説的に貴い意味をもつ用例がある。いわゆる聖痕というやつで、信心も極まった信徒の脇腹に十字架の主と同じ槍傷が生じ、掌に釘跡が浮かぶという態である。事実そういう現象があることを疑う理由はないし、超自然というよりは人の心身機能に備わった自然な可能性の、少々レアな発露に過ぎない。

 誕生日が嬉しいという感覚を失いつつあったところ、今年は思いがけない驚きあり、人生がぐるっと一回転して振り出しに戻る感じがしている。その前々日、西下する長男の日程にあわせて前祝いの飲食をむさぼったあたりから、身体に妙なことが起きた。不意に左の股関節周囲に違和感が生じ、半日の間にはっきりした痛みに発展したのである。朝の出勤時はすたすた歩いていたのに、夕の帰宅時にはびっこを引かずに歩けない。(「びっこ」は使用禁止だって?おとといおいで!)電車内で杖をついている老婦人(実は僕と同年齢?)に座席を譲ろうとして笑って断られ、座り直す自分の方がヨタヨタしている。その晩は特定の体位でないと痛くて眠れない始末で、いったいどうしちゃったのか?

 痛みは大腿骨の骨頭周辺から、複数の方向に放散している。確かに股関節なんだが、転んで打ったりぶつけたりの記憶はない。強いていえば最近スクワットを毎晩100回近くやっているが、それで痛むということもなかったのだ。訳が分からないが、ともかく誕生日をはさんで数日間安静を心がけるうち、今度は日ごとに痛みが引いて、いつの間にか消えていった。何だったわけ?

 日曜日、ふと思い当たった。答はちゃんと示されているではないか。

*****

 ヤコブは独り後に残った。そのとき、何者かが夜明けまでヤコブと格闘した。ところが、その人はヤコブに勝てないとみて、ヤコブの腿の関節を打ったので、格闘をしているうちに腿の関節がはずれた。
「もう去らせてくれ。夜が明けてしまうから」とその人は言ったが、ヤコブは答えた。「いいえ、祝福してくださるまでは離しません。」
「お前の名は何というのか」とその人が尋ね、「ヤコブです」と答えると、その人は言った。「お前の名はもうヤコブではなく、これからはイスラエルと呼ばれる。お前は神と人と闘って勝ったからだ。」
「どうか、あなたのお名前を教えてください」とヤコブが尋ねると、「どうして、わたしの名を尋ねるのか」と言って、ヤコブをその場で祝福した。
ヤコブは、「わたしは顔と顔とを合わせて神を見たのに、なお生きている」と言って、その場所をペヌエル(神の顔)と名付けた。
ヤコブがペヌエルを過ぎたとき、太陽は彼の上に昇った。ヤコブは腿を痛めて足を引きずっていた。
こういうわけで、イスラエルの人々は今でも腿の関節の上にある腰の筋を食べない。かの人がヤコブの腿の関節、つまり腰の筋のところを打ったからである。

(創世記 32:25-32)

*****

 勝ったなどとはいわない、ただ身のほど知らずにも御使いと格闘したのだ。それで腿の関節を一時外されたのね。

 この不信心ものに、何という祝福!


桃源郷の野武士

2016-03-17 08:51:43 | 日記

2016年3月17日(木)

 阮籍先生ほどじゃないが(公務中にグビグビやってるのは、立派なアル中だ)、嫌いじゃないので困るんです。

 ちょうど一年前の愛媛県松野町行き、その際にいただいた味わい深い酒をチビチビ楽しんでいたのだが、ついに先日飲み干してしまいました。予讃線の線路脇に、菜の花が満開だったっけ。

 

 「野武士」というんだけれど、そうか、このほうがよく見えるね、野武士の面構えが。

 

 野武士馳せ 桃源郷に至るかや (昌蛙)

 


千字文 115 ~ 布射遼丸 嵇琴阮嘯

2016-03-17 07:57:56 | 日記

2016年3月17日(木)

昨年の10月27日以来の「マイ千字文」、わかってます、悪いクセなんです。ちゃんと仕上げをしないのがですね。

それはそうと、人名とは思わなかった。そう言われれば、『三国志』大好きの息子たちはピンとくるだろう。

布は布袋さんじゃない、呂布のこと、人ぞしる弓の達人である。それで布射。

そうすると結句の阮は阮籍、「青眼/白眼」の飲んべえの阮籍だが、嘯は朗々と吟じることかと思いきや、口笛なんだそうだ。竹林に響く口笛、さぞ峻烈だったことだろう。

中にはさまれた二人は知らない。

遼は熊宜遼(ゆう・ぎりょう)、戦国時代は楚の人で、丸はお手玉のこととある。九個の鈴を手玉にとって、八個は常に空中に、一個は手の中にあった。楚王が宋に大敗したとき、やおら宜遼が胸元をはだけて鈴を取り出してお手玉を始めた。両軍そろってこれに見とれて戦いを止め、楚王は難を逃れたそうな。

嵇は嵇康(けいこう)、阮籍と同じく竹林七賢の一、ことのついでに竹林の七賢とは、この二人に加えて

 山濤(さんとう)

 劉伶(りゅうれい)

 阮咸(げんかん)

 向秀(しょうしゅう)

 王戎(おうじゅう)

だそうだ。ただし七人が実際に一堂に会したことはないらしい。彼らの多くは世捨て人どころか歴とした顕官で、いわゆる清談はお気楽なコメント合戦などではない、魂の直言である。魏末のきな臭い政治状況の中では、大いに危険な行動様式だった。事実、上記の嵆康は讒言により死刑に処せられたとある。

李注に嵆康に関する面白い逸話が載っているが、さすがに転記するには長すぎる。代わりに下記:

 

 魏の武帝(262年という年代からすると、魏の最後の皇帝である元帝の誤り?)は佞臣の意見を聞き入れ、康を市場で殺したが、康は琴を抱いたままで死んだ。

 阮籍は酒が好きで、歩兵校尉(宮城を守る武官)となった後も、いつも鹿車(ろくしゃ)に酒を積んで出かけ、途中で何度も酒を取りだしては飲んだ。(『晋書』では大酒飲みは劉伶とある由。)口笛の吹奏に長じ、これに感銘して鳳凰が天から舞い降り、そこにあらゆる鳥が加わったため、楊(やなぎ)の枝がすべて折れてしまった。

 

https://ja.wikipedia.org/wiki/竹林の七賢


長き春日

2016-03-16 10:36:49 | 日記

2016年3月15日(火)

 

 河津桜、早くも盛りを過ぎたようだ。花は盛りをのみ見るものかは。葉を茂らせ実をつける営みも、河津桜が一番乗りということだよね。何につけグズな僕には、ことのほか眩しい。

 

 

 こちら、3月いっぱいで職場を去るFさん。日頃の温顔が、盤面を睨むときは獲物を狙う鷹の目になる。

 黒は8の十一に断点があり、キリを成立させるべく白が陽動、黒はこれを防ごうとして、双方知恵を絞っている。3年余の間に何局打っただろうか。乱戦の嫌いな僕にはいい修行になった。

 汝がつけば我はうたひ 我がつけば汝はうたひ/手鞠つきつつ この日暮らしつ

 長き春日が一瞬に過ぐ。


イ・セドルと旭天鵬

2016-03-15 08:32:28 | 日記

2016年3月15日(火)

 毎度性懲りもなく、忙しい中を/忙しい中だからこそ碁会所に出かけました。地元唯一の碁敵であるSさんが、2月後半は精密検査のため対局できず。辛抱の甲斐あってめでたく無罪放免となり、久々に盤を囲む。

 碁会所はいつも通り、囲碁が飯より好きと顔に書いてある常連さんたちが、嬉々として勝負に熱中している。そのうち誰かが、「ようやく勝ちましたね」と笑顔で言った。イ・セドルのことである。

 グーグルが開発した「アルファ碁」なる最強ソフトが数ヶ月前に初めてプロに勝ち、Nature の誌面を飾った。余勢を駆って韓国のプロ、イ・セドルに五番勝負を挑んでいる。現存棋士中、最強の一人を確定するのは難しいが、イ・セドルが最強の数名に属することは間違いない。コンピュータは限りなく進化するからいずれその日が来るとしても、まだイ・セドルが負けることはあるまいと大勢が思い、僕も思った。結果はアルファ碁の3連勝である。番碁なら勝負は決まりだが、今回はあくまで5局を打つ。その4局目でついにイ・セドルが片目を開けた。碁会所の面々、等しくそのことを喜んでいる。

 面白いな。数ヶ月前に留学生の女の子たちが来たとき、オーストラリアのインドのと、配慮も礼儀もなくあげつらった同じ面々である。ところが今、この人々の頭の中でイ・セドルが韓国人であることは何の障りにもなっていない。われら囲碁党を代表する最強の棋士として、ただただ活躍を願うばかりなのだ。

「いやあ、安心したね」

「これでコンピュータのクセが分かっただろうから、これからはイ・セドルが勝つんでしょう」

 これからったって、あと一局なんだが、まるで今後十年の安泰が保証されたかのような喜びようである。いいなあ、スポーツや芸能一般に通じる功徳かも知れないが、強いものは強く、良いものは良い、国境や民族・人種の壁をあっさり越えさせる、これが碁の大きな魅力の一つである。

***

 琴奨菊の活躍は見事だしその優勝は立派だが、それを言祝ぐのに「日本出身力士」がNHKなどでも連呼されるのが、僕は耳障りで仕方なかった。「日本人」と言わず「日本出身力士」と言うのは、旭天鵬のことがあるからである。彼はモンゴル出身だが、日本国籍を取得し日本に帰化した。「日本人力士久々の優勝」と言うと「旭天鵬がいるじゃないか」ということになるから、わざわざ「日本出身力士」というのである。出身がそんなに大事ですかね。

 そもそも、旭天鵬が「モンゴル出身」というのだって、やや微妙なところがある。18歳で来日して以来、日本の空気を吸って飯を食い、日本語を話し、相撲一途に精進してきたこの人物の「出身」は、半ば以上「日本」ではないんですか?ことさら彼をも向こう側に分類して「モンゴル出身」「日本出身」と分ける理由はどこにあるんだろう?

 実は思い当たることがないでもない。強い力士はもともと、日本の農村の日常生活の中で自ずとはぐくまれてきたものだった。農作業で鍛えられる足腰を、たとえば若い者が米俵を担げるの担げないので競ったりする。山向こうのあのには、米俵2俵を軽々担ぐ力持ちがいる、などといったことが噂になって広がる。そうした力自慢が、秋の祭りには神社に集まって相撲をとる、そうした営みの中から強い力士が自ずと生み出されてくる。僕なども、1968年に松江から山形に転校していったとき、「相撲とるべ」と男の子らに挑まれた。歓迎の挨拶でもあり、力が試される場面でもある。肉屋の息子と一勝一敗だったその午後のことが、懐かしく思い出される。

 「日本出身力士」にファンがこだわるとき、無意識のうちに燃えているのはこうした日本の原風景への郷愁ではないかと思う。そうした風景が、あっという間に僕らの目の前から消えてしまった。国技館の土俵の上にその幻を追う声が、「日本出身力士」への待望ではないかしらん。だとしたら少し ~ 少なからず見当が外れている。

***

 今朝の朝刊、17面の「耕論」に当の旭天鵬のインタビュー記事が載っている。これがすばらしく良い内容なのだ。すっかり日本に馴染んだ末、ほとんど迷うことなく帰化した彼は、「相撲の賜杯は日本人に取り戻されたが、女子レスリングではモンゴル人が伊調を破った」という式のモンゴルの報道を、「そういうのは、ない方がいい」と批判する。いっぽうで「日本出身力士の優勝」報道には、「日本人になった自分の優勝が消されている感じで寂しい気持ちになる」と吐露する。

 本当に素敵な人物だ。こういう人が「日本人」に加わってくれたことが、どれほど僕らの精神を豊かにすることだろう。彼は渡来人の末である。記紀万葉の昔、否、それよりずっと以前から、こうしてやってくる人々が不可欠の要素として「日本」を創り出してきたのだ。

 「日本」ってそういうものなんだと思いますよ。