散日拾遺

日々の雑感、読書記録、自由連想その他いろいろ。
コメント歓迎、ただし仕事関連のお問い合わせには対応していません。

サポーターシップ

2013-09-27 06:29:02 | 日記
2013年9月27日(金)

> うーん、私はホットドック片手に大声を上げれないスポーツは見に行かないので。。。 

ははは、そうでしたか。

NFLの話は知りませんでした、ケッサクです。贔屓の引き倒しを制度に組み込んじゃったんですね。

テニスやゴルフの思想はその正反対でしょう。
けれども選手と一体化し、後押しするのは同じことで、大声が出せないだけに拍手の強弱やタイミング、思わずもれるため息や息遣いまでが、言葉に負けず雄弁にメッセージを伝えるのだろうと思います。

「結果に関わらず、私たちはあなたと共にいる」という信頼が伝わるならば、選手は勇気百倍する。
その逆に、結果を求めてミスに落胆する身勝手と性急さを、クルム伊達は肌で感じたのでしょう。

そうしたハイレベルのサポーターシップをプレーヤーがファンに求めること自体、テニスという競技の面目をよく表していると思います。
私は野球は大好きですが、野球ファンのマナーはしばしば問題ですね。サッカーよりはマシかもしれないけれど。古い話ですが、かつて王監督が生卵をぶつけられたことがありました。それこそ隠れたところから匿名の憎悪を投げつけるもので、卑劣さは先の「書き込み」と同質です。

それだけに、バレンティンの56号を阪神ファンも祝福していた風景には和みました。
そして昨夜の田中将大、しつけの悪いファンも沈黙させねじ伏せる熱投でしたね。
西武の3番・4番に対して7球連続ストレート、それも全部外角低めの150km超。
6球見逃しが続いた後、最後はストレートと決めて待ったであろう好調の浅村に、見事に空を切らせました。野球の原点、ゾクゾクしましたよ。

思い出すのは2006年、第88回夏の甲子園決勝、早実との延長再試合で駒大苫小牧は惜敗したのですが、私の印象に残っているのはむしろ試合後なんです。
田中は最後のバッターとして打席に立ち、斎藤佑樹に三振に取られて劇的な幕切れとなりました。
その後、それぞれのブルペンでクールダウンのキャッチボールをする二人が対照的で。

勝った斎藤は、目を赤くしていました。
「王さん達も達成できなかった夏の優勝で、早実の歴史に新しいページを付け加えることができた」というようなコメントだったでしょうか。

負けた田中は、泣かなかったんです。
ぐっと頭を挙げてゆっくり投球を繰り返す表情が、「やるだけやった、仕方ないや」と語っていて。
「やるだけやったんや、しゃあない」と書くべきかな、彼、兵庫県伊丹市の出身ですから。

一緒にテレビを見ていた当時小2の三男に、「齋藤は完成度が高いけれど、田中こそ将来大成する」と言ったのを、今は私に数倍する野球ファンになった彼がよく覚えているようです。
「将来大成」で将大、名は見事に体を表しました。

胸のすく快投、おめでとう、ありがとう!

人が見ていようといまいと/下世話な興味/クルム伊達

2013-09-26 09:34:34 | 日記
2013年9月26日(木)

朝からロクなことが目に入ってこない。

岐阜県の小学校で、匿名書き込みの怖さを教えるネット授業を実施。

記事によると、(岐阜聖徳大学)附属小では、6年生の授業で児童らにタブレットを使って匿名のチャットを書き込ませる試みをした。すると、書き込みは徐々にエスカレートし、5分ほどで誹謗中傷が増えてきた。そこで、教師が手元のボタンを押すと、チャットに書き込んだ児童の実名が表示され、教室が一転して気まずい雰囲気になったというのだ。
授業に出たある児童は、匿名でも結局ばれてしまい、「考えて書かないと」と感想を話していたという。
(http://www.j-cast.com/2013/09/03182883.html?p=all もともとの記事は日経新聞2013年8月17日)

やり方が適切かどうかには疑問もあるが、何もしないわけにはいかない現実がある。
その後、「2チャンネル個人情報流出・炎上事件」や「ツイッター解雇事件」などが続発したために、この小学校とソフト会社の目の付け所の正しさ(!)が裏書きされることになった。

そして今朝は・・・

匿名ブログで「復興は不要」 経産省官僚、身元ばれ閉鎖
朝日新聞デジタル 9月26日(木)2時8分配信

 復興は不要だと正論を言わない政治家は死ねばいい――。2年前、匿名ブログに書き込まれた一文が、ここ数日、インターネット上に広まり、騒ぎになっている。閲覧者らが身元を割り出し、筆者が経済産業省のキャリア男性官僚(51)であることがばれたためだ。事態をつかんだ経産省も「遺憾であり、速やかに対応する」として、処分を検討し始めた。

 この男性は経産省の課長などを務め、今年6月から外郭団体に出向している。復興に関わる部署ではないという。ブログでは匿名だったが、過激な書き込みが目立ち、仕事にかかわる記述から閲覧者らが身元を割り出したとみられる。24日午後から、実名や肩書がネット上にさらされた。

 「復興は不要だ」との書き込みは、2011年9月のもの。被災地が「もともと過疎地」だというのが根拠だ。今年8月には、高齢者に対して「早く死ねよ」などと書き込んだ。同7月には「あましたりまであと3年、がんばろっと」などと、天下りを示唆する内容も記した。
(http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20130926-00000006-asahi-soci)

***

当然ながら、このことの受け止め方に二つ考えられる。

A: 匿名性の保障は不完全なものだから、うっかりホンネを書いてはいけない。
(=もしも完全に匿名性が保障されるなら、何でも書いてやるぜ。)

B: 匿名であろうがなかろうが、言っていいことと悪いことがある。

苦い思い出は、桜美林時代に遡る。
「学生サービス」を至上とする誰かの指示で授業評価アンケートは完全無記名、当然の結果として目もあてられない「評価」が自由記述の中に散見された。
僕は被害の少ない方だったが、「方言を直せ」「声が聞き苦しい」などといった暴言を書き込まれる例が、毎学期のように同僚から聞こえてきた。
「アンケートは記名にせよ。誰が書いたかを教員に知らせる必要はなく、教務課どまりで良いので、記名することで責任をもたせよ」と主張したが、もちろん容れられはしなかった。
こうした暴言が教員の動機を著しく損ない、時には心を傷つけさえするということ、さらにはそれを許すことがいかに反教育的であるかということに、「誰か」は関心をもたなかったのである。
(この件、『街場のメディア論』で内田樹も触れている。P.96あたり、当ブログ9月6日 http://blog.goo.ne.jp/admin/editentry?eid=2ed2e205b418e21a5246f838f5a3eb93)

面白いことに、放送大学に移ってからはこの種の暴言にさらされることがきわめて少なくなった。大規模アンケートの場合は事務レベルで不適切発言をチェックし、教員もマナー違反のものは無視して良いというお墨付きをもらっている安心感もあるが、そうしたチェックのかからない面接授業などでも非常に少ないのである。
全国9万人の学生を抱え、しかも入学試験がない(=高卒相当なら誰でも入れる)という放送大学の開放的なシステムを考えるなら、一見驚くべきことのようだ。
しかし考えてみれば、放送大学の学生は勉強したい一心で、身銭を切り自分の時間を割いて受講している。自分がそれだけ価値を置くものを、隠れたところから石を投げるような浅ましい行為で汚したいとは、人は思わないものだ。身を張って生活することを知っている大人が「勉強したい」と願う時、凛とした自己規制が自ずと生まれる。その違いである。
そして本来の大学は、そうした人々によって生み出されたはずである。

匿名性を活用できるためには、人間としての成熟度が必要だと言ってみたらどうだろうか。
生活年齢が長いことが必ずしも成熟を保証しないのは、上記のキャリア官僚を見ればわかる。
(この人は知的には相当すぐれた人に違いないが、そのモラルは放送大学9万人の学生の平均水準をはるかに下回り、全体としてかなり幼稚な発達水準にあるのだろう。)
しかし、どんなに恵まれた人間でも成熟までにある程度の生活年齢が必要なことは、これまた疑いを容れない。匿名性を適切に用いることのできない若年者を「呪い」の空間から遠ざけておくことは、ポルノグラフィや暴力的映像の禁止と同様に大事なことだ。
「若年者」に小中学生が含まれるのは当然として高校生も配慮の対象とすべきだし、もはや大人扱いせざるを得ない大学生の中にも(そして社会人やキャリア官僚の中にも)「若年者」は多数存在している。

そのことを伝える際、さしあたり上記Aの水準に歯止めを設けるのが現実的であるとして、本当の闘いは実はBの水準にあることを思わずにいられない。

人が見ているかいないかに関わらず、同じように行動するか/できるか。

そう言い換えてもいい。
「日本人は恥の文化なので見られなければ平気(=欧米人は罪の文化だから人目の有無にかかわらず同様に行動する)」
などと昔いわれたことは、この際きれいに忘れよう。
実際そんなことはないのだし、「罪」は内面化された「恥」であり、「恥」は現実の人間関係に投影された「罪」だから、両者はおおむね互換的だ。
「御先祖様に恥ずかしい」は、「神様の前に申し開きできない」と半歩の違いしかない。そして違いは内面・外面というよりも、罪/恥をもたらす対象が仲間集団に限定されるか、より普遍的な広さと深さをもちうるか、そのことのように思われる。

セントルイス時代に、ハイイログマみたいな巨漢のD牧師が、いつになくマジメな顔で語ったことがある。
「人が見ていようがいまいが同じように振る舞えるかどうか、キリスト教って要するにそこだよね。
(That's what christianity is all about.)」

おんなじだ!

*****

成熟度で連想しちゃったので、これまたロクでもないニュースについての下世話なつぶやき。
(僕の未熟さの証明だ。)

24日(火)、京都府八幡市で18歳少年の運転する車が集団登校の児童の列に突っ込んだ。
「ドリフト走行」をやり損なって児童の列の頭上を飛び越え、空中を7mだか20mだか飛んで畑に落ちたらしい。児童らは反射的にしゃがみこむ、その動作の遅れた子どもが頭を打って重体である。

祇園(2012年4月12日)、亀岡(同4月23日)のことが直ちに思い出され、「また京都か」といぶかるのは見当が外れている。交通犯罪は僕らの社会の深刻な病根で、突飛なようだけれど、毎日のように遭遇する暴走自転車の問題まできっちりつながっている。

下世話というのは、人もうらやむフェアレディZを、たとえ中古にしてもどうして18歳少年が自分のものとして運転できたかということなんだが、ふと見たらネットで既に大騒ぎになっているから、ここでやめにする。

*****

もうひとつだけ、クルム伊達が数日前の試合で、日本の観客の応援マナーに怒りを表したとのニュース。
勝負どころで、伊達のミスに対する「ため息」ばっかりで、ポジティヴな励ましが伝わってこなかったということらしいんだが、この人がこんな風に言うのはよほどのことではないか。
「勝負にこだわる柔道」などと、どこかでつながってくるような・・・

勝沼さん、きっと一言あるんではないですか?

ムシの集会/コメントに感謝

2013-09-25 08:56:58 | 日記
2013年9月25日(水)

昨日、めでたく歯に金物が付いた。
「紙一重ですからね、今後あらためて神経処置が必要になる可能性もありますので」
と歯医者さんは厳かに宣告のうえ、残りの時間で歯石を取ってくれた。
深い歯石が随所にあるので、しばらく通うことになるようだ。

接着完了まで20時間、あと3食は左で噛むようにとの指示。
これでまる2週間、概ね左だけで噛んでいる。これに思わぬ余得がある。
口の半分しか使えないから、食べるのに時間がかかる。
もともと早食いの自分が、家族が「ああ美味しかった」と天井向くのを横目に、まだ食べている。
時間がかかれば、自ずと食べる量が減る。
体重が減る。

「ゆっくり食べる」「噛む回数を増やす」はダイエットの常道だが、これまで本気で聞いていなかった。消化に良いし、良いことずくめだ。何だかお腹が頼りないけれど。

夕飯後、鏡の前で大口開けて、しげしげと眺めてみる。
口の中にピカピカ光るものがあるのが、何とも不思議だ。
よく見ようと歯科用の鏡を近づけたら、洗面台の照明が命中してその部分が燦然と輝いた。
NHKの深海ザメ特番で、メガマウスが口の中を輝かせて捕食に活用するんだと主張する学者が出てきたな。きっとあの人も、中年期に入ってムシ歯を治療したに違いない。

妄想が湧いてくる。

夜中にこちらが寝静まった頃、体の中に潜んでいるムシども ~ 腹のムシとか、癇のムシとか、水ムシとか(いないよ!)、疝気のムシとか(いないったら!)、有象無象がみんな出てきて、エントランスホール(つまり口の中)で住民総会か何か始める。居住環境の改善について審議しちゃったりするのだ。

「金キラが付いて、ホールが明るくなって助かった」と癇のムシ。
「こっちはえらい迷惑してる」とムシ歯菌。
「それにしても、最近ここの家主はたるんでないか?」と腹のムシがいらいらした調子。
「ちゃんと仕事してるのか、ヤル気あるのか、ああおさまらない!」と貧乏ゆすり。
「人体は人間だけのものではないぞ、我らが日々、身を粉にして内部環境を維持しているのではないか」これは大腸菌、つまり腸内常在菌叢の代表。(ムシかな?)
「これ以上われわれをムシするなら、ただじゃおかないぞ!」
「お~!!!」

汗かいて目を覚ました。
何だか口が粘って、念入りにうがいしちゃいました。
キラ!

*****

半沢直樹について、勝沼さんに次いで Kokomin さんから。

> 「告白」も「半沢直樹」も復讐を派手な行動化で表現していて、エンターテイメント的には面白いけど…あまり心に残らない。「獅子の時代」も山田太一だったんですね。ちょうど同じ時期に「ふぞろいの林檎たち」というドラマもあり、看護学生が主要な登場人物になっていたのもあり、すごく好きで見ていました。派手な行動化はないけれど、登場人物たちの葛藤や心理描写が丁寧に描かれています。バブル時代だったので、友人からは「暗い」って一蹴されましたが…。

Kokomin さんはここ数年精神分析を勉強なさって、一段と成長されましたね。
力動のツールをしっかり自分のものにしているようで、今回の「行動化」なんかその典型です。

「行動化」は「身体化」と並んで、ココロの問題をココロの外へ放り出す代表的な様式だと思いますが、いま現実の世界では身体化の病理がそこかしこに蔓延、それと対を為すようにラノベ(覚えたての言葉、ライトノベルのことなんだって?)やドラマの世界では派手な行動化が満開全開、どっちみちココロそのものの深まりには逆行するわけです。

勝沼さんから二件。

> 柔道界の問題は柔道とは何かをちゃんと総括していない点にあると思います。都合のいいようにスポーツであることと武道であることを使い分け過ぎている。数年前のブログにも意見を書いています。
http://blog.livedoor.jp/kachii321/archives/51064507.html

数年って6年も前なんですね。面白く拝見し、溜飲を下げました。
なるほど、こっちの肚がすわってないから、単純明快な Judo 路線に押しまくられてしまうわけだ。
「肝心の論点が抜けている」と感じたのは、おおかたこのあたりのことなんでしょう。

> 「妻と飛んだ特攻兵」読みました。かなりグッと来る本でした。電車の中で涙ぐむのはマナー的にありでしょうか?
http://booklog.jp/users/you321/archives/1/4041104823

マナーを押しのけて滲み出てくる涙は、行動化や身体化の正反対を指し示しています。
私は「こんな本がある」と言い投げて放っておき、勝沼さんは実際に読んで涙する。
微にして大なる違いですよね。

 歴史は事実の羅列ではない。無数の個人の人生の積み重ねである。

叡智の言葉、今晩もムシどもに突き上げを食いそうです。
(人体はタンパク質の塊ではない、無数のムシの命と志の集積である ~ 絵が描けるんだったら、金キラのついた大エントランスホールのムシの総会風景を、このあたりに挿入するところ、よろしく御想像ください。)

柔道はJUDOを解き放つか/『八重の桜』と『獅子の時代』

2013-09-24 07:34:17 | 日記
2013年9月24日(火)

「柔道がJUDOを解き放つ」と朝日の文化面、文化人類学者の今福龍太氏。
期待をもって読んでみるが、解き放つ具体的な展望のことではなく、「解き放て」あるいは「解き放つといいなあ」ということのようだ。

 稽古での暴力やハラスメントの頻発は一般的にいわれる精神主義の帰結ではない。
 むしろ求道精神を捨てて勝利だけを求められるという、柔道が囲い込まれている窮地のなかでおこる矛盾の捌け口を象徴しているといえよう。
 
※ なるほど

 JUDOの席巻に背を向け、旧来の「柔道」に退却して世界的に孤立する道は日本柔道には残されていまい。

※ ダメですか、個人的には孤立していっこうに構わないと思うんだが、狭量かな。

 かつての柔道は決して伝統の上に安住して自らを閉じていたのではなく、むしろ人格と技量と言葉(彼らはみな外国語を良くした)をもって世界に「柔道家」の全存在を示そうとしていた。いまオリンピックを通じて柔道がJUDOとしてのみ延命する逆説に抵抗するには、JUDOと世界の舞台で渡り合える柔道家の登場が不可欠だ。

※ そうか、う~ん。

何か肝心な論点が抜けている気がするし、結論はそれこそ逆説的に聞こえるけれど、スケールの大きい柔道家の登場はもちろん待望するところだ。
ガンバレ柔道家、JUDOなんかに負けるな!

*****

勝沼さんから、例によって歯切れの良い反応あり。

> 金融業界の人々が反省したことなど今まであったでしょうか? だから半沢直樹の登場人物達は誰も反省しないのです。このドラマに限らずヒットする作品は自分を省みる気持ちの悪さと向き合わないように気持ちよくつくられていることがヒットの鍵ではないでしょうか?

ごもっとも、恐れ入りました。
なるほどそうだね。

> 「八重の桜」は真逆なモヤモヤなドラマになっています。今は故郷を追われた八重達が行き場のない怒りや憎しみとどう向き合うかがテーマなのですが、信仰が一つの鍵となっています。面白いけど、いかにもヒットしなそうです。会津じゃ大人気なんですけどね。。。

会津が明治維新における scape goat として文字通り血祭りにあげられたこと、その後も斗南で辛酸を舐めに舐めたことをいくらか知っているだけに、見ていられなくて見なくなっちゃったのですが、残り3カ月の『八重の桜』は注目かもしれません。
来週から心を入れ替えて、見てみます。

『半沢直樹』で頭取役を演じている北大路欣也は、大河ドラマ『竜馬がゆく』でスターになりました。
僕は小学生で、しばらくは明治維新の輝かしさに夢中になったものです。
そこに水を差されたのは、「赤報隊」に注目した映画(タイトルほか覚えていません)が明治百年を意識して作られたのを、ごく一部分だけテレビで見た時だったかな。中学生になっていました。
大河ドラマ『獅子の時代』はそれから10年後ですが、「負けた側/異議申し立てのある側から見た明治維新」という切り口が出色だったし、ドラマとしてもよくできていたでしょう。『八重の桜』のプロトタイプとして、もう少し想起されてもいいのにと思います。
菅原文太、加藤剛、大原麗子ら主役級から、大竹しのぶ、藤真利子、沢村貞子、根津甚八ほか錚々たる脇役陣までいずれも好演、何より山田太一の脚本がしっかりしていたのでしょうね。
大河ドラマにおける「獅子の時代」(1980年、第18回)であり、「黄金の日々」(1978年、第16回)でした。

連休明け、元気で一日過ごしましょう!

読書メモ 014 『告白』(湊かなえ)

2013-09-23 18:48:48 | 日記
2013年9月19日(金)

診療に出かけるついでにカバンに入れていき、帰宅するまでに読み終わったというのは、どういう読み方をしたんだろう?診療もきちんとしたはずなんだけど。
それより、こいつの読書傾向はどうなってるんだと思われそうだ。
いえ、猟奇的な人格に変わっちゃったわけではないのですよ、決して。

しかし何といったらいいのかな、この人の筆力はなかなかすごい。
面白いのは個々の登場人物の身体的特徴の描写が極端に少ないことで、その意味で人物はほとんど記号と化している。その方が具合がいいこともあろう。

印象に残った言葉を、先に拾っていってしまおう。

 第一章『聖職者』

 高校は辞めたくなれば辞めればいいのですから。逃げ場のない現場にいる子供たちに関わっていきたい、そんな志を持っていました。私にも熱い時代があったのです。/田中さん、小川くん、そこ、笑うところじゃないですから。(P.12)

 彼は愛美の遺体を抱きしめ、愛美が死んでしまったのは過去に犯した罪のせいだと自分を激しく責めながら一晩中泣いていました。(P.17)
 
 ※ これは明らかに不合理な関係づけだが、家族を不幸な形で亡くした人間の大多数が現実に感じることで、その意味で陳腐なぐらいリアルである。前に読書メモでなぞった作品の一、二では、このあたりまえのリアルさが希薄なのを奇妙に感じたのだ。

「この子はやればできるんです」と保護者の方からよく言われるのですが、この子、の大半はこの分岐点で下降線をたどることになった人たちです。「やればできる」のではなく、「やることができない」のです。(P.51)

 第二章『殉教者』

 やはり、どんな残忍な犯罪者に対しても、裁判は必要なのではないか、と思うのです。それは決して、犯罪者のためにではありません。裁判は、世の中の凡人を勘違いさせ、暴走させるのをくい止めるために必要だと思うのです。(P.85)

 第三章『慈愛者』

「人間の脳は何でもがんばって覚えておこうと努力するようにできているけれど、何かに書き残せば、もう覚える必要はないのだと、安心して忘れることができるから。楽しいことは頭に残して、つらいことは書いて忘れなさい。」(P.125)

 第五章『信奉者』

 殺人が犯罪であることは理解できる。しかし、悪であることは理解できない。人間は地球上に限りなく存在する物体の一つにすぎない。何らかの利益を得るための手段が、ある物体の消滅であるならば、それは致し方ないことではないだろうか。(P.233)

 殺人は悪である、と本能で感じる人などいるのだろうか。信仰心の薄いこの国の人たちの大半は、物心つき始めたころからの学習により、そう思い込まされているだけではないのか。(P.233-4)

 ※ ラスコーリニコフが懸命に信じているフリをしたことを、少年(たち)は初めから当然のこととして疑わない。

 父親と三人でカラオケやボウリングに行ったこともある。徐々に自分が馬鹿になっていくような気がしたが、馬鹿は意外と心地よく、このまま馬鹿一家の一員になってもいいと思うくらいだった。
 再婚から半年後、美由紀さんは妊娠した。馬鹿と馬鹿の子供だから、馬鹿が生まれる確率は百パーセントだが、半分は自分とも血がつながっているわけだから、どんな子供が生まれるのか楽しみでもあった。この頃には、自分はすっかり馬鹿一家の一員だと思い込んでいた。しかし、そう思っていたのは自分だけだったのだ。(P.242)

 ※ 「そう思っていた「馬鹿」は」と付け足しても良いのだろう。「馬鹿」という言葉はともかく、このあたりは「家族」の本質と危うさについて、思いがけぬ深みに焦点を結んでいる。

 立派なことで新聞に名を載せても、母親は気付いてくれない。もしも、もしも、自分が犯罪者になれば、母親は駆けつけてくれるだろうか。(P.250)

 こいつを殺してやろうか、と思った。殺意とは一定の距離が必要な人間が、その境界線を踏み越えてきたときに生じるものなのだと、初めて気付いた。(P.256)

 だが、命は泡よりも軽くても、死体は鉄のかたまりより重く、学校まで運んでやることは、あきらめた。(P.277)

 第六章『伝道者』

 すべてを水に流せるという復讐などありえないのだ、と気付きました。(P.290)

 愛美のときだってそうです。あなたの気持ちは母親だけにしか向いていないのに、被害を被るのはいつも、母親以外の人物です。(P.298)

***

 オチはすさまじく見事だし、登場人物たちの内言が順繰りに語られるにつれ、全容がほどけていく構成も達者なものである。中島哲也監督が松たか子を起用して映画化したのか、それがツタヤに山積みだったんだな。

 悪性の母子固着が至るところを埋め、それは裏返しの虐待と等価だから、再反転してダイレクトな虐待が出てくるのも不思議なはい。それが全編のモチーフとすら思えるぐらいだ。
 そして、遡ればそこに由来するのであろう、恨みの深さ、復讐の執拗さ。

 もちろん読後感の爽やかなはずがなく、ただ、想像を超えて過激なオチがある種の風穴を穿つのだが、それは主人公の生き地獄の始まりに他ならないわけで・・・

 あ~あ、もういいや。
 Amazon のレビュアーたちがけっこう本気になっているのが、作品の話題性をよく表している。皆さんごもっともだから、それに譲ろう。

「この登場人物たちは最初から最後まで自分たちの犯したそれぞれの罪に対する『反省』ということを一切していません。」(Lotus Sumner 氏)

「本当に面白い小説ですが、人間の負の側面だけを見ており、ただのひとつも愛情や思いやりは見当たりません。そういう意味では本作が「本屋大賞」であることがうすら寒く、★3つにとどめます。」(黒連星氏)

 うん、そうだよね、だけど湊かなえだけではないよね、それどころか。
 昨夜は『半沢直樹』の最終回、これまで一度も見てなかったのをダイジェストで補って、しっかり視聴率アップに貢献した。(40%超だって?!)
 正直なところひどく後味が悪かったのは、大和田は降格どまり、半沢は出向という結末のせいではなく、基本的に『告白』と同じ理由からだ。愛妻や友人の「愛情や思いやり」によって薄められてはいるが、ここでもやっぱり誰も「反省」はせず、半沢の「倍返し」で屈服を強いられるだけだ。
 衆人環視の中で土下座させられる苦渋の中、大和田は内心で「10倍返し」の誓いを立てるに決まっている。救いも何もありはしない。
 「この恨み、晴らさでおくべきや」
 今やそれが僕らの最大の関心事であるらしい。しかし『告白』の登場人物が言うとおり、「すべてを水に流せるという復讐などありえない」のである。

 何度でも繰り返しておこう。
 「反省」とは「悔い改め μετανοια」のことだ。内なる「罪」に直面しない限り、ぴくりとさえ起動しない。