散日拾遺

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おくのほそ道再読のこと ~ カナと漢字/荒川の出自

2016-08-01 06:38:00 | 日記

2016年8月1日(月)

 ふと思い立って『おくのほそ道』を通読中。たぶん以前に少なくとも一度は通読しているはずだが、いつ読んだのかも細かい内容もわからないありさまだから、読んでないのとかわらない。手許に岩波文庫版があって、これは『曾良旅日記』と『奥細道菅菰抄(おくのほそみちすがごもしょう)』を併収した、薄いけれどゴッツいもの。そぞろ神のささやきに誘われ、現代語訳・原文・解説の三つ組み構成が人気の角川ソフィア文庫を Kindle 版で購入し、岩波文庫とこれと並べて読んでみている。500里弱を踏破した半年近い旅の産物なんだから、じっくり時間をかけて読むのが作法というものだが、なじみの地名が現れる楽しさと、なじみのない場所に分け入る面白さがこもごも魅力で、つい頁をめくりたくなる。

 角川版の解説に、「芭蕉はカナと漢字の使い分けに関して厳密だった」とあり、さもありなん、さこそあれと大いに意を強くする。その伝では『おくのほそ道』であって『奥の細道』ではないという。のっけからへへえと唸るところ。さらに冒頭妙なところでつっかえたのは、旅立ちに深川から舟に乗って千住で降りたとあることだ。隅田川で乗って、荒川で降りたのである。どうぞ笑ってください、隅田川と荒川がトポロジカルに連続しているのは分かっていたが、現実こんなふうに相互交通のあることが僕は分かっていなかった。まったく、ものを知らないのね・・・

 インターネットで急ぎ調べれば、両川は現在、東京都北区にある岩淵水門で仕切られている。本来の荒川と利根川の自然史・社会史は広大複雑なもので、簡単に要約できた話ではない。利根川筋を東へ移すべく江戸幕府がさんざん苦労したあげく明治政府へもちこしの宿題となり、1913~30の大正・昭和にまたがる難工事で荒川放水路が完成した。そこでようやく首都東京が洪水の危険から解放された次第。岩淵水門は旧水門(赤水門、大正13年竣工、甲子園球場やわが母と同年の生まれ)と新水門(青水門、昭和57年竣工)からなり、水門の開閉で隅田川の水量を調節している。隅田川と云ったが、これが本来の荒川。人工河川である荒川放水路が現在の荒川という次第。芭蕉の時代には要するに荒川を遡航したに過ぎない。

 その後の道行きを、文学的にというよりまずは歴史的博物誌的に楽しむのは、邪道かも知れないが捨てがたいところである。須賀川やあさか(安積)山が出てくるとは予想もせず、ほんとは今初めて読んでいるのかもしれない。ゴジラランドや開成山公園の花盛りなど、芭蕉先生がこの世に戻ってきたら何と見るだろうね。偽物と思われていたのが最近になって真実性の確認された多賀城碑、歌で有名な末の松山など、ただいまは涼しくも宮城路にさしかかったところである。

 あやめ草 足に結んで草鞋の緒

 仙台での句だが、これにひっかけて角川ソフィアの解説に力が入る。これ、項をあらためる。

Ω


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