2023年8月22日(火)
頭がどうかなりそうだ。
時は明治20年代、亡夫の遺志を汲んで蔵書を届けに来た未亡人が、故人のことを一貫して尊敬語で語っている。「旦那様は」「旦那様が」と繰り返すたびに、聞く耳がむずむずしてくる。
言うまでもなく、外に対して身内を低めること、日本語の敬語法の大原則である。今でも職場なら、上司の留守中にかかってきた電話に「部長さんは出かけていらっしゃいます」とやったら厳重指導の対象になるだろう。「部長イシマル、ただいま席を外しております。もどりましたら折り返し云々」といった表現がマニュアルに明記されているはずだ。
そのくせ「旦那様がおっしゃっていました」とは言わない、「申しておりました」との謙譲語を「旦那様」という尊敬語にくっつけるから、上げてるのか下げてるのか皆目わからない。こんな気持ちの悪い言葉を平気で俳優に語らせる脚本のセンスに恐れ入る。「タナベは生前、このように申しておりました」と、こう来なければどうしたって落ち着かないところである。
厄介かつ面白いのは、韓国朝鮮語では「旦那様がおっしゃっていました」式が正しいとされることで、自身の尊属に対する尊敬表現こそが彼の地では絶対不動の原則となる。これ実は意味深いものがあり、もちろん言葉だけの問題ではない。世間秩序と身内の序列とどちらを優先するか、儒教道徳の継受のあり方にもかかわる、彼我の対比の要点である。
それにつけても揺るがせにできない、「世間に対して身内を低める」のが、良し悪しは別として我が敬語法の鉄則である。「韓ドラでも言ってるじゃん」は反論にならない。
鉄則とはいったものの、実際には至るところでボロボロの体。A君の婚約者であるBさんについて、第三者であるC氏がA君に「お相手はどんな方?」と訊くのはまず当然として、A君自身が「お相手は…」とやったら本来はアウトである。のみならず、Bさんが古風な人ならこれを聞いて気を悪くするかもしれない。「お相手」呼ばわりされるのは、A君がBさんを身内として認知していない証拠とも解せるからである。しかし実際には、今どきそんなことを気にする若者はいないだろうし、現に「お相手」流が堂々と横行している。(ついでながら、テレビ囲碁トーナメントの対局前挨拶も微妙な並行現象。)
それもこれも日本人の人間関係そのものが変わってきているからであり、言葉遣いはそれを正直に反映するにすぎない。そうした世の移ろいを悲憤慷慨するほど後ろ向きではないし、むしろそこに現れてくる変化を注視観察したいとも思う。とはいえ仮にも古い時代を舞台にし、多少とも考証に留意してドラマにするのなら、もう少し丁寧につくりこんでほしい。
視聴者の中の若い人々は、逆にドラマの脚本から言葉を学ぶ。そこで固定される一連の誤用は、意味のある変化ではなく単なる乱れであり、退廃でしかない。
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