散日拾遺

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「立ち上げる」はやっぱりヘン

2021-05-23 15:50:09 | 言葉について
2021年5月22日(土)

 高島俊男著『お言葉ですが…』(文春文庫)
 来た来た、来ました。パラパラめくってみれば、期待に違わず面白いこと、ためになること、そして筆者の潔さ。

 国語学者は研究室にひっこんでてもらって、ことばのことは、しろうとでセンスがよくて、思い切り保守的な爺さん婆さんにきくことにすればよい。婆さんが「あたしゃそんなのはイヤでござんすよ。ぜったいに認めませんからね」と眉をつりあげる。それでもグズグズ言うやつがいたら、爺さんが「黙れ青二才!」とどなりつける。
 それでもことばは変わってゆくだろう。それでちょうどよいのである。
(P. 241-2)

 高島氏から見れば当方も老けた青二才ぐらいのところだろうが、せいぜい精進させていただこう。まずは届いた一冊の中で、とりわけ膝を打ち溜飲を下げた項から抜き書きしておく。

***

立ち上げる

 おかしなことばが横行するものだ。
 「立ち上げる」
 たとえば朝日新聞、「震災報道、テレビの1・17」というつづきものの冒頭にこうある。
 〈「おはようございます」。NHK大阪放送局が近畿地方を対象とする地震速報を立ち上げたのは通常の放送開始より一分早い午前五時四十九分。宮田修アナウンサーは第一声で「地震です」と連呼しようとも思ったが、朝のあいさつで一息入れようと判断した。〉
 その先にもある。
 〈東京で震度1なのにNHK東京がADESSの速報より早く放送を立ち上げたのは、独自の警報システムが作動したからである。〉
 要するに「始めた」「開始した」というだけのことらしい。
 なお、ADESSというのは「気象資料自動編集中継装置」のことなのだそうです。まあえらく長い名前の機械だ。
 同じ朝日のこんどはオウム。
 〈教団施設からナトリウムなどを運び出したとして毒劇物取締法違反の罪に問われた小林之生被告(38)は、食品会社を辞めて八九年に出家した。教団内で従事したのは、「即席ラーメン」の(製造)ラインを立ち上げたり、缶詰ラインを立ち上げていこうという仕事」。〉
 これはどういうことなのだろう。一連の設備を作ること?「立ち上げていこう」というのだから、「動かす」の意ではないのだろう。

 どういう意味であれ、「立ち上げる」ということばは、そのことば自体がおかしい。よじれている。分裂している。
 これは「立つ」ということばと、「上げる」ということばがくっついてできている。ところがこの「立つ」というのは、自動詞である。たとえば「わたしは立つ」「わたしは立ちます」だ。目的語をとらない。
 しかるに「上げる」は他動詞である。何を上げるのか、対象物が必要である。「位を上げる」、あるいは「新聞雑誌はじゃまなので棚に上げた」のごとく。
 この「立つ」と「上げる」とがくっつくはずがない。「立つ」とくっつくのは「あがる」である。「わたしは立ちあがった」のごとく(小生はむやみに漢字を使うのがきらいなので「あがる」と書きます)。もし「立ちあがる」という動作を他のものにさせるのなら、「立ちあがらせる」である。「立ちあげる」であるはずがない。
 「上げる」は他動詞であるから、「立つ」の周辺でこれに応ずることばをさがすなら「立てる」しかない。「腹を立てる」「案内板を立てる」など。「たてあげる」とはめったに聞かないことばだが、もし言うとすればそれしかないだろう。「半年がかりで小屋をたてあげた」などと、言って言えぬことはなかろう。もっともこのばあいの「あげる」は達成の意になるが。
 「立ち上げる」ということばを誰が作ったのか知らないが、よほどことばに鈍感な人にちがいない。そんなことばを何とも思わず使っているのも、まあ同程度の人であろう。それをまた、「地震速報を立ち上げた」だの、「ラーメンの製造ラインを立ち上げた」だのと、何百万部も印刷してまきちらす新聞も上等な新聞とは申せない。
(P. 125、以下略)

***

 この記事の初出は1995年10月19日とある。四半世紀以上前のことだが、いま読んでも全面的な賛同・共感を禁じ得ない。
 「立ち上げる」という言葉を自分自身が最初に聞いて目を剥いたのは1986年もしくはその翌年、パート先の精神病院の医局である若手医師が「コンピューターを立ち上げる」と言った時である。「電源を入れて起動する」といった意味に使われたもので、私見ではこの頃からパソコン使用が拡がるにつれ、「立ち上げる」もセットで拡がったように記憶する。
 この種の違和感が時とともに摩滅するものかどうかは、人により言葉にもよるのであろう。「立ち上げる」に関する限り、自分自身の違和感はほとんど減衰していないし、今後も使うつもりはない。少数ながら同様に感じる人々のあることを、折に触れて確認もする。多数派が「立ち上げる」と言うに違いない文脈で、敢えて「立て上げる」と言うところからわかるのである。
 その最も懐かしい例は平山正実先生であった。死生学の科目制作のためのインタビューにあたり、先生が東洋英和の大学院に死生学プログラムを「立て上げた」経緯を語られた際である。ということは2013年の初夏あたり、高島氏の慨嘆から20年近く経っていたが、平山先生もまた「立ち上げる」になじむことはなかったと見える。
 念のために言うなら、これは理屈ではない。自分の中に根をおろした樹木のようなものが、「立ち上げる」と聞こえた途端に吐き気を覚えて身震いするのである。古さの証拠、なんでしょうね。

Ω

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