散日拾遺

日々の雑感、読書記録、自由連想その他いろいろ。
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日記: ゼミ/碁盤/ろくでもない朝のニュース

2013-10-20 07:14:48 | 日記
2013年10月19日(土)

文京SCで修士論文ゼミ。
今年度初めて、二学年のフルメンバーが勢ぞろいした。
札幌、高崎、東京、広島、北九州・・・
費用と時間と労力を割いて集まることが、間違いなく力になる。

5時過ぎに散会し、少し遅れて表通りへ出ると、M1の3人が店屋の看板を眺めて話し合っているのが遠目に見えた。仲良く一杯やっていくのだろう。
広島から参加の紅一点さんは、トランクを引きながら携帯電話で話し入っていて、僕が追い越したのに気づかない。

***

帰宅すると、行田のY碁盤店から予告通り荷物が届いている。
先日手入れしてもらった碁盤用の覆いと掛け布だ。
開墾すると桐がほんのり香った。

実はこの秋、碁盤を手入れに出したのである。
今からは信じられないような話だが、祖父の代の半ばまで石丸家は資産家だった。その件はあらためて書くとして、

曾祖父はただの金持ちではなく、相当念の入った趣味人だった。物の真贋を見分ける眼力をもっていたことが諸事から推測される。
その祖父が遺した碁盤なので半端もののはずはないのだが、長年放置されるうちにどこか薄汚れて見栄えのしないものになっていた。

それを手入れに出すという発想はI先生から教わったもので、しかも数年前にNHKのTV番組でも紹介されたY碁盤店 ~ 日本刀を使って漆で格線を引く、いわゆる刀盛りの技を伝える三代の名匠に、先生のお名前を出して依頼して良いとおっしゃる。それで頼んでみることにしたのである。

夏の帰省の際にこの5寸盤を車で積んで帰り、家族の手を借りて梱包して送ったら、さっそく当代のYさんが電話をくれた。
「榧(カヤ)の立派な盤です。良いものですから手入れのしがいがあります。」
その仕上がりも予告よりはだいぶ早く、九月末の金曜日に届いた盤の覆いを取った時は、「ほう」と唸ったきりしばらく絶句した。居合わせた家族らも一様に言葉なく見入っている。
天面に浮びあがった木目はしっとりと落ち着き、刀盛りの真っ直ぐな格線との重なりが、えも言われず美しい。
復活、である。

残念ながら碁石のほうは傷みが激しかったので、この際に誂えることにした。
Yさんは無形文化財級の自身の技に、意外なほど対価を取らない。
その分もこめて「盤につりあったものを」とだけ依頼し、さてどんなものを選んでくれるか、すっかり任せることにした。

盤とともに届いた碁石は34号の蛤と那智黒、山桑材でつくられた碁笥(ごけ)の木目がこれまた美しい。せっかくなので、盤を保護する覆いと掛け布を追加発注し、それが無事に届いたというわけだ。

碁盤と碁石の美しさが、実は碁に惹かれる理由の一部を為している。
美しいばかりではない、宇宙を象徴し一年と四季の歩みを投影する19条の盤の構造が、占星学的な感興をそそるのでもある。
19×19=361の格点は365日の歩みに対応し、天元は宇宙を表している。四隅と四辺は春夏秋冬であり東西南北でもある。石の黒白は陰と陽、こんなゲームは他にない。

ただ、ここでも僕らは自分のために多くを消費しすぎた。
碁盤の材として最適の榧は、国産が払底して中国産を求めるようになり、最近は次代のために榧の植林が一部で行われている。
白碁石に不可欠の日向蛤も底をつき、現在はメキシコ産が頼りだ。
食べることばかりでなく趣味や芸ごとさえも、動植物の生命を貪って成立している。

こんな贅沢は生涯一度のこととしよう。
人生がかろうじてすれ違ってはいるものの、顔さえ覚えない曾祖父への表敬である。幸い碁盤や碁石は、大事に使えば子々孫々まで愛用できるから。




2013年10月20日(日)

朝、ろくなニュースがない。

インターネットでは台風情報。
「十年に一度」の26号に次いで、「今年最強」の27号??
形容も混乱するほどの今秋の台風だ。
伊豆大島では再度の大雨のために避難勧告が出され、先週の行方不明者の捜索を中断せねばならないという。

朝日新聞の一面は「デザイナーベイビー?」
イヤな時代になったものだが、発想自体は十二分に予測されたところだ。
子どもを「授かるもの」ではなく「産むもの」と考えた瞬間から、ここに至るまではほぼ一直線、あとは技術的な問題に過ぎない。
「ダウン症児なら要らない」となれば、次は「知能の高い子が欲しい」となるに決まっている。

「妄想」発動、「授かった」組のナチュラル系と、オーダーメイドのデザイン系、近未来に両系統間に深刻な亀裂が生じて・・・そんなSFか劇画は、もう誰かが書いているだろう。

ラジオでは、古屋将太という人が、「コミュニティ発電所」についての自著を解説している。ここでようやく話題に日が差してきた。
『コミュニティ発電所: 原発なくてもいいかもよ? 』ポプラ新書だ。どんなことが書いてあるのかな。

わが父は早くからソーラー発電の支持者で、で最初に太陽光パネルを導入した。曾祖父が建てた旧家の屋根を、24枚のパネルが飾っている。
近隣の人々が入れ代わり立ち代わり見にきたが、まだまだペイしない時代で結局追随者は現れなかった。今は少しは増えただろうか。
地熱発電、潮汐発電などは日本の国土にマッチしたものだが、コミュニティからは距離がある。
鯉のぼりをはためかす風を見あげ、その昔はカワウソが出没したという川のせせらぎを聞きながら、地場でプチ発電ができないものかと時々考えるが、そんなことだろうか。

テレビを点けると『機関車トーマス』だ。
留学時代、勧善懲悪と polltically correctness で固められたアメリカ製のアニメに辟易した日本人の間で、『トーマス』は好評だった。
嫉妬も傲慢も狡猾も性(さが)の一面として批判抜きに描かれ、何ともホッとするのだ。アメリカ人には、偽善ということが分からないのではないかと思う時があった。

久しぶりに見入っていると、「あら、CGにしちゃったのね!」と家人の声。
ああそうか、それでトップハムハット卿の表情が妙にクニャクニャ動いていたのだ。前のほうがゼッタイ良かったなぁ。



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