2015年10月03日(土)
隔年結果という言葉がある。果実類が一年おきに豊かに実を付けるという意味で、善応寺(ぜんおうじ ~ 僕の本籍である松山市北辺の。同名の臨済宗古刹に由来する名称)あたりの果樹は多くがその傾向を示す。一年頑張ったら一年休む、伸びんと欲さばまず屈せよ、自然がそのようにできているのだ。
毎年の成果を求めるのは自然を知らない者の貪欲というべきで、その発想を当然のように制度に固定して現代人は自ら苦しんでいる。「共存共栄」より「共存共貧」と言ったエコロジストがいたが、これも類似のことである。けだし名言。
前口上はさておき、昨年の不作から一転、柿田の栗の木が豊かに実をつけたのを、さっそく送ってくれた。ボウル一杯の秋、でもこれこの後がけっこう手間なのだ。面倒を厭う人には、栗ご飯は楽しめない。ギンナンも同じこと、野菜も果樹も収穫までにかかった時間と手間を考えるなら、葉の一枚もあだや無駄には捨てられない。
「もったいない」「ありがたい」が日本ですたれ海外で見直される21世紀である。