散日拾遺

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4月29日 高杉晋作が上海に向け長崎を出航(1862年)

2024-04-29 03:36:49 | 日記
2024年4月29日(月)

> 1862年(文久二年)4月29日の夕方、長州藩士、高杉晋作を乗せた帆船「千歳丸」が上海に向け長崎港を出航した。高杉22歳の時である。
 この帆船はイギリス人の持ち船を、幕府が買い上げ幕艦としたもので、高杉は長州代表として使節の随行を許されたのだった。この使節団の目的は、上海に通商ルートを開くことと、太平天国の乱に揺れる上海の実情を視察することだった。
 この頃、上海には広大な英、仏、米の租界が作られ、事実上欧米各国の支配下にあった。その上海に迫る太平天国軍(反清国「革命軍」)に対抗するため、清国はイギリスに防衛を依頼していた。
 高杉は、清国の軍備が西洋諸国のそれと比べ、はるかに劣る様を実見し、カルチャーショックを受ける。こうして、帰国した高杉は、幕府に対し公武合体策を放棄して富国強兵策をとるよう進言する。しかし、幕府に受け入れられず、高杉は攘夷運動を形で示すため、同年末には江戸御殿山のイギリス公使館焼き打ちの挙に出るのである。
 ところで、高杉は上海で米国製のピストルを二丁購入している。後に、坂本龍馬が寺田屋で襲撃された際に発砲した七連発のピストルは、高杉が上海土産として龍馬に贈ったものだと言われている。
晴山陽一『365日物語』(創英社/三省堂書店)P.125

  
高杉 晋作 天保10年8月20日〈1839年9月27日〉- 慶應3年4月14日〈1867年5月17日〉
坂本 龍馬 天保6年11月15日〈1836年1月3日〉 - 慶応3年11月15日〈1867年12月10日〉
いずれも Wikipediaから

 高杉の辞世に下記両説あり、人のつくりをよく表している。あの時代状況の中で「おもしろきこともなし」と嘯いているのが、いかにもこの男らしい。

おもしろきこともなき世をおもしろく
おもしろきこともなき世におもしろく

Ω

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