・・・しまった、有料記事でしたね。以下、要点を抄出。これなら許されるかな。
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「まず強調したいのは、病院と一般社会は分けて考えるべきだという点です。いまはスーパーでも病院で使っているフェースシールドを着けていますね。しかし、ウイルスが現に存在して厳しい感染管理が必要な病院と一般社会では、ウイルスに遭遇する確率が全然違う。厚生労働省が6月に実施した抗体検査で、東京の保有率は0・10%でした。そこから推測すれば、街中そこかしこでウイルスに遭うようなことはありません」
→ 秋口に予定されている某所の講義では、「教壇にアクリル板を立てたうえ、さらにマスクとフェイスシールドを常時着用」するよう指示が来た。もはや漫画である。ついでにガスマスクか、潜水服に酸素ボンベでも支給しますか。
冗談じゃない、マスクかけたまま丸二日もしゃべろうものなら、息が詰まって死んでしまう、いっそ隣室から拡声器で授業させてくれ・・・などとは云わない、どうぞその儀はヒラに御勘弁とペコペコお願いしたところだった。
「東京全域を一律に考えるべきではありません。いま感染者が出ている多くは、限られた地域の特定の場所の関連です。市中感染があっても人口1千数百万人に比べればそれでもまだ数は少なく、ウイルスが街に蔓延(まんえん)しているわけじゃない。社会での感染対策として、リスクの高いところからつぶしていくことは可能です」
→ 兵庫県知事閣下には、この部分を特に御精読いただきたい。
以下、リスク論に関わる部分を長めに転記:
「接触感染のリスクが強調され『手で触れる』ことへの恐怖が広まっていますが、ウイルスと細菌の違いが軽視されています。細菌は条件が整えば自己増殖して一般環境で長く残りますが、ウイルスは感染者の体外に出て寄生する細胞が無くなると、少し時間が経てば活性を失う。本当はウイルスは細菌より接触感染のリスクがずっと低いのです。なんでもアルコール消毒をする必要はありません」
「世間の人がそんな不安を抱くのは、専門家がきちんとリスクを評価して、社会にそれを伝えていないことに原因があります。リスク評価の根幹は、具体的な確率を検討することです。例えば、感染者のせきでウイルス1万個が飛んだと仮定しても、多くは空気の流れに乗って散らばり、机などに落下するのは1センチ四方あたり数個。では、それが手に付く数は? 鼻に入る確率は? 時間経過でもウイルスは減る。こう突き詰めるのがリスク評価なのです」
「ゼロリスクを求めれば、『念のため』と対策もどんどん大きくなる。しかし、その下で数多くの弊害が出ています。人と人の関わりが無くなったり、差別してしまったり。職を失い、ウイルスでなく、その対策で命を落とす社会的弱者もいる。スーパーで買ったポテトチップの袋までアルコールで拭くのは、ウイルス学者の私には笑っちゃうような話だけど、笑えない。そんな恐れを広げた専門家に怒りが湧きます。」
「葬儀の問題も同じです。息をしないご遺体からウイルスは排出されません。皮膚に残っていたとしてもお清めをするか体に触れなければいい。お別れをしたいという気持ちを大切にした葬儀はできるはずなのです。」
最後にここ:
「パンデミック対策はアクセルを踏んだら、ブレーキも踏まねばならない。双方のバランスこそが必要だと学びました。現在まさに起きている、意思決定のプロセスを途中で冷静に検証し場合によっては止めるメカニズムの欠如、そして『専門家が確率を語らない』ことも、歴史的に繰り返されてきたのだと分かります。」
とりわけこのあたりのことを、前項の書籍を訳出する作業を通して学ばれたらしい。
西村秀一氏、引き続き大いに御活躍を期待する。
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