散日拾遺

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鬼手仏心

2020-07-16 08:20:26 | 日記
2020年7月16日(木)
 この言葉を初めて意識したのは、脳外科の実習の時だった。講師のM先生は、脳外科手術に関する巧妙でユニークな術式を積極的に活用し、モヤモヤ病(ウィリス動脈輪閉塞症)などの治療に良好な成績を収めておられた。その研究室の壁に、海外からの感謝の手紙などとあわせ、誰の揮毫だろうか「鬼手仏心」の額が掲げられていたのである。
 「仏心」は分かるとして、外科医の技は「鬼手」ですかと肌寒く感じたのは、分かっていなかった証拠である。鬼といえば憤怒の形相凄まじく、取って喰らわんと襲いかかってくる悪と破壊の権化。そう考えて間違っていないのは、節分の豆まきから知られる通りだが、これを本流とするなら有力な傍流が実は別にある。

 鬼が象徴するもう一つのものは、「およそ心をもたない」ということである。

 怒り・憎しみ・嫉妬・恨み、いずれも傷ましく恐ろしいものだが、それが人の感情の負の発露であるならば、時を得て正の感情に転化する望みもあろう。可愛さ余って百倍に増幅された憎さなら、迷路から抜け出たときには百倍の可愛さに還るかもしれない。
 そうした愛憎の激浪とは異次元のこと、愛にも憎にも無関心・没交渉、慈悲にタテつくのではなく慈悲というものへの感受性をもたない不在の心、虚無の象徴が鬼だというのである。
 「愛の反対は憎しみではなく無関心である」というマザーテレサの金言を思い出しもする。心ならずもイジメに荷担した後ろめたさを10年引きずったクラスメートより、事態を見ていながら注意も払わず記憶すらとどめず、わたしの周囲にはイジメなんかなかったと葛藤なく言ってのける子の闇が深いと嘆くもある。
 小林秀雄が、ナチの記録映画の印象を発端として『悪霊』のスタヴローギンを論じ、「仮面を脱いで悪魔が姿を現したなどとは笑止、仮面を脱いでも脱いでも本性というものの顕れない、正体の不在こそが悪魔なのだ」と書いていたことを、あわせて思い出す。
 ことさら災厄をもたらす「鬼」であるからこそ、時に福をもたらし災厄を撃ち払う、逆説的な活躍ぶりが民話にも知られるが、人の運命にまったく無関心な「鬼」に対しては、未来永劫味方に頼む希望のありようがない。

 「鬼手仏心」の「鬼手」は、敢えてそのような鬼の手をもてということ、要すれば「感情に左右されるな」ということであろう。何としても患者を救いたいという「仏心」は深く内に秘め、術野においては手術の成功に向けて最も合理的な道を、鬼のように冷徹に正確に坦々と辿っていけと。
 実は外科医に限らない、精神科診療に敷衍するのでも足りない、医療に限らず人のあらゆる営みに応用の利く箴言 ~ 箴(はり)の言葉である。

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 「あらゆる営み」の中に、司法ということを是非とも加えてみたい。正義と善の到来を皆が期待し夢見るが、それをこの地上で実現しようとする時には「法理」という鬼手が必要になり、鬼手をふるう専門家が求められる。
 ただ昨今気になるのは、鬼手という意図された冷徹ゆえでなく、怯懦・怠惰・打算などのために、司法が司法の役割を果たさない場合があるように思われることである。この懸念は、ある種の事柄に関しては上級審に進むほど大きくなる傾向が以前から知られている。その最悪の形として「政権への忖度」という大きな邪心が、仏心も鬼手もあっけなく吹き飛ばしてしまうことが起きはしないか。それでは、この事件を起こしたプレイヤーと同じ轍を、レフェリー自ら踏むことになる。

 故・赤木俊夫さんの御令室・雅子さん、お心の平安と道中の御無事を衷心よりお祈り申しあげる。そして、この重要な判断を委ねられた人々が、仏心と鬼手をもって誠実に職責を全うすることができるように。


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