2017年1月28日(日)
またまた方言の話から始まる。
山形へ転校していって、言葉ではずいぶん新鮮な経験をしたに違いないのだが、思い出すのは意外に些細なことだったりする。学級会の時間に僕は知らない一学期の振り返りで、給食のおばさんたちに感謝を込めて「お花をやったのは、とてもよかった」と皆が口々に言う。黒板にも書記役の子がそのように書き、これは小さな衝撃だった。「あげた」のではなく「やった」のが、である。
これがそれこそ方言の機微で、今はどうか知らないが昭和43年9月の山形市では、「やる」は目上から目下へ遣わす場合に限らず、感謝の贈呈においても使われる言葉だった。平成初年の福島県郡山市でも似たことがあり、当直の労をねぎらって「先生、お茶入れてやるかい?」と声がかかったりしたから、東北方面に通有の傾向かもしれない。慣れればそれだけのことで、「やる(遣る)」にこもった心やりが今も温かく思い出される。
昨今の共通語や東京弁は逆の方向に振れており、犬猫に餌を「やる」などと言ったら「上から目線」「かわいそう」とブーイングが起きそうである。お花に水をあげたってもちろん構わないが、「水をやる」と言いづらくなったのは窮屈だ。ついには料理番組でも「豚肉に塩胡椒をしてあげて」などとやっている。何につけ対象を丁寧に扱うと思えば結構なようだが、言葉の丁寧度がインフレを起こすその裏に、大きなぞんざいが隠蔽されているのではないかと邪推したくなる。
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話題の小説類を、話題になっている間は手にとる気になれず、人が忘れた頃になって怖ず怖ず読んでみるということがある。『君の膵臓をたべたい』という話題作(?)も、御多分に漏れず旬には放ってあったが、これは息子たちの手を経て渡ってきた。「この半分か三分の一で書けるのではないか」と言ったら、三男がまったく同じことを読後につぶやいていた話、前にも書いたっけね。
これなどは若い作家が若い人々を描いたものだから、使われている言葉のお作法は完全に今時で、主人公(少年)は主人公(少女)に対して「丁寧に説明してあげ」たり、「残した朝食を食べてあげ」たり、「ウルトラマンを買ってあげ」たりしている。 ところで、この作品の中に(僕の見落としでなければ)ただ一カ所だけ、「~(して)やる」という表現が出てくるのだ。
相手は誰だと思いますか?考えれば分かるね、犬猫お花では、もちろんない。
「下の階で顔を洗い、リビングに行くと父親が出かけるところだった。労いの言葉をかけてやると、彼は嬉しそうに僕の背中を叩いて家を出ていった。彼は一年中元気だ。あんな父親からどうして僕のような子どもが生まれたのか、いつもふしぎに思う。」(P.243)
これはなかなか面白いと思ったのだが、面白さを敷衍展開する糸口が見つからぬまま日が経っていく。「なかなか面白い」という感想だけを書き留め、いったん忘れることにしよう。さて、帰るか。
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