散日拾遺

日々の雑感、読書記録、自由連想その他いろいろ。
コメント歓迎、ただし仕事関連のお問い合わせには対応していません。

傾聴について話したこと / 記憶の不思議とラナルド・マクドナルド

2017-02-09 08:16:41 | 日記

2017年2月9日(木)

 昨日は好い天気になり、午後から横浜の「ゆっくりいそご」さんで傾聴の話をさせていただいた。地域の方々主体に60名ほども集まったようで、JR新杉田駅の改札から濡れずに行ける会場が熱気で一杯になった。スタッフの中に福島出身の方があり、河野水軍ゆかりの人がおり、愛猫に『モモ』と名づけている方がおられるという具合で、開始前から話が弾んだ。(ミヒャエル・エンデの『モモ』は傾聴の超達人、このテーマには欠かせないキャラなのである。)

 怪しげな話でも、話の後で良い質問がたくさん出たのは、聞き手が確かに受けとってくれた証拠である。「共感都市理論」にもつながるもので、傾聴と共感を養うことほど大事な作業はそうないように思われるが、それだけに誤解やマガイモノも多々横行している。

 閉会後、多くの方々が声をかけてくれた。

 震災被災地でのボランティア活動で知り合い、結婚後も二人で活動を続けている若いカップルは、仕事を休んでわざわざの来聴という。「入り込みすぎる」自分に悩んでいると語ってくれたが、その自覚をもちさえするなら、むしろそのままで良いのではないかしら。「入り込もうとしない」要領良い小賢しさからは、どんな絆も力も生まれてこない。年輩の牧師先生御夫妻は、聖書との接続作業を喜んでくださった。壮年のカウンセリング実務家は、潜在的な需要がこれほどあるのに、それが現実の働きどころにつながらないもどかしさを訴える。最後に区内にお住まいの懐かしい教友Kさんが、奥様のお見舞いの帰り道に姿を見せてくださった。皆、慎ましくも真剣に生きている。それであんなに緊張したのだったか。

***

 記憶の不思議については繰り返し書いているが、昨日来また不思議な記憶がちらついている。ほぼ3年ごとに転居したおかげで、場所の記憶からそのことの年代が推測できるのだが、これはたぶん前橋時代だから小学校低学年か。何かの刷り物で、海の向こうに自分たちの祖先がいると信じて幕末の日本に渡ってきたアメリカ先住民の話を読んだ気がする。事実そんな文章が存在したのか、また事実そんな人物が存在したのか。

 インターネットをありがたく思うのはこういう時で、思い立った数十秒後には答えが出ている(本当は「ありがたくない」のかもしれないけれど)。そういう人物が、実在したのだ。その人物に関してこんな書籍が出版されている。

http://www.tousuishobou.com/rekisizensho/4-88708-005-0%20.htm

 『マクドナルド「日本回想記」 ~ インディアンの見た幕末の日本』(刀水書房)

 僕の不勉強だったが、ラナルド・マクドナルドは日本における「最初の英語教師」との位置づけで学校教材で紹介され、オレゴン州や利尻島に顕彰碑が建てられているという。吉村昭の『海の祭礼』が大いに貢献したらしい。

  

 それにしても、なぜ今このときに、こんなことを思い出すのかな。傾聴と関係あるのかしらん・・・?

Ω