2016年5月3日(火)
帰宅して荷物を片づけたら、次にすることは新聞のチェックである。疲れてもいるので詳しくは見ない。連載小説の筋を追い、名人戦の棋譜を切り抜き、あとは目についたものだけ。
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4月28日(木)の12面に「ルワンダ虐殺」のこと。同国では1994年4月以降のわずか100日間に、80万人から100万人が殺害されたとされる。(当時のルワンダの総人口は730万人。)
付け焼き刃の知識で論評などしようとも思わないが、これがこの地域のアフリカ人の残虐さといったもので、単純に説明できないことは言うまでもない。背景には多数派民族フツ(農耕民主体)と少数派民族のツチ(牧畜民主体)の反目があったというけれど、そもそも両者の間では混交もあり言語も共通で、それなりに安定した平和な生活を送っていたと推測される。そのバランスを崩したのは、19世紀のヨーロッパによる植民地支配だった。
まずドイツが1889年にルワンダを保護領とする。第一次世界大戦でドイツが敗北した後はベルギーが委任統治を行い、1962年には独立に至る(1960年が有名な「アフリカの年」)が、その経緯が後に火種を残したことは否定できない。ベルギー当局はツチ系指導層との関係が悪化したことから、フツ系のクーデターを誘導して国民投票を行わせ、その結果を踏まえてフツ系のグレゴワール・カイバンダを初代大統領とするルワンダ共和国が成立した。
フツが多数派なのだから、国民投票にかければフツ系の候補が当選することは目に見えている。しかしそうした形式的な(そしてヨーロッパ的な)「正義」が実質的に何を意味するか、考えもせず(あるいは熟慮の末?)断行した「押しつけ」が、後世代にたいへんな負債を残すことになった。ベルギーは(あるいはベルギーも)現代アフリカの運命について、神の法廷で裁かれるべき多くの責めを負うている。そのあたりを丹念に調べている人もあるようだ。たとえば下記。
「ルワンダの歴史」 (http://www10.plala.or.jp/shosuzki/edit/africa/rwanda.htm)
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前にも書いたかな、1977年の秋学期、坂本義和先生の「国際政治」で教わったこと。アフリカの多くの地域で、種族・民族はしばしば同心円状に分布していた。ところが19世紀のヨーロッパによる植民では、列強が海岸から内陸に向かって並んで進み、ハンバーガーだのピザだのを噛み取る具合にそれぞれの勢力圏を保護領化した。この結果、列強が成立させた新しい国家のすべてが同じ型の種族・民族葛藤を内部に抱えることになった・・・
明晰な解説と語られた内容にこもごも驚きつつ聞いた話だったが、その一部は「フツ族/ツチ族」問題であったらしい。両者の対立はルワンダだけでなく、ウガンダ、ブルンジ、コンゴなどにも及んでいる。くり返すが、「少なくとも5世紀の間」平和に共存してきた両者のバランス(http://arab.fc2web.com/rwanda/tuti-futu.htm)を決定的に崩したのは、ヨーロッパ列強の犯罪的な介入だった。
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5月2日(月)の朝刊は、3面と10面で東京裁判を扱っている。開廷70周年ということになるのだね。続編もあるようなので期待しつつ、ここは一言だけ。特に戦犯について論じる時には、A級よりもむしろくB級・C級戦犯にこそ注目する必要がある。朝日も紹介しているとおり、A級の罪名だけで死刑になった例はない。東条英機以下は、B・C級に関しても問責された結果死刑になった。東京裁判の実質的な重みと苛酷は、むしろB・C級戦犯の扱いによく現れている。
いわゆる「東京裁判史観批判」に迎合するつもりはいささかもないし、アジア方面への加害責任を否認するつもりも毛頭ない。けれども東京裁判そのものに関して言えば、そこで達成された実りや証された真実よりも、正当化された報復や蛮行の上塗りのほうが大きかったと僕は思う。『私は貝になりたい』『アンボンで何が裁かれたか』、例はいくらでもあげられる。僕の遠縁にも戦犯に問われて長く巣鴨で受刑した者がある。彼は戦前ハワイで働いて英語が達者であったため、捕虜収容所で捕虜らに命令を伝達する役割を与えられ、それが「虐待」の一部を構成するものとして裁かれた。
それじゃ一体、どうすれば良かったんでしょうね?
Ω