散日拾遺

日々の雑感、読書記録、自由連想その他いろいろ。
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千載具眼の徒を俟つ

2016-05-04 14:00:52 | 日記

2016年5月4日(水)

 NHKスペシャルで『若冲』特集、なるほどすごいものだ。

 若冲に感動している人が今この時には大勢いるようなので、たとえば下記を紹介して「同感です」と言っておくのが賢そうである。

「雑感 独り善がり」さん、『伊藤若冲 ”千載具眼の徒を俟つ”』 ~ goo ブログのお仲間のようですね、どうぞよろしく。

(http://blog.goo.ne.jp/angry4444/e/e67258102e9cd400293762e6d3d9d139)

 

 番組もよくできたものだったけれど、若冲の「千載具眼の徒を俟つ」という言葉について、「千年後に初めて理解されるだろう」式の解説をくり返していたのはどうなんでしょうね。

 どちらかといえば、「具眼の者に理解されるのを、たとえ千年でも辛抱強く待つ」というほどのことで、「千年後」というピンポイントの時点ではなく、線として連続した時間の厚みに重きがあるんじゃないでしょうか。

 どっちでも同じじゃないか、って?同じではないですよ、決して。

 

 そういえば、一昨日あたりの朝ドラで君子母がトト姉ちゃんに「すまないわね、苦労をかけさせて」と言ってましたが、「かけさせて」ってことはない、「苦労をかけて」だよね。

 しっかりしてほしいです、何しろ影響が大きいんだから。

Ω


ルワンダのこと、B・C級戦犯のこと ~ 留守中の新聞から

2016-05-04 12:29:37 | 日記

2016年5月3日(火)

 帰宅して荷物を片づけたら、次にすることは新聞のチェックである。疲れてもいるので詳しくは見ない。連載小説の筋を追い、名人戦の棋譜を切り抜き、あとは目についたものだけ。

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 4月28日(木)の12面に「ルワンダ虐殺」のこと。同国では1994年4月以降のわずか100日間に、80万人から100万人が殺害されたとされる。(当時のルワンダの総人口は730万人。)

 付け焼き刃の知識で論評などしようとも思わないが、これがこの地域のアフリカ人の残虐さといったもので、単純に説明できないことは言うまでもない。背景には多数派民族フツ(農耕民主体)と少数派民族のツチ(牧畜民主体)の反目があったというけれど、そもそも両者の間では混交もあり言語も共通で、それなりに安定した平和な生活を送っていたと推測される。そのバランスを崩したのは、19世紀のヨーロッパによる植民地支配だった。

 まずドイツが1889年にルワンダを保護領とする。第一次世界大戦でドイツが敗北した後はベルギーが委任統治を行い、1962年には独立に至る(1960年が有名な「アフリカの年」)が、その経緯が後に火種を残したことは否定できない。ベルギー当局はツチ系指導層との関係が悪化したことから、フツ系のクーデターを誘導して国民投票を行わせ、その結果を踏まえてフツ系のグレゴワール・カイバンダを初代大統領とするルワンダ共和国が成立した。

 フツが多数派なのだから、国民投票にかければフツ系の候補が当選することは目に見えている。しかしそうした形式的な(そしてヨーロッパ的な)「正義」が実質的に何を意味するか、考えもせず(あるいは熟慮の末?)断行した「押しつけ」が、後世代にたいへんな負債を残すことになった。ベルギーは(あるいはベルギーも)現代アフリカの運命について、神の法廷で裁かれるべき多くの責めを負うている。そのあたりを丹念に調べている人もあるようだ。たとえば下記。 

 「ルワンダの歴史」 (http://www10.plala.or.jp/shosuzki/edit/africa/rwanda.htm)

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 前にも書いたかな、1977年の秋学期、坂本義和先生の「国際政治」で教わったこと。アフリカの多くの地域で、種族・民族はしばしば同心円状に分布していた。ところが19世紀のヨーロッパによる植民では、列強が海岸から内陸に向かって並んで進み、ハンバーガーだのピザだのを噛み取る具合にそれぞれの勢力圏を保護領化した。この結果、列強が成立させた新しい国家のすべてが同じ型の種族・民族葛藤を内部に抱えることになった・・・

 明晰な解説と語られた内容にこもごも驚きつつ聞いた話だったが、その一部は「フツ族/ツチ族」問題であったらしい。両者の対立はルワンダだけでなく、ウガンダ、ブルンジ、コンゴなどにも及んでいる。くり返すが、「少なくとも5世紀の間」平和に共存してきた両者のバランス(http://arab.fc2web.com/rwanda/tuti-futu.htm)を決定的に崩したのは、ヨーロッパ列強の犯罪的な介入だった。

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 5月2日(月)の朝刊は、3面と10面で東京裁判を扱っている。開廷70周年ということになるのだね。続編もあるようなので期待しつつ、ここは一言だけ。特に戦犯について論じる時には、A級よりもむしろくB級・C級戦犯にこそ注目する必要がある。朝日も紹介しているとおり、A級の罪名だけで死刑になった例はない。東条英機以下は、B・C級に関しても問責された結果死刑になった。東京裁判の実質的な重みと苛酷は、むしろB・C級戦犯の扱いによく現れている。

 いわゆる「東京裁判史観批判」に迎合するつもりはいささかもないし、アジア方面への加害責任を否認するつもりも毛頭ない。けれども東京裁判そのものに関して言えば、そこで達成された実りや証された真実よりも、正当化された報復や蛮行の上塗りのほうが大きかったと僕は思う。『私は貝になりたい』『アンボンで何が裁かれたか』、例はいくらでもあげられる。僕の遠縁にも戦犯に問われて長く巣鴨で受刑した者がある。彼は戦前ハワイで働いて英語が達者であったため、捕虜収容所で捕虜らに命令を伝達する役割を与えられ、それが「虐待」の一部を構成するものとして裁かれた。

 それじゃ一体、どうすれば良かったんでしょうね?

Ω


帰路の素敵なコミュニケーション

2016-05-04 11:49:18 | 日記

2016年5月3日(火)

 昼前から雨になった。到着日と出発日が雨、はさまれた5日間が好天、こんなこともたまにはある。おかげで草刈りと枝おろしを、ほぼ満足のレベルまで進められた。

 帰京の便、窓際の僕の通路側は二人連れの若い女性で、おおかたGW前半を松山観光にあてたらしい。お疲れであろう、『ブッデンブローク家の人びと』なんぞを読みふける僕の右肩を、長いさらさらした黒髪でハタきながらこっくりし始めた。髪というのは身体部分の中でも実に微妙なもので、特に女性の髪が男性のそれとまったく違う意味をもつのはナゼなんだろうか。前を行く女性がハンカチを落とした時、肘などを軽く叩いて注意を引くことはできるが、髪に触れるわけには絶対にいかない。逆に満員電車の中、長身の女性のポニーテールを頬に突きつけられるなどは迷惑千万だが、旅行疲れのお嬢さんには気の毒なばかりである。

 東京も天気が傾き、けっこう揺れたが無事着陸。ゲートについて通路側の人々が立ち上がり、頭上から荷物を下ろす間、窓際族は座って待っている。開扉のアナウンスに応じて人の列が動き出した。と、思いがけないことに、隣席にいたお嬢さんが通路から振り向き、僕に向かって「ありがとうございました!」と歯切れよく挨拶したのである。

 若いとは素晴らしいことで、白いふっくらした頬の上に、先ほどまで疲れて居眠りしていたとは思えない涼やかな目が笑っている。こちらも笑顔を返すのがやっとで、それから何を「ありがとう」なんだろうと考えた。思い当たることが何もないが、少なくともお嬢さんはそう言いたい気持だったのだ。

 新幹線などで空席に座る時、隣席に先客があればたいがい「お隣、よろしいですか?」と一声かける。「どうぞ」と返ってくれば、それだけで居心地は何ほどか良くなるものだし、同じことをやっている人は決して少なくない。ただ、この呼吸を全く理解しない/価値を認めない人もあるわけで、挨拶はこの点に関する隣席の人物の品定めの意味もあったりする。

 しかし今日はちょっと驚いた。「ありがとう」って、良い言葉だ。

 などと考えていたら、今度は4歳ぐらいの女の子が通路を通りすがりに「こんにちは!」と挨拶していく。「こんにちは」と今度はちゃんと返したら、連れのお父さんが「どうもありがとうございました」と丁寧に頭を下げて通り過ぎた。

 2016年5月3日、松山発東京行きANA592便には挨拶の魔法がかかっていたらしい。

Ω