散日拾遺

日々の雑感、読書記録、自由連想その他いろいろ。
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面倒見ることと協力すること/女の子の発達/N先生/LG杯

2013-06-13 10:59:37 | 日記
小豆島のMさんからメール来信、承諾を得て転載する(一部改変)。

6月に京都の男性が巡礼にきます。
最近は、宿泊するのに予約をいれる時に、視覚障害だと言わないで予約を入れるようです。
4月には投宿の際に「視覚障害の人の世話はようしない」と言われました。ボランティアが説明してどうにか宿泊できたことを、あくる日になって知りました。
今回はスムーズに行ってほしいです。

小豆島ではまだ、視覚障碍者が一人で宿泊することや盲導犬同伴の宿泊は、前もってお願いしないといけないところが多いです。
何年か前にJBOSで小豆島旅行を企画した時、視覚障碍者10名と盲導犬2頭、ボランティア6名の宿泊をお願いに行ったら、民宿側から「目の見えん人10人もよう面倒見ん」と言われました。
「全部していただくことはないし、ボランティアも行きますのでお願いします。」
と言って了解してもらったようで、このことも民宿を出た後でボランティアから聞きました。

ボラさん: 「いやー、あんなに言われるん、Wちゃん、たいへんや」
Mさん: 「そんなもんや。なかなかスムーズに行かんよ。」

ボランティアさんは小学校へ勤めている男性職員だったんですが、びっくりしてました。

何年かたったけど、あまり状況が変わってないと思うとなんか寂しい。
けどそのつど説明してわかってもらうしか、今のところ方法はないでしょうね。


石丸の返信(一部改変):

まだまだそうなんですね、昔よりずいぶん良くなったと思ったけれど。
考えてみれば私の周りは医療・福祉や学校・教会の関係者が多いから、一般社会よりは配慮があるのかもしれません。もっとも、気持ちはあっても、どのように配慮したら良いか分からないことが多いのだと思います。

でも、少なくともこちらが思っているよりずっと自由にいろんなことができるのだということは、だんだん分かってきました。

「面倒みる」っていう感覚がズレてるんでしょうね。
何から何まで面倒みてあげないと、何もできない人たちだと思い込んじゃってるのでしょう。


Mさんから返信(一部改変):

> 「面倒みる」っていう感覚がズレてるんでしょうね。

あっ!そうなんですね。私は「なんでやろう」と思っていましたが、謎が解けたような気がします。ありがとうございます。

話は違うかもしれませんが、できないことはできないけど、仕方を教えてもらえばできることもありますよね。
たとえば私の方は、ゴミ収集の時にペットボトルの口のところのリングとビニールは除けて出します。
口の所のリングの除け方がわからなくて母に訊くと、

「除けるから、おいとったらええ」と言ったのですが、私は、はさみの持って行き方がわからなくてできなかっただけなんです。そこで母から、はさみの持って行き方を教えてもらいました。それからは自分でしています。

できることが増えてくることは嬉しいです。
できないこともあるけれど、時間をかけたり、要領が分かりさえすればできることもあるし、そのためには人の協力が必要だと思います。


・・・・・「面倒みる」ことと「協力する」ことの微妙な違い、それに皆が気づくだけで、社会の風景が大きく変わるのだ。

*****

CATの会は固定メンバーでしめやかに集まったが、KOさんの精神分析についての所感をじっくり聞かせてもらって良い気分である。思わず触発され、進行中の面接のことや、聖書と文学に対する日頃の思いなどについて言語化してみる。

やがて話は、「男の子と女の子の発達プロセスの違い」に収斂していった。
越後湯沢のオーラがよみがえってくる。

女の子の発達は、僕には大きな謎である。
男の子の発達についての Blos の著作もツン読にしてあるが、これは何となく分かるんだよな。
発達のコースも、出来上がり同様に単純なのだ、男の子は。

KOさんはマーラーをしっかり読み込んでいるようで頼もしい。
今度はぜひ「女の子の発達」を解説してね、と次回に繋ぐ。

*****

帰宅、メールボックスにN先生からの来信をみる。
先日はアンセルムスの『モノロギオン』を pdf で送ってくださった。

今日は雑感、スピノザが理解できずに放り出したこと、ドストエフスキーへの傾倒、ドイツ神学界にユングの影響が深く見られること、等々を楽しそうにお書きくださっている。

そのいちいちに、懐かしさと共感を覚えながら拝読する。
それで思い出した。

『罪と罰』
ラスコーリニコフがソーニャの足下にひれ伏す場面で、ラスコーリニコフの呼びかけが突然、敬称から親称に変わる部分がある。
むろん彼の彼女への「恋人宣言」でもあるのだが、ドイツ語やフランス語同様、ロシア語でも神への呼びかけは親称であることを考え合わせれば、ラスコーリニコフの信仰告白と読むこともできる構造になっている。
このカラクリはロシア語読者には説明不要だが、日本語訳ではほとんどの読者が気づかずにおわる。(というか、気づきようがない。「翻訳」とはそもそも不可能な作業だというのは、このことだ。)
そしてこの見逃しは、作品の大きな狙いを読み落とすことにつながりかねない。

この件、あらためて書き留めておくことにしよう。
(ホントだよ、ホントにちゃんと書くんだよ!)

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ソウルでのLG杯2回戦、河野臨さんは惜しくも敗れたが、井山五冠と高尾九段は見事に勝ち抜いて11月の準々決勝へ。
特に高尾九段は「大石をシメツケて豪快に押し切った」とある。
最高の勝ち方、棋譜が見たい!