散日拾遺

日々の雑感、読書記録、自由連想その他いろいろ。
コメント歓迎、ただし仕事関連のお問い合わせには対応していません。

先週のこと ~ 水曜日以降は疲れました

2013-06-11 11:40:30 | 日記
6月5日(水)
文京SCで卒論の指導。
山形と大阪の学生を含め、今月も6名全員出席。

えらいぞ、みんな!


6月6日(木)
御茶ノ水で仕事。
メンタルヘルス問題に関する職場の対応は、まだまだ温度差が大きい。

高尾九段、黒番中押し勝ちで本因坊戦2-1と勝ち越し。
ブログによれば、週末は韓国でLG杯だ。すごいなぁ。

僕は何だか疲れがとれない。やりたことは、いっぱいたまってるんだが。


6月7日(金)
診療日、わりあい時間が取れて、じっくり話を聞くことができた。


6月8日(土)
デスクワークがようやく少し進む。

合間の対局、強いKさんに白番で善戦。
終了間際に見損じがあり、潔く負けを宣言なさった。最後まで打ったらどうだったか。
例によって結果は問題ではない。かねて目標の先輩と堂々と打てたのが嬉しい。

碁は中国語で「手談」とも称するようにコミュニケーションだというのだが、今日はそれを実感できた。
侵入してきた黒石を取りにいかず、逃げてもらって得を取ろうとする。
Kさんは「取りにきなさいよ」と誘う。
こちらは「どうぞ逃げてください」とお返事する。
着手を通じての意地の張り合いが楽しい。

加えて終局後、「きれいな碁を打たれますね」と褒められたのがまた嬉しい。
三年間にこれで三度目かな、形の美しい碁が何よりの目標なのだ。

G教会での話を聞いてくださったT先生から、別の講演依頼がありそうだ。
何かの役には立っているらしい。


6月9日(日)
教会学校で幼稚科の子供たちに、「イサクの嫁とり」の話をする。

幼稚園の子供たちって、一週間前の話なんかまったく覚えてないんだ!
M先生の話を、あんなに目を輝かせて聞いていたのに、不思議だなぁ・・・
日々これ新たなり、それでいて、何かがきっと残るんだよね。

これもG教会に来ておられた都下の方から、自分史の本を贈られた。
同信の精神科医には、これまで会ったことがなかったという。

夕方、久しぶりに鶴見川へジョグ・ウォーク、僕のいちばんのリトリートだ。


6月10日(月)
ようやっと(っていうのは、西の方の表現らしい)、疲れがとれてきた。

あれこれの御礼など、ハガキを7枚。

今日のLG杯一回戦は、井山五冠、高尾九段、河野九段が1回戦突破、羽根九段は半目負けだって。
残念だが、一回戦3勝1敗は最近では上々の滑り出しではなかったかしら。



これでどうやら、追いつきました。

先週のこと ~ 火曜日は越後湯沢から銀座へ

2013-06-11 10:05:01 | 日記
6月4日(火)

越後湯沢の二日目。

女の人が300人も集まるというのは、それだけでもう何事かなのだ。
僕のようなボンクラ講師でも、既に怪しげなオーラは立ち始めている。
ましてナザレのイエスのもとに4000人、5000人が集まった時、さだめて地軸も震撼したことだろう。

今日の演題は『聖書の中の癒しの風景』、今いちばん話しやすいことで、先日来の急ぎの書き物もこの件について。
FさんたちCMCCの面々がみごとに間に合わせてくださったので、話しきれない部分は「どうぞお読みください、一部300円」でやっつけることができる。

昨夜のうちに15~6件の質問があった。これで安心。
やりとりが行われさえすれば、時間は決して無駄にならない。

精神疾患関連のことから扱っていき、最後に残したのが「女性性と『帯』のイメージについて、もう少し聞かせてください」というものだ。
どこへ落ちるかは分からないが、婦人方のリトリートの締めくくりはこれだろうと考えた。
けれども話すうちに、どちらかといえば男性性の話になったのは、講師の側の甘えというもので。

日本の男の子たちの元気がないと人は言い、僕もそのことが気になっている。
しかし、ここが剣呑だというのは、この種の指摘がある種の主張の引き金をひく可能性が大ありなことだ。

つまり、

戦争に負けたうえに軍隊をなくして、男の子の元気がないのは当然だ。男の子はいつの時代でも、潜在的な兵士として自分を支えてきたのだから。戦後は「企業戦士」に活路を見出したが、高度成長の終焉とともにこの種の戦場も拡散・消滅した。

男の子に元気を出させたい?
よろしい、今こそ9条は廃止しましょう。

見えすいてる、っての。

そこで、

「男らしさ」とか「男の子の元気」とか言ってるから、そういう主張に絡めとられるわけで、男とか女とか言うのを止めればいいじゃないの、というのが今日主流の路線だと乱暴に要約しておいて。

それだと、たとえばDVはなくならないよ、というのが僕の考えなわけだ。
繰り返すようだが、臨床場面や息子たちの学校風景で見る限り、男の子と女の子は相当に違った生き物である。そこに生物学的な背景があることを脳科学が徐々に明らかにしつつあるが、それはとりあえず置く。

男の子は、自分の身体を武器として使うことへの関心というか衝動が、女の子よりも桁違いに強い。しかも言語的知能は女の子よりは低めなのである。「暴力はいけない」ということを男女の別なく伝えること自体は正しいが、それだけだと不十分なのだ。

ことさら男の子に向けて、弱い者に対する自己主張の手段として暴力を用いるのは「男のクズだ」と教えることに、大事な意味があると僕は思う。肯定的な言い方に直すなら、「男らしさは衝動にまかせた暴力の行使にあるのではなく、逆に衝動をぐっとこらえて他の形に昇華するところにあるのだ」ということだ。そのように衝動を抑えた子供に対して、「よくやった」と褒めてやるのも大事なことだ。

DVはこの件の試金石みたいなもので、DV男性が得てして外面は優しく見えることを、よくよく考えてみる必要がある。
解決は「男らしさ」の否認や非科学的な同等主義の方向にではなく、間違った「男らしさ」の鼓吹を正しい「男らしさ」のススメで置き換えるところにあると僕は思うのだ。

伯父はサイパン島で戦死した。この子ばかりは同じ運命を辿らすまいという、母父の祈りのもとに僕はここまで無事に来た。
今、それは僕ら夫婦の祈りである。300人の婦人たちの内に、同じ思いが燃えているはずだ。

戦場などへ送らずとも、日本の男の子たちが生き生きと元気であり得るように、女性たちの力を貸してください。
彼らがそれぞれ一個のモーセたり得るよう、見守り励ましてやってください。

それが今日の結句になった。

*****

物心両面でたっぷりお土産をいただき、昼過ぎのMAXとき二階席で東京に戻る。
3月に発見された大戦中の高射砲の不発弾処理とかで、大宮で7分ほど停車したほか、至って無事の行程。

1時間半休憩の後、都心のG教会へ。
伝道協議会Ⅱ部の信徒講演を仰せつかったのだが、これが越後湯沢の日程と重なったのはまったくの偶然というか、天の配剤というもので。
『教会と精神科臨床』と題して、好きに話をさせてもらった。

女性たちからもらったエネルギーを、ホッと吐き出す夕べかな。

阿と吽の繰り返しだよな、本当に。


見よ、兄弟が共に座っている / 何という恵み、何という喜び
(詩編 133)