散日拾遺

日々の雑感、読書記録、自由連想その他いろいろ。
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腹にこたえるエピローグ ~ 『クアトロ・ラガッツィ』抜き書き 2

2022-02-06 09:26:39 | 読書メモ
2022年2月3日(木)

 『クアトロ・ラガッツィ』、とうとう最後のページに来てしまった。ここ数年で最も意味深い読書体験の記念に、著者によるエピローグを全文転記する。
 著者はこの作品を書くことをとおして「日本の歴史が今までとちがったふうに見えてきた」という。その力業に便乗することによって、僕自身おなじく日本の歴史が「今までとまったくちがって」見えてきた。あさはかだった。

***

 「天正少年使節をめぐる数々の西欧側の記録を、イエズス会の歴史図書館や古文書保管所、ヴァチカンのアポストリカ図書館、ウルバヌス八世布教図書館などで読んでいると、この四人の使節をとおして日本の歴史が今までとちがったふうに見えてきた。また昔から聞いたり読んだりしてきた天正少年使節のすがたも今までとはちがって見えてきた。日本の歴史も日本一国の歴史資料ではとらえることができない。一国の歴史がもはや一国史ではとらえることができなくなった。それが大航海時代以降の歴史である。
 なぜなら、この近代世界は、十五世紀の末からはじまり十六世紀をとおして、地理上の発見や大航海時代の開始にともなって展開したスペインとポルトガルの世界帝国支配が大きな枠組みになっているからである。いっぽうでは、ルターらによってはじまった宗教改革で多くの信者を失ったカトリック教会が、この世界帝国の拡大にのってアジア、アメリカに新しい信者を獲得するために世界的な布教活動をおしすすめていた。
 世界経済と世界布教というふたつの大きな波が十六世紀の戦国時代の日本に怒濤のように押し寄せた。それは大きく見れば世界のなかのすべての国を世界のひとつのシステムのなかに包みこもうとする近代世界への大きな流れだった。戦国時代の大名たちは自分の領土に交易の巨大な利益をもたらす外国船を誘致するために、あるいはまた明日をも知れない戦国の乱世において死後の救済を約束するキリスト教に牽かれて、つぎつぎとキリシタンになり、そのとき領民の多くもキリシタンになった。イエズス会のザビエルが鹿児島に上陸した1549年(天文18年)から、江戸幕府が第一次鎖国令を出す1633年(寛永10年)までの80余年間、日本はまさに「キリスト教の世紀」を迎えていたのである。そのときほど日本が世界的であったことは明治以前にはなかった。そのシンボルとして少年使節の派遣があったのである。
 西欧で出版された少年使節の巡行記録を読むと、西欧の知識人や王侯が日本と日本人についてこの機会に多くのことを知ったことがわかるし、また使節が帰国してから書いた手紙や報告を見ても、彼らが世界をよく知ったということがわかる。もちろんこの使節はイエズス会が計画したものだったし、少年たちは将来神父になるために教育された者たちだったから、そこに宗教的な見方があることは事実である。しかし、この使節派遣を計画したひとりのイタリア人の神父ヴァリニャーノはルネサンス的な教養をもった高い知性の人で、日本と中国を西欧とは異なっているものの同じように高い文明をもった国として尊敬していた。東西の文明の相互理解をめざしたのがこの使節派遣の大きな目的だったのである。
 しかし、少年たちが日本に帰ってきたときに、時代は戦国時代から統一的な国家権力のもとに集中され、多の文明や宗教を排除する鎖国体制に向かっていた。そのために彼らの運命はこの大きな時代の流れのなかで悲劇的なものになった。ある人びとは彼らの事業は無益だったという。しかし、四人の悲劇はすなわち日本人の悲劇であった。日本は世界に背を向けて国を閉鎖し、個人の尊厳と思想の自由、そして信条の自由を戦いとった西欧近代世界に致命的な遅れをとったからである。ジュリアンを閉じ込めた死の穴は、信条の自由の棺であった。」

 エピローグの最終段落を転記する前に、ここで一息入れてみたい。われわれの国と社会、それ以上にわれわれの頭の中身は、中浦ジュリアンが逆さに吊されて息絶えた暗黒の穴の中から、未だ本当に抜け出してはいないと思うからだ。
 
 「しかし、私が書いたのは権力やその興亡の歴史ではない。私が書いたのは歴史を動かしてゆく巨大な力と、これに巻き込まれたり、これと戦ったりした個人である。このなかには、信長も、秀吉も、フェリペ二世もトスカーナ大公も、グレゴリオ十三世もシスト五世も登場するが、みな四人の少年と同じ人間として登場する。彼らが人間としてすがたを見せてくるまで執拗に記録を読んだのである。時代の流れを握った者だけが歴史を作るのではない。権力を握った者だけが偉大なのではない。ここには権力にさからい、これと戦った無名の人びとがおおぜい出てくる。これらの少年たちは、みずから強い意志をもってそれぞれの人生をまっとうした。したがって彼らはその人生においてヒーローだ。そしてもし無名の無数の人びとがみなヒーローでなかったら、歴史をたどることになんの意味があるだろうか。なぜならわたしたちの多くはその無名のひとりなのだから。

 二〇〇三年九月十三日
若桑みどり」

 たぐいまれなこの書き手が、2007年に72歳を前にして他界したことを心から残念に思う。その後の歴史の大揺れにあたって、この人が何を感じどのように語ったか聞いてみたかった。

Ω

朝、目にとまったいくつかの文

2022-02-03 08:13:56 | 読書メモ
2022年2月3日(木)

 本を読むときは、あおむけのままでも読める、書見器というかんたんな道具をつかっていました。寝たままの顔の上に、ひらいた本をぶらさげるようにとりつけて、ページは母にめくってもらいました。
 小さいころも、学生のころも、わたしはあまり本を読みませんでしたが、見栄をはって、おなじ部屋の人がおどろくようなむずかしい題名の本をつけたり、反対に、いかがわしい本には表紙をかぶせたりして読みました。しかし、この上をむいたままの読書は、わたしに本のすばらしさをおしえてくれました。
 母が食事にでかけたときなど、ページをめくってくれる人がいませんから、1ページを、3、40分も、くりかえし読みました。
 おなじところを5回、6回と読んでみると、一度だけでは気づかなかったことを、たくさん見つけることができました。そして、心にのこった文章を、いくつもいくつも、スケッチブックにうつしました。

  星空の下を歩いていると
  おらの心は物思いにふける
  貧乏でけちな人間のために
  イエスさま おらたちの救い主よ
  あんたなぜ生まれてくださったんだ
  それに死ぬためによ

 貧乏な農夫の書いた詩なのでしょうか。ふだんつかっている、かざらないことばで書かれた神さまをたたえる詩は、わたしを、どんなになぐさめてくれたかわかりません。

星野富弘『かぎりなくやさしい花々』(偕成社)P.81-3

***

 ところが早瀬は学者肌で実務処理は沼の中を歩くようにゆっくりとしか進まなかった。新しい電話の契約書なども納得のいくまで読み込まなければ気がすまないので、ひどく時間がかかる。
 「その契約書はハイデッガーが書いたわけじゃないのだから、そんなに何度も読む必要ないんじゃない?」
 わたしの皮肉に対して、早瀬はこう答えた。
 「契約条件として魂を譲れ、と書いてあることもあるから、電話の契約書だってきちんと読まないとだめだ」
 早瀬が真面目な顔を少しも崩さずに言ったのでわたしはすぐには冗談だと察せなかった。早瀬は笑わなかったので、わたしの笑いもすぐに萎えた。

多和田葉子『白鶴亮翅』3

***

 よいコミュニケーションが取れている時はお互いの脳活動がシンクロし、揺らぎが同期するという現象が起きる。対面で顔を見ながら会話しているときは、5人の脳活動の周波数は同期していたが、オンラインではそれが一切見られなかった。
 脳活動が同期しないということは、オンラインは、脳にとってはコミュニケーションになっていないということ。つまり、情報は伝達できるが感情は共感していない、相手と心がつながっていないことを意味する。これが多用され続ければ、「人と関わっているけど孤独」という矛盾したことが起こってくるのではないかと推測する。

 SNSの利用も増えたが、仕事や勉強などと並行することが多く、メインの作業への「割り込み」になる。スイッチがあっちに入ったりこっちに入ったりする「スイッチング」が増えるほど、注意能力が下がり、原因は解明されていないが、医学的にはうつ状態になりやすいと言われる。

 心配なのが、子どもへの影響だ…

川島隆太氏に聞く『オンラインの会話 心は通じるか』朝日新聞2022年2月3日(木)朝刊

Ω

我らが祖先 ~ 『クアトロ・ラガッツィ』抜き書き 1

2022-02-02 07:56:10 | 読書メモ
2022年2月2日(水)

…役人はリストにある12人を集めなければならなかったので、マティアスを探してあちこちを歩き大声で「マティアス、どこにいる、マティアス出て来い」と叫んだ。ところが修道院の近くにマティアスという名の信者が住んでいて、すでにリストに印鑑を押して覚悟を決めていた。彼は役人が料理番のマティアスを探しているのを聞いて、役人のところへ行き、「わたしはあなたがたが探しているマティアスではないが、同じ名前でフランシスコ会士の信者です」と言った。すると役人はそれでじゅうぶんだ、ほかのマティアスを探す必要はないと言った。こうしてマティアスは連行された。
 こうした役人のずさんさは最初から目立っている。それは最初に三成が代官にフランシスコ会に出入りする信者の名簿を作成せよと命じたときに起こっている。代官は自分で修道院に行ったのではなく、修道院に使いをやって自己申告をさせたのである。そのとき「それほど知識がなく信仰にも精通していない」一信者が名簿を作った。そこでイエズス会の信者もそこに混じってしまったばかりでなく、この男は「そこに武士を入れなかった」とフロイスは書く。
 最初から私は、世界でもっとも有名な殉教聖人のなかにひとりの武士も入っていないのはなぜだろうか!と思っていた。なぜ料理番や桶職人や刀研ぎや門番の息子や門番などばかりが捕縛されたのか?なぜ下働きの人間ばかりが捕縛されたのか?私は最初三成が自分と同じ身分の同輩を殺すに忍びなくてか、あるいは影響の大きさを思ってリストからはずしたのかと考えた。実際に、前田玄以のふたりの息子、死んだ秀次の養育係であった大身(たいしん)の武士とその妻、小西の妻子、高山右近、細川ガラシャらはこのときみな死を覚悟していたのである。死ぬべきときに死ぬから武士はいばっているのである。しかし庶民には死ぬ義務はないのだ。いばってもいないのだから。
 フランシスコ会に帰依していた信者のなかにひとりも武士がいなかったとは考えられない。これは明らかにだれかの作為によってそうなったのである。そのためのもっとも公式の言いわけは、「専住者逮捕」だろう。まさにその教会や住院に住んでいる人間だけを収監するということにすれば、ふつうの信者はその網からもれ、専住している人間だけが一網打尽にされる。その結果、神父、伝道師、門番、料理人、そしてミサの助けをする子供までが網にかかる。
 三成が最後に名簿を十二人に削ったときの基準はそこにあったのであろう。だから15歳のトマス小崎、12歳のルドビコ茨木、13歳のアントニオ(中国人を父にもつ長崎出身の子供)までが名簿に最後まで残った。

(中略)

 京都を出たときに死刑囚は24人だった。長い道中を長崎まで徒歩で曳かれてゆく死刑囚の世話をするためにオルガンティーノが送った慈善家ペトロ助四郎が、旅中で役人に捕縛された。また神父を慕ってその死を見とどけたいとついていった入信したばかりの大工のフランシスコも途中で役人に捕縛された。このふたりは名簿になかったのだ。しかし、行く先々の領内では、役人が受けとっただけの囚人をそのままつぎに送ることに固執したので、バウチスタやそのほかの神父がいかに抗議し、それが最初の名簿になかったと言っても、役人はけっして彼らを解放しようとはしなかった。
 この話はじつに納得がいかない。ある意味では納得がいく。日本の役人はこれほど昔から、自分たちの過ちを認めない。それが人の命にかかわるようなことであっても。彼らは歴史を動かしている巨大な車輪に加担して、奪うべきではない無辜のふたりの生命を奪った…

若桑みどり『クアトロ・ラガッツィ(下)』集英社文庫 P.301-304

 われらが国よ、そしてこの著者の筆の力よ!

Ω

編集者はどこに?

2022-01-17 06:52:00 | 読書メモ
2022年1月17日(月)

「お母さまが病室に見えられました」・・・
朝の連載小説

【見える】[下一自]
 ① 目に感ぜられる、目にうつる
 ② 見ることができる
 ③ その状態が感じとれる、解釈される
 ④ 「来る」の敬語、おいでになる
岩波国語辞典など
 
 「見えられました」は敬語の重複、「見えました(=おいでになりました)」で必要十分だが、それで不足なら、せめて「お見えになりました」とすればよいのに。
 話者として想定されているのは昭和二十年当時の成人、その口の端に「見えられました」の浮かぶ余地は皆無だったはずである。理屈ではなく肌感覚の問題、美醜以前に落ちつかない…

 この種のことは、書き手よりも編集者が気づかないものかなと常々思う。上の例などはまだしも微妙だが、単純な誤記や事実誤認については編集者こそ、筆者と同等かそれ以上に責任を負うべき立場にある。
 書き手にはさまざまな思惑があり心配事もあって、そちらに気をとられてとんでもない思い違いや勘違いをやらかしがちなものだ。世界に一つしかない原稿の第一番目の読者である編集者は、執筆現場のいわば砂かぶりに位置しており、こうしたミスを修正するうえで絶好の立場にあるはずなのに。

 「江戸城内にはまだ実力主義の気風が残っていましたから、国松を待望する大名も多かったようです。そうしたなかで、家康の正妻である春日局(かすがのつぼね)が駿府城に出向き、家康に「ちょっと、おじいさん。何とかしてくださいよ」と直訴しました。それで家康が動いて…」
門井慶喜『家康の江戸プロジェクト』祥伝社新書 P.129
 
 まさか!
 春日局は明智光秀の重臣・斎藤利三の娘、小早川秀秋の家臣である稲葉正成の妻であった。徳川秀忠の嫡子・竹千代(後の三代将軍家光)の乳母に抜擢され、憎くもない夫と離縁する形で大奥に入ったが、家康の室になった訳ではない。側室でもなければ正室でもない。もっぱら家光の養育係としてスカウトされた、それだけでありそれに尽きる。
 この筆者がそうした事情を知らないはずがなく、それこそ何かの勘違いで筆が滑ったに違いない。そのとき編集者は何をしていた?

 余談ながら「家康の正妻」に注目するのは、なかなか面白いテーマである。民法も何もない時代で、正室と側室の違いがどこにあるかがそもそも問われるが、これは理屈をこねるよりも実例を見た方が話が早い。
 家康の生涯で「正妻」と目された女性は二人あった。

 第一は築山殿。今川氏の一族で、今川義元の姪(妹の子)にあたる。家康が今川の人質であった時代に正室となり、長男信康を産んだ。永禄3(1560)年に桶狭間で義元が討たれて家康が独立し、二年後に人質交換で岡崎に迎えられてからは城の近くにある総持寺の築山に住んだところから、築山殿と言われる。
 正室であるうえ跡継ぎを産んだのだから不動の地位にあったはずだが、出自を頼んで気位が高く夫を見下すところがあったともいわれる。天正7(1579)年に信康と謀って甲斐の武田と内通したとの疑いをかけられ、殺害された。家康の生涯最大の痛恨事である。

 第二は朝日姫、こちらは秀吉の妹(異父妹)である。小牧・長久手で両雄相まみえ、戦闘では家康が一本取ったが政略でまんまと秀吉に丸め込まれた。戦後の和睦の一環として、立派な夫のある「妹」をわざわざ離婚させて家康に嫁がせたのだが、家康も天下人の妹を迎える以上、正室として遇する他はない。
 ただ、いかにも無理があった、というのも時に朝日姫44歳、現代の44歳とは話が違う。結婚の実質など誰よりも当人たちが期待していない。二年後に母大政所の病気見舞いと称して上洛した朝日姫は、そのまま京都に滞在することさらに二年、48歳で病没した。

 これら正室との実り少ない縁に引き替え、側室に関しては家康はなはだ艶福であり子福者でもあった。以下はその驚くべきリストである。
  西郡の方 ・・・ 次女督姫の母
  於万の方 ・・・ 次男於義丸(結城秀康)の母
  於愛の方 ・・・ 三男秀忠の母
  於都摩の方・・・ 五男万千代、三女振姫の母
  於茶阿の方・・・ 六男忠輝、七男松千代の母
  於亀の方 ・・・ 八男仙千代、九男義直の母
  間宮氏女 ・・・ 四女松姫の母
  於万の方 ・・・ 十男頼宣、十一男頼房の母
  於梶(勝)の方・・・五女市姫の母
 以下は子を生すことあたわなかった側室たち。
  阿茶の局
  阿牟須の方
  於仙の方
  於梅の方
  於竹の方
  於六の方
  於夏の方

 名家のお嬢さん筋に執心だった秀吉に対して、徹頭徹尾実質主義の家康、このあたりは坂口安吾『二流の人』の筆致が抜群に面白いのだが、どうしたことか手許に見あたらない。
 話を戻し、書き手のうっかりということについて、もう一つ。

 「『旧約聖書』では、大洪水の後、生き残ったノアの方舟の生き物たちのうち、最初に飛ぶのが白い鳩でした。」
前掲書 P.104
 そう思われがちだが、実は違う。

 「四十日たって、ノアは自分が造った箱舟の窓を開き、烏を放した。」
(創世記 8:6-7)

 白い鳩ではなく、黒い烏が最初だった。ただ、この時はまだ水が引いていなかったので、烏はしょうことなしに箱舟から出たり入ったりで終わってしまう。烏の責任ではないのだが、ノアはあっさり選手交代させ七日後に鳩を放す(「白い」鳩とは特に書かれていない)。鳩はオリーブの枝をくわえて帰って来、さらに七日後に放たれたときはもう帰ってこなかった。
 この通り、黒い烏は結果を出せず、白い(かどうかわからない)鳩は成果を得ているから、「白」の象徴的な価値を強調する前掲書の文脈では差支えないことというものの、「最初に飛ぶのが白い鳩」と言いきるのはやっぱりまずい。
 しつこいようだが、こういうことをチェックするのが、本来なら編集者の仕事ではないかというのである。

 もう一つだけ、これはタイトルに惹かれて買い帰った ~ 徳川ものは当方も好きなので ~ 帰りの電車の中で気づいたこと。

 「万千代は、天正3年(1575)11月、元服して、井伊兵部直政となった。
 その際、直政は、家康に乞うて、織田信長に滅ぼされた武田勝頼の、生きのこった家来百余人を、おのが麾下に加えた。」
細谷正充編『井伊の赤備え』(河出文庫)P.12

 赤備えが武田(とりわけその部将、山県昌景)から井伊に伝えられた由来を示す有名な逸話であるが、年代が間違っている。武田勝頼が天目山で敗れ甲斐武田氏が滅ぶのは天正10(1582)年3月のことだから、天正3年の井伊直政元服時ではあり得ない。年表を見るまでもなく明らかな錯誤で、これなども書き手の手が滑った一例であろう。
 「その際」を「後に」と修正すれば済むことであり、そうしたことこそ編集者の仕事の大事な一部ではないかと、重ねて主張したいのである。

Ω

『土偶を読む』を読みました

2022-01-02 07:50:43 | 読書メモ
2022年1月2日(日)
 ウィーン・フィルのニューイヤーコンサートを聴きながら、くつろいでページを繰っていくうちに、引き込まれてあっという間に通読してしまった。


竹倉 史人『土偶を読む ―― 130年間解かれなかった縄文神話の謎』晶文社(2021)

 「土偶の謎を解明した」との筆者の宣言に対しては、さっそく疑問や異論が出ているようで、例えば下記。
『土偶を読む』を読んだけど(1)https://note.com/22jomon/n/n8fd6f4a9679d
 議論の行方を楽しみに見守ることとして、持てる限りの知的資源を投入して謎解きに挑む姿は好ましく、文脈の副産物に収穫が多々あるのが読書の楽しみである。
 以下、抜き書き:

***

 古代人や未開人は「自然のままに」暮らしているという誤解が広まっているが、事実はまったく逆である。彼らは呪術によって自然界を自分たちの意のままに操作しようと試みる。今日われわれが科学技術によって行おうとしていることを、彼らは呪術によって実践する。遺伝子を組み換えたり、化学肥料を開発したりするのと同じ情熱で、かれらは植物に対して呪術を行使する。異なるのはその方法と費用対効果だけであって、収量を上げるために自然界を制御しようとする心性は何千年経とうが変わらない。(P. 30)

 人類ははるか古代から、この “善意ある存在” を ”精霊” として表象し、そのような存在から一方的に贈り物(ギフト)を受け取ることを良しとしなかった。秋には祭祀の場を設け、そこで精霊たちへ供物を捧げ、時には精霊と気前の良さを競うように盛大な返礼式(=収穫儀礼)を行ってきたのである。これは植物と人間における贈与論といってもよいだろう。長い都会暮らしで私の生命感覚は鈍磨していたようである。一粒の野生のクルミは、「食べる」という行為が単なる栄養摂取のそれではないことを教えてくれた。それは命という共通項を媒介にして、自分の肉体と植物とがひとつながりになる行為なのであった。(P.68)

 クリやトチノキがこれだけの密度で集中的に自生することは考えにくく、(是川)遺跡周辺には現代でいう「里山」が広がっていたことがわかる。つまり、人為的に植栽・間伐などが行われ、有用な樹種が優先するような森林環境が維持管理されていたのである。(P.101)

 ミミズク土偶が作られた縄文後期後半から晩期前葉にかけて、関東地方では直径三〜五センチメートルの木製や土製の輪状のピアスが流行していた。当時の服飾のトレンドが土偶の造形にも反映したのだと考えられる。(P.141)

 帰宅後、採集した貝を一通り試食してみることにした。
 収獲したのはマツバがガイ、ベッコウガイ、ウノアシガイ、キクノハナガイである。鍋で塩茹でにして、まず○○に食べさせ、問題がないようであれば私も食べてみた。(P.171-2)

 縄文の土偶製作者は抽象芸術家でもデフォルメ造形家でもなく、あくまで写実主義のキャラクター作家なのであるから、(P.172)

 目黒区にある八雲中央図書館…ここに『日本近海産貝類図鑑』が所蔵されている。この『貝類図鑑』実に1173ページにわたっておよそ5000種の貝類が掲載されている世界最大級の図鑑である 。(P.175)

 それゆえ、顔に関係する情報処理のシステムは特に発達しており…顔パレイドリアはいわばその副産物であって、実際には顔でなくても、そこに顔に似たパターンが存在すると、それを自動的に顔として認知してしまうのである。図はその一例だが、顔パレイドリアが不随意、つまりわれわれの意志とは無関係に発生することがわかるだろう。すなわち数ある資格情報の中でも顔状のパターンは”特別扱い”されており、特異的な強制力をもって顔の認知が生成されるのである。(P.196)

 顔文字も顔パレイドリアを利用している 。(P.197)

 「くりくり」「アルクマ」「ふっかちゃん」…どのキャラクターも被り物の部分が植物で、顔の部分は動物によって構成されている。これは当然と言えば当然である。動物には顔があって植物には顔がないからである 。
 こうした植物+動物というフュージョン系のデザインの最古のものが、トチノミとマムシが融合した5000年前のカモメライン土偶であったと私は考えている。この数千年の間にわれわれ人間の何が変わり、何が変わっていないのだろう。非常に興味深いトピックである。(P.228-9)

 アナロジーは似たものを探す。— 樹木の幹とそこから側方へ伸びる細い枝、これに類似したものは何か?そう、それはわれわれの人体の、胴体とそこから生えた腕の関係に似ているのである。
 こうしたブリコラージュによって樹木の枝が「腕」として表象されるのは極めて普遍的な事象である。アナロジーは人類の認知の基盤をなすものであり、最も普遍的な思考様式だからである。(P.948-9)

※ パレイドリアという言葉に、精神病理学以外の場所で出会ったのは初めてである。旧知のやや偏屈な友達に、旅先で思いがけず遭遇した感じ。
 最後の引用部分に関して、「手足」を「枝」と表現することは古語では日常的に行われていた。やや婉曲的な効果があるかと思われる。
 「帝いかり給ひて…四つの枝を木の上に張り付けて、火をつけて焼き殺し給ひてき」(水鏡・雄略)

***

 元日の夜の楽しみ、春から縁起のよさそうな。

Ω