ヒジュラ暦1427年ラビーウ・ル・アウワル(3月)8日 ヤウム・ル・ハミースィ(木曜日) |
休憩時間になり、先生に引率されてきていた小学生数人の集団と話した。
小学生には難しいシンポジウムだが、雰囲気を感じることが大切だ。受付近くに用意されたナツメヤシとチャイを飲みながら多くの国の人びとに囲まれる。
それだけでも十分な経験だと思う。
ちょっと問題のある言い方かもしれないが、
「最初にここに来たときに、外国の人がたくさんいて驚かなかった?」
と尋ねてみた。
ひとりの女の子が
「前はちょっとびっくりしていたけど、こういうところにいろいろ行っているうちに慣れました。全然平気です」
と答えた。
自分と異質なものになじむというのは大切なことだ。それは外見だったり、行動であったり、言葉であったり、考え方であったりさまざまだ。
子どもの頃から、自分と異なる人びとと接し、理解を深めるようになれば幸いだと思う。
これからますます多民族化が進むであろう日本では必要な教育ではないだろうか?
猫が物凄く好きで、フスハーが結構好きで、イスラームがそこそこ好きな私(ラクム・ディーナクム、ワリヤ・ディーンは至言ですね♪♪♪)にとって、このサイトはまさにツボです・・・。
あと、イスハークさんのスタンスが好きですね。盲信ではなく、一歩下がって、きちんと自分で考えて、尚且つその上で信仰してらっしゃる感じとか、でも、Believerじゃない人を否定しない姿勢とか。ここのブログのそういう感じがとても好きです。
HN<
え~っと、御察しの様にAtheistです。
ムスリムの方にはムシュリクだのジャーヒリーだのは、たとえHNとはいえ自身のHNとしては使いづらいのではないかと???(でも、イスラームは好きなんです。将来、ムスタシュリクとかムスタアラブとかムスタスリムとかなりたいなどと言う妄想を抱いてしまうほど)
必要な教育<
<自分とは違う価値観>との共存は是非教えるべきだと、私も思います。
けれど、外国語教育は大学レベルからでも遅くはないと思います。ある程度、ちゃんとした日本語が使えるようになってからでも、決して遅くはないと思うんですがねぇ~・・・。
あと、旧文部省が子供達に押し付けた外国語の選択(英語)が恣意的でイヤですね・・・。
不思議とAtheistであっても、イスラームは好きという人は多いんですよね。ありがたいことです。
それは研究対象だったり、単に興味があったりでもかまいません。きちんと目を向けてくれることが有り難いのです。
信仰は個人の問題ですから、人に迷惑をかけず、盲信的にならなければ、すべての信仰はすばらしいと思います。
外国語教育については、私もあまり早期教育をする必要は無いと思います。
日本語ですらきちんと読み書きできないような青少年がいる時代、英語を小学校から導入する必然性はまったくありません。
外国語は必要となれば、勉強して読んだり話したりできるようになります。別にペラペラになる必要はないですし。
それに英語が流暢なことと、コミュニケーション能力(広い意味の)はまったく別ものだという経験をカンボジアでしました。
いずれ「カンボジア・アセアセ紀行」の最後の方で、そのときのことを書きたいと思います。