ヒジュラ暦1426年ジュマーダー・ッサーニヤ(6月)20日 ヤウム・スラーサーィ(火曜日) |
『バカの壁』、ずいぶん売れたよなあ。作者の養老孟司ってどんな人なんだ?
という興味もあって、先日、養老孟司氏の講演会に参加してきた。職場の研修の一環でもあるのだが。
講演の中で、信仰としてのイスラーム(というよりは一神教全般だけど)のとらえ方とは違ったとらえ方を説明していたので紹介しておきたい。
■意識には「概念」と「感覚」の二つがあるんだって
「概念」というのは似たモノ同士をグループ化する働きらしい。例えば、どのリンゴを見ても「あ、リンゴだ」とわかる脳内活動とかね。これは理屈の世界。
一方、「感覚」っていうのはストレートに目の前のことを捉える働きらしい。目の前のリンゴの姿を脳内で意識する個別化の活動なんだとか。こちらは直感の世界。
見ることについてだけでなく、聞くことに関しても同様らしい。
例えば、どんな声の人が「リンゴ」と言っても、頭の中に「あの果物」が思い浮かぶのが「概念」。
声を発した人の「リンゴ」という音をそのまま捉えるのが「感覚」。
すると、猿とか他の動物は、「概念」という意識活動ができないからコトバを覚えられない。私が発する「リンゴ」という音と、アナタが発する「リンゴ」という音が同じモノを差していることが理解できないんだって。へぇ~。
■一神教の誕生
農耕民族は、働けば働いただけ作物が取れるのが普通だから、頑張って働くし、労働に喜びを見出す。
すると、ゴチャゴチャ考えるよりは、体で世界を捉える「感覚」の世界になっていく。
一方、砂漠はいつでも食べ物があるわけではない。働いても食べ物が得られないこともある。
となると、一生懸命働いても仕方ないので、ほどほどに食い物が得られれば良しとする。こういう所では、時間だけはいっぱいある。
すると、ゴチャゴチャといろいろなことを考えるようになって「概念」の世界、要するに「リクツの世界」になっていく。
で、「あれもリンゴ、これもリンゴ」と「あれも梨、これも梨」というのが合わさると、「あれもクダモノ、これもクダモノ」という風に、1個上の階層に「クダモノ」という概念が形成される。
次に「あれもクダモノ、これもクダモノ」と「あれも花、これも花」を合わせると、「あれも植物、これも植物」という風に、さらに1個上の階層に「植物」という概念ができる。
これを繰り返していくと、最終的には必ず「ただひとつ」に行き着く。それが「絶対者、神」なんだそうだ。ふむふむ。
でも、グループ化の仕方って地域や人によって違うから、そこで必ず神学論争みたいのがおきるとか。
「概念」というのはリクツだから、あんまりこれが支配的になると、人間は息苦しくなる。
すると、「感覚」の方に揺り返しが来て、ガリレオのように「じゃあ、重い玉と軽い玉、どっちが先に地面に落っこちるか、ピサの斜塔から実際に落としてみようじゃねえか」という、感覚的な人、「実際にやってみよう」派の人が出てくるんだって。
こういう「とりあえず実験してみようぜ」みたいなのが自然科学。
「自然科学は、理屈に走りすぎて窮屈になった中世キリスト教社会の解毒剤」なんて、ちょっと過激なこと言っていたな。
でも、今度は自然科学が行き過ぎると、逆の揺り返しで、「概念」である一神教が息を吹き返したりするんだとか。
イスラームも一神教だから、このような経過を経て、アラビア半島で成立した宗教ということになる。
そして、自然科学に対する揺り返しが各地で起こっているのが、原理主義(キリスト教側の言い方だけど)や、復古主義などの動きということになるらしい。
■日本でイスラームがあまり広まらないワケ
となると、「感覚の世界」の日本では、「概念の世界」である一神教はなかなかなじまない。
「あーしろ、こーしろ」といちいち細かくゴチャゴチャ言われたり、神学やらシャリーアやらの理屈をこねられるよりは、自然に向かって無心で手を合わせる方が、日本人の性に合っている…ということになる。
たしかに宗教的なとらえ方ではないけど、勉強になる。養老孟司氏は「悪口ではなく理屈です」と断ってから説明していた。キチンとした人なのだ。
文章力の欠如のため、あまり面白くなかったかもしれないけど、講演会そのものは、養老孟司氏の話術の巧みさもあって、たいへん面白かった。
ここでは書けない、オフレコなことを聞けるのも講演会の魅力だしね。
養老氏がなされた論説の中心の一部である農耕-沙漠の二項対立とそれから還元される特定宗教の性格論は、個人的には和辻哲郎の『風土』を想起せしめる(ある種「伝統的」)言説であると思われるのですが。どうでしょうか。
それと、沙漠からでて来るのが一神教だという言説からは、古代新疆や東北アジアのゴビで「多神教」(しかも全然体系化されてない)が信じられていたことは説明できないと思います。
コメントありがとうございます。
あくまで講演会なので「楽しく、わかりやすく」というのが最優先でしょう。禅寺で「私とは何か」という演題なので、それなりのリップ・サービスもしなきゃいけないでしょうしね(笑)。
私の書き方が悪くて誤解を与えたようですが、養老さんはあくまで脳科学との関係の中で一神教を語るのが目的だったので、風土論的な色合いは薄かったです。
私個人としては、一神教成立について、養老さんとも和辻さんとも違った考え方を持っています。その上で、氏の話術も含めて講演会は面白かったなと感じているわけで。
話としては面白いけど、五感で感じるモノをいくら階層化していっても、最後に行き着く「ただひとつのもの」は「この世」とか「全宇宙」であり、抽象概念である「絶対者・神」に行き着くというのは、ちょっと飛躍があるでしょう。
かと言って、「正義」とか「愛情」などのような抽象概念も含めて階層化して、最後は「絶対者」に行き着くというのも無理があるように思います。
当然、養老さんはそんなこと百も承知で、話を単純化したんだと思いますが。
ええと、それから和辻さんの『風土』についてです。
文化を研究する人に見られる傾向として、「文化とは不特定多数の人によって、ゆっくり形成される」という前提があるような気がするんですけど、どうなんでしょう?
もう前のことなので、あまりよく覚えていませんが(年だな…)、和辻さんの『風土』にも、確かそのような「匂い」を感じました(ついでに時代の匂いも)。
しかし、私は一神教に関しては、そういうものではないと思っています。
一神教は、成立以降は文化として扱ってもいいけど、成立そのものは歴史的事件として捉えるべきではないでしょうか?
そして、歴史的事件というのは、一定の条件が揃ったときに、特定の個人(または少数の人間)のリードによって、比較的短期間で達成されるものではないかと。
一神教成立という「歴史的事件」には、集団が強烈にまとまろうとする志向(自覚するしないに拘わらず)があるときに、ひとりのカリスマが現れることが必要だと思います。
それプラス、カリスマ本人が自分を「唯一の神」に祭り上げないこと。
どれが欠けても一神教は成立しないと思います。
アクエンアテンの宗教改革から始まり(失敗したけど)、ムーサーによるヘブライ民族の宗教の確立、パウロによるキリスト教伝道、預言者ムハンマド(彼の上に平安あれ)によるイスラームの確立、すべて上記の条件が揃っていたのではないでしょうか?
確かに、「沙漠では集団として強烈にまとまる志向が強い」と言えるとは思いますが、それだけでは必ずしも一神教が生まれるものではないと思います。
浅学にして詳しいことは知りませんが、古代の新疆やゴビでは、条件が揃わなかったために、一神教が成立しなかったのかもしれません。
部族単位の神で十分なくらいのゆるやかな連合だったとか、カリスマが出なかったとか、カリスマが自分を絶対者にしてしまったとか…一神教成立の条件が欠けていたと考える方が、自分としてはスッキリします。
もっとも、自然科学ですら、理論と現象の間に誤差が見られるのに、人文科学が、理論と現象の整合率100%ということはないでしょうけど。
以上のような考え方は、宗教的な考え方と反していると感じる人もいるかもしれませんが、「すべては唯一の神の意思によりそうなった」と自分の中では、信仰との折り合いがついています。
コメントの返事なのに、ダラダラと長くなって申し訳ないです。そのわりに雑駁だし…。
コメントへのご返答、有難う御座います。
禅寺での講演会だったのですか。
面白そうですね。
「一神教成立条件」に関するの御説、大変興味深く拝読いたしました。
所感は色々ありますが、長くなりそうなので(笑)また他の場所で。
それでは。