2.
アントロポゾフィーは、霊的なしかたで獲得される認識を伝達する。
ただし、アントロポゾフィーがそのような認識を伝達する唯一の理由は、
日常生活や、感覚的知覚と悟性活動を基盤とする科学が、
人生の道において何らかの境界へ導くからであり、
もしその境界を乗り越えられなければ、
魂的な人間存在は死滅しなければならないからである。
この日常生活や科学は、
その前で立ちすくみ、動けなくならざるを得ないようなしかたで、
境界へ導くことはない。
そうではなく、そのような感覚的直観の境界においては、
人間の魂自身によって、霊界への展望が開かれるのである。(訳・入間カイ)
2.
Anthroposophie vermittelt Erkenntnisse,
die auf geistige Art gewonnen werden.
Sie tut dies aber nur deswegen, weil das tägliche Leben und
die auf Sinneswahrnehmung und Verstandestätigkeit gegründete Wissenschaft
an eine Grenze des Lebensweges führen,
an der das seelische Menschendasein ersterben müßte,
wenn es diese Grenze nicht überschreiten könnte.
Dieses tägliche Leben und diese Wissenschaft führen nicht so zur Grenze,
daß an dieser stehendgeblieben werden muß,
sondern es eröffnet sich an dieser Grenze der Sinnesanschauung
durch die menschliche Seele selbst
der Ausblick in die geistige Welt.
(Rudolf Steiner)
この指導原理の第2項は、
一人ひとりの「真実の人間性」としてのアントロポゾフィーの働き
について述べています。
アントロポゾフィーは、「霊的な認識」をもたらします。
しかし、ここでいう「霊的」とは、
日常生活や自然科学からかけ離れたものではないのです。
むしろ、アントロポゾフィーの霊的認識に到るためには、
ごく普通に日々の生活をいとなみ、
自分の感覚と知性にもとづく科学的態度を踏まえることが必要なのです。
そのうえで、「境界」ということばが出てきます。
この境界に突き当たることが、
アントロポゾフィーが働く前提条件なのです。
いつ、どういう状況でこの境界に突き当たるのか、
それは一人ひとりの人生によって異なります。
生きていくなかで、困難な選択を迫られたり、
体力の限界や病気に遭遇したり、
あるいは科学者や研究者として
「認識の限界」に突き当たることもあるでしょう。
この「境界」の体験は、それを乗り越えられなければ、
「魂的な人間存在は死滅しなければならない」ような危機的なものです。
しかし、
「この日常生活や科学は、
その前で立ちすくみ、動けなくならざるを得ないようなしかたで、
境界へ導くことはない」
といいます。
ここには、「運命」に対する絶対的な信頼があるのです。
しかし、その「境界」の体験は非常に厳しいものです。
それを恐れて、「境界」を意識せずに生き続けることもありえます。
その場合、その人の魂は本当に生きているとはいえないかもしれません。
ここでシュタイナーが、
「日常生活と科学」という言い方をしていることにも
意味があります。
一人ひとりの生き方は、非常に「主観的」なものです。
そこでは自分が人生の主人公だからです。
それに対して、科学は「客観的」とされています。
自分の主観を排して、対象を客観的に観察し、分析していきます。
そのように精神的態度としては、
一見対極にある「日常生活」と「科学」が、
ここでは一括りにされているのです。
このことを理解するヒントは、
『神智学』や『神秘学概論』などで、シュタイナーが語っている
「悟性魂」のなかにあります。
悟性とは哲学用語ですが、シュタイナーはこのことばを、
「自分の外にあるものを根拠にして、自分を支える」意識のありよう
として使っています。
そして、この意識のありようを
「悟性魂」とも「心情魂」とも呼んでいるのです。
シュタイナーの本を読んでいて、
「悟性=心情魂」という表現を見かけた方もいるのではないでしょうか。
判断力や理解力、あるいは知性とも言い換えられる「悟性」と、
一人ひとり異なる感性の部分である「心情」が、
なぜイコールで括られるのでしょうか?
それは、主観と客観、悟性と心情はつねに入れ替わり、
逆転、反転し続ける「対」の関係にあるからです。
たとえば、このブログでも触れたことのある
フェミニズムの自然科学論から見ると、
一見「客観的」とされる自然科学者の態度のなかには、
「男性性」が潜んでいます。
それは対象に関わることを恐れ、
相手をモノに還元してしまう態度です。
その場合、
研究対象の「主体」としての感じ方は否定され、
研究者自身の主体性だけが対象を支配します。
そのような「男性的」な科学のありようが、
近代以降の自然破壊や戦争、殺戮にまで導いたともいえるのです。
その一方で、たとえば家事や買い物、子育てや近所づきあいから、
さらには格差社会や戦争の問題まで、
自分の「日常」に入り込んできたものは、
一気に「現実味」を帯びてきます。
直接、自分の「痛み」や「皮膚感覚」につながったとき、
つまり自分の「主観」で捉えられたとき、
物事を「他人事」ではなく、
「自分のコト」として感じることができます。
たとえば、「わが子を戦争にやりたくない」
という母親の感覚は、
そうした皮膚感覚にもとづいているといえるでしょう。
シュタイナーは、この二つの精神的態度、
つまり主観と客観や、悟性と心情が対を成していること、
そしてこの二つが一方に偏って他方を支配するのではなく、
相互に絶えず回転し、逆転、反転を繰り返しながら「運動」するとき、
人間の魂は「霊界」への展望を切り開くことができるというのです。
悟性魂や心情魂は、
まだ「境界」にはぶち当たっていない状態です。
そのままで、まるで問題を感じないで生きていくことも可能です。
しかし、人間の運命は大概、
何らかのかたちでそのような「境界」の体験をもたらすのです。
一見、絶体絶命の、
どうしたらよいかわからないような状況の前に立たされること、
その状態をシュタイナーは「意識魂」と呼びました。
そこでは、外的な状況や理屈だけでは、
自分が一歩を踏み出す根拠になりえません。
一人ひとりが、自分自身のなかに、
自分を支える根拠を見出さなければならないのです。
それが、本来は、現代の人間がおかれた「魂の状況」だというのです。
しかし、勇気をもってその境界に向き合ったとき、
必ずアントロポゾフィー(真実の人間性)は働く
とシュタイナーは述べています。
そのとき、
自分が獲得した認識や気づき、あるいはひらめきが
(その認識の訪れ方は人それぞれですが)、
シュタイナーのいう「霊的なしかたで獲得される認識」なのです。
そうした霊的な認識を得るためには、
一人ひとりの魂の次元で、
つまり自分の人生のなかで、
自分の「境界」に向き合わなければなりません。
そのとき、
人間の魂は、自分自身の力で、
自分が進むべき方向を見出します。
それがシュタイナーのいう「霊界への展望」であり、
それを見出すのは、自分自身なのです。
自分以外の権威(霊能者や指導者など)が指し示す道を行くこと、
他人任せにすることは、
シュタイナーのいう「霊性」とはまったく別のことです。
霊性は、
あくまでも自分自身の魂のなかから、
自分自身によって見出されるものです。
そして、それこそがアントロポゾフィーなのです。
アントロポゾフィーが「思想」や「世界観」であるとすれば、
その思想や世界観は、
「従うべき教義」などではなく、
一人ひとりの自己のうちにある「真実の人間性」を信頼し、
その人にとっての真実の道を歩むことを力づけるものなのです。
また、その意味で、
シュタイナーのいう「霊界」とは、
この世から切り離された「あの世」ではなく、
どこまでも一人ひとりの現実と地続きのものです。
「霊界への展望を切り開く」ことは、
突如、誰かがぶっ飛んで「常軌を逸した」話を始めることなどではなく、
自分の「知性」と「心情」をともに働かせて、
自分の「境界」を開いていくこと、
それまでの自分の狭い感じ方や考え方を拡大していくことなのです。
しかし、それは決して当たり前に起こることなどではなく、
非常に多くの勇気と覚悟を必要とすることです。
これまでの人類の膨大な叡智は、
そのようにして、
一人ひとりの人間が精一杯生き、
考え、感じ、行為していくなかで、
蓄積されてきたのです。
そこにアントロポゾフィーは一貫して働いてきたのであり、
それは一人ひとりの「私」のなかに、
私の「真実の人間性」として
今も生き続けているのです。
アントロポゾフィーは、霊的なしかたで獲得される認識を伝達する。
ただし、アントロポゾフィーがそのような認識を伝達する唯一の理由は、
日常生活や、感覚的知覚と悟性活動を基盤とする科学が、
人生の道において何らかの境界へ導くからであり、
もしその境界を乗り越えられなければ、
魂的な人間存在は死滅しなければならないからである。
この日常生活や科学は、
その前で立ちすくみ、動けなくならざるを得ないようなしかたで、
境界へ導くことはない。
そうではなく、そのような感覚的直観の境界においては、
人間の魂自身によって、霊界への展望が開かれるのである。(訳・入間カイ)
2.
Anthroposophie vermittelt Erkenntnisse,
die auf geistige Art gewonnen werden.
Sie tut dies aber nur deswegen, weil das tägliche Leben und
die auf Sinneswahrnehmung und Verstandestätigkeit gegründete Wissenschaft
an eine Grenze des Lebensweges führen,
an der das seelische Menschendasein ersterben müßte,
wenn es diese Grenze nicht überschreiten könnte.
Dieses tägliche Leben und diese Wissenschaft führen nicht so zur Grenze,
daß an dieser stehendgeblieben werden muß,
sondern es eröffnet sich an dieser Grenze der Sinnesanschauung
durch die menschliche Seele selbst
der Ausblick in die geistige Welt.
(Rudolf Steiner)
この指導原理の第2項は、
一人ひとりの「真実の人間性」としてのアントロポゾフィーの働き
について述べています。
アントロポゾフィーは、「霊的な認識」をもたらします。
しかし、ここでいう「霊的」とは、
日常生活や自然科学からかけ離れたものではないのです。
むしろ、アントロポゾフィーの霊的認識に到るためには、
ごく普通に日々の生活をいとなみ、
自分の感覚と知性にもとづく科学的態度を踏まえることが必要なのです。
そのうえで、「境界」ということばが出てきます。
この境界に突き当たることが、
アントロポゾフィーが働く前提条件なのです。
いつ、どういう状況でこの境界に突き当たるのか、
それは一人ひとりの人生によって異なります。
生きていくなかで、困難な選択を迫られたり、
体力の限界や病気に遭遇したり、
あるいは科学者や研究者として
「認識の限界」に突き当たることもあるでしょう。
この「境界」の体験は、それを乗り越えられなければ、
「魂的な人間存在は死滅しなければならない」ような危機的なものです。
しかし、
「この日常生活や科学は、
その前で立ちすくみ、動けなくならざるを得ないようなしかたで、
境界へ導くことはない」
といいます。
ここには、「運命」に対する絶対的な信頼があるのです。
しかし、その「境界」の体験は非常に厳しいものです。
それを恐れて、「境界」を意識せずに生き続けることもありえます。
その場合、その人の魂は本当に生きているとはいえないかもしれません。
ここでシュタイナーが、
「日常生活と科学」という言い方をしていることにも
意味があります。
一人ひとりの生き方は、非常に「主観的」なものです。
そこでは自分が人生の主人公だからです。
それに対して、科学は「客観的」とされています。
自分の主観を排して、対象を客観的に観察し、分析していきます。
そのように精神的態度としては、
一見対極にある「日常生活」と「科学」が、
ここでは一括りにされているのです。
このことを理解するヒントは、
『神智学』や『神秘学概論』などで、シュタイナーが語っている
「悟性魂」のなかにあります。
悟性とは哲学用語ですが、シュタイナーはこのことばを、
「自分の外にあるものを根拠にして、自分を支える」意識のありよう
として使っています。
そして、この意識のありようを
「悟性魂」とも「心情魂」とも呼んでいるのです。
シュタイナーの本を読んでいて、
「悟性=心情魂」という表現を見かけた方もいるのではないでしょうか。
判断力や理解力、あるいは知性とも言い換えられる「悟性」と、
一人ひとり異なる感性の部分である「心情」が、
なぜイコールで括られるのでしょうか?
それは、主観と客観、悟性と心情はつねに入れ替わり、
逆転、反転し続ける「対」の関係にあるからです。
たとえば、このブログでも触れたことのある
フェミニズムの自然科学論から見ると、
一見「客観的」とされる自然科学者の態度のなかには、
「男性性」が潜んでいます。
それは対象に関わることを恐れ、
相手をモノに還元してしまう態度です。
その場合、
研究対象の「主体」としての感じ方は否定され、
研究者自身の主体性だけが対象を支配します。
そのような「男性的」な科学のありようが、
近代以降の自然破壊や戦争、殺戮にまで導いたともいえるのです。
その一方で、たとえば家事や買い物、子育てや近所づきあいから、
さらには格差社会や戦争の問題まで、
自分の「日常」に入り込んできたものは、
一気に「現実味」を帯びてきます。
直接、自分の「痛み」や「皮膚感覚」につながったとき、
つまり自分の「主観」で捉えられたとき、
物事を「他人事」ではなく、
「自分のコト」として感じることができます。
たとえば、「わが子を戦争にやりたくない」
という母親の感覚は、
そうした皮膚感覚にもとづいているといえるでしょう。
シュタイナーは、この二つの精神的態度、
つまり主観と客観や、悟性と心情が対を成していること、
そしてこの二つが一方に偏って他方を支配するのではなく、
相互に絶えず回転し、逆転、反転を繰り返しながら「運動」するとき、
人間の魂は「霊界」への展望を切り開くことができるというのです。
悟性魂や心情魂は、
まだ「境界」にはぶち当たっていない状態です。
そのままで、まるで問題を感じないで生きていくことも可能です。
しかし、人間の運命は大概、
何らかのかたちでそのような「境界」の体験をもたらすのです。
一見、絶体絶命の、
どうしたらよいかわからないような状況の前に立たされること、
その状態をシュタイナーは「意識魂」と呼びました。
そこでは、外的な状況や理屈だけでは、
自分が一歩を踏み出す根拠になりえません。
一人ひとりが、自分自身のなかに、
自分を支える根拠を見出さなければならないのです。
それが、本来は、現代の人間がおかれた「魂の状況」だというのです。
しかし、勇気をもってその境界に向き合ったとき、
必ずアントロポゾフィー(真実の人間性)は働く
とシュタイナーは述べています。
そのとき、
自分が獲得した認識や気づき、あるいはひらめきが
(その認識の訪れ方は人それぞれですが)、
シュタイナーのいう「霊的なしかたで獲得される認識」なのです。
そうした霊的な認識を得るためには、
一人ひとりの魂の次元で、
つまり自分の人生のなかで、
自分の「境界」に向き合わなければなりません。
そのとき、
人間の魂は、自分自身の力で、
自分が進むべき方向を見出します。
それがシュタイナーのいう「霊界への展望」であり、
それを見出すのは、自分自身なのです。
自分以外の権威(霊能者や指導者など)が指し示す道を行くこと、
他人任せにすることは、
シュタイナーのいう「霊性」とはまったく別のことです。
霊性は、
あくまでも自分自身の魂のなかから、
自分自身によって見出されるものです。
そして、それこそがアントロポゾフィーなのです。
アントロポゾフィーが「思想」や「世界観」であるとすれば、
その思想や世界観は、
「従うべき教義」などではなく、
一人ひとりの自己のうちにある「真実の人間性」を信頼し、
その人にとっての真実の道を歩むことを力づけるものなのです。
また、その意味で、
シュタイナーのいう「霊界」とは、
この世から切り離された「あの世」ではなく、
どこまでも一人ひとりの現実と地続きのものです。
「霊界への展望を切り開く」ことは、
突如、誰かがぶっ飛んで「常軌を逸した」話を始めることなどではなく、
自分の「知性」と「心情」をともに働かせて、
自分の「境界」を開いていくこと、
それまでの自分の狭い感じ方や考え方を拡大していくことなのです。
しかし、それは決して当たり前に起こることなどではなく、
非常に多くの勇気と覚悟を必要とすることです。
これまでの人類の膨大な叡智は、
そのようにして、
一人ひとりの人間が精一杯生き、
考え、感じ、行為していくなかで、
蓄積されてきたのです。
そこにアントロポゾフィーは一貫して働いてきたのであり、
それは一人ひとりの「私」のなかに、
私の「真実の人間性」として
今も生き続けているのです。