14.
第13項で触れた《私》(自我)の第二の「かたち」は、
この《私》の《形象》として現れる。
この「形象としての性格」に気づくことによって、
なぜ《私》が通常の意識のまえに思念のようなものとして映るのかということ、
つまり、《私》がもつ「思念としての本性」にも光が投ぜられる。
人は、ありとあらゆる考察を通じて、
通常の意識のなかに《真の私》を探し求める。
しかし、この通常の意識における体験を真摯に洞察するなら、
そこに現れているのは思念のような反映でしかないこと、
そしてそれは形象にも満たないものであることがわかる。
このことが真実であると本当に納得できるのは、
人が形象としての《私》へと歩みを進めたときだけである。
この形象としての《私》はエーテル体(生命体)のなかに生きている。
そのとき、人は初めて、
人間の真の本性としての《私》の「探求」に向けて促されるのである。
(訳・入間カイ)
14. Die zweite Gestalt des «Ich», die in der Darstellung des dritten Leitsatzes* angedeutet worden ist, tritt als «Bild» dieses Ich auf. Durch das Gewahrwerden dieses Bildcharakters wird auch ein Licht geworfen auf die Gedankenwesenheit, in der das «Ich» vor dem gewöhnlichen Bewußtsein erscheint. Man sucht durch allerlei Betrachtungen in dem gewöhnlichen Bewußtsein das «wahre Ich». Doch eine ernstliche Einsicht in die Erlebnisse dieses Bewußtseins zeigt, daß man in demselben dieses «wahre Ich» nicht finden kann; sondern daß da nur der gedankenhafte Abglanz, der weniger als ein Bild ist, aufzutreten vermag. Man wird von der Wahrheit dieses Tatbestandes erst recht erfaßt, wenn man fortschreitet zu dem «Ich» als Bild, das in dem Ätherleibe lebt. Und dadurch wird man erst richtig zu dem Suchen des Ich als der wahren Wesenheit des Menschen angeregt. (Rudolf Steiner)
*Gemeint ist der dritte der vorangehenden Gruppe: der 13. Leitsatz.
またまた久々の再開です。
この第14項から16項までは、
第13項で示された「《私》の三つのかたち」を説明しています。
本項の冒頭に「第二のかたち」とあるのは、
通常の意識のなかに現れる《私》のあり方を第一とした場合の数え方です。
通常の意識で「自分とは何か」と考えた場合、
それは記憶像の連なりや、その時々の感覚のなかで
おぼろげに感じられる「自分」というもので、
実体というよりは、思念のようなあり方をしているのではないでしょうか。
通常意識される「私」という思念は、
「エーテル体」のなかに生きる「私」の反映にすぎない、
とここでは書かれています。
「私」の第一の実在は、通常の意識のなかにではなく、
エーテル体(生命体)のなかにあるというのです。
ここでいうエーテル体とは、第13項にあるように、
人体のかたち、成長、形成力をもたらすものです。
「自分とは何か?」という問いに対して、
それは「自分という意識」ではなく、
この私のからだにかたちを与え、成長をもたらしているもの、
そこに「私」の第一の実体があると答えています。
そして、私たちの通常の「自分」という意識が
「思念」のようなあり方をしているのは、
エーテル体が本来、思考としての本性をもっているからです。
シュタイナーの人間学の基本には、
思考の力と生命力は同一のものであるという考え方があります。
私たちは、自分のからだを形成するという仕事を終了し、
解放されたエーテル体の一部を使って「思考」しているのです。
だから、私たちは自分の思考のなかに、
「私」の反映を感じるのです。
また逆に、いくら通常の意識のなかで「自分」を探し求め、
自分の考え方や感じ方のなかで「自分」を確認しようとしても、
本当の自分には到れないということになります。
なぜなら、「私」の基盤は身体のなかに、
より正確にいえば、自分の身体にかたちや成長や
生命維持の作用をもたらしているもののなかにあるからです。
この考え方からすれば、
東洋医学で「気」と呼ばれるものは、
からだのなかを12の経絡を通じてくまなく流れることによって、
「私」を担っていることになります。
そこにはエーテル体(生命力)の働きだけではなく、
その流れ方、位置関係のなかに「私」が実在しているのです。
シュタイナーの人間学に関してしばしば見受けられる誤解は、
「シュタイナーは所詮西洋人だから、個人の自我にこだわっている」
というものです。
しかし、そこでの「個人の自我」は、
通常の意識のなかの「エーテル的自我の反映」にすぎません。
ただ、現代人が自分のちっぽけな自我にこだわり、
そこで悩んだり苦しんだりせざるをえない背景にも、
この自我の問題があることは確かです。
通常の意識における自我へのこだわりを否定したり抑圧したりするのではなく、
それを手がかりにして、
その背後にある「形象」(かたち/イメージ)としての「私」に目を向けること、
そのように視界を広げていく可能性をアントロポゾフィーは示しています。
「私」というものは、日常の喜怒哀楽のなかにあると同時に、
この私の身体のなかにつねに存在しているのです。
第13項で触れた《私》(自我)の第二の「かたち」は、
この《私》の《形象》として現れる。
この「形象としての性格」に気づくことによって、
なぜ《私》が通常の意識のまえに思念のようなものとして映るのかということ、
つまり、《私》がもつ「思念としての本性」にも光が投ぜられる。
人は、ありとあらゆる考察を通じて、
通常の意識のなかに《真の私》を探し求める。
しかし、この通常の意識における体験を真摯に洞察するなら、
そこに現れているのは思念のような反映でしかないこと、
そしてそれは形象にも満たないものであることがわかる。
このことが真実であると本当に納得できるのは、
人が形象としての《私》へと歩みを進めたときだけである。
この形象としての《私》はエーテル体(生命体)のなかに生きている。
そのとき、人は初めて、
人間の真の本性としての《私》の「探求」に向けて促されるのである。
(訳・入間カイ)
14. Die zweite Gestalt des «Ich», die in der Darstellung des dritten Leitsatzes* angedeutet worden ist, tritt als «Bild» dieses Ich auf. Durch das Gewahrwerden dieses Bildcharakters wird auch ein Licht geworfen auf die Gedankenwesenheit, in der das «Ich» vor dem gewöhnlichen Bewußtsein erscheint. Man sucht durch allerlei Betrachtungen in dem gewöhnlichen Bewußtsein das «wahre Ich». Doch eine ernstliche Einsicht in die Erlebnisse dieses Bewußtseins zeigt, daß man in demselben dieses «wahre Ich» nicht finden kann; sondern daß da nur der gedankenhafte Abglanz, der weniger als ein Bild ist, aufzutreten vermag. Man wird von der Wahrheit dieses Tatbestandes erst recht erfaßt, wenn man fortschreitet zu dem «Ich» als Bild, das in dem Ätherleibe lebt. Und dadurch wird man erst richtig zu dem Suchen des Ich als der wahren Wesenheit des Menschen angeregt. (Rudolf Steiner)
*Gemeint ist der dritte der vorangehenden Gruppe: der 13. Leitsatz.
またまた久々の再開です。
この第14項から16項までは、
第13項で示された「《私》の三つのかたち」を説明しています。
本項の冒頭に「第二のかたち」とあるのは、
通常の意識のなかに現れる《私》のあり方を第一とした場合の数え方です。
通常の意識で「自分とは何か」と考えた場合、
それは記憶像の連なりや、その時々の感覚のなかで
おぼろげに感じられる「自分」というもので、
実体というよりは、思念のようなあり方をしているのではないでしょうか。
通常意識される「私」という思念は、
「エーテル体」のなかに生きる「私」の反映にすぎない、
とここでは書かれています。
「私」の第一の実在は、通常の意識のなかにではなく、
エーテル体(生命体)のなかにあるというのです。
ここでいうエーテル体とは、第13項にあるように、
人体のかたち、成長、形成力をもたらすものです。
「自分とは何か?」という問いに対して、
それは「自分という意識」ではなく、
この私のからだにかたちを与え、成長をもたらしているもの、
そこに「私」の第一の実体があると答えています。
そして、私たちの通常の「自分」という意識が
「思念」のようなあり方をしているのは、
エーテル体が本来、思考としての本性をもっているからです。
シュタイナーの人間学の基本には、
思考の力と生命力は同一のものであるという考え方があります。
私たちは、自分のからだを形成するという仕事を終了し、
解放されたエーテル体の一部を使って「思考」しているのです。
だから、私たちは自分の思考のなかに、
「私」の反映を感じるのです。
また逆に、いくら通常の意識のなかで「自分」を探し求め、
自分の考え方や感じ方のなかで「自分」を確認しようとしても、
本当の自分には到れないということになります。
なぜなら、「私」の基盤は身体のなかに、
より正確にいえば、自分の身体にかたちや成長や
生命維持の作用をもたらしているもののなかにあるからです。
この考え方からすれば、
東洋医学で「気」と呼ばれるものは、
からだのなかを12の経絡を通じてくまなく流れることによって、
「私」を担っていることになります。
そこにはエーテル体(生命力)の働きだけではなく、
その流れ方、位置関係のなかに「私」が実在しているのです。
シュタイナーの人間学に関してしばしば見受けられる誤解は、
「シュタイナーは所詮西洋人だから、個人の自我にこだわっている」
というものです。
しかし、そこでの「個人の自我」は、
通常の意識のなかの「エーテル的自我の反映」にすぎません。
ただ、現代人が自分のちっぽけな自我にこだわり、
そこで悩んだり苦しんだりせざるをえない背景にも、
この自我の問題があることは確かです。
通常の意識における自我へのこだわりを否定したり抑圧したりするのではなく、
それを手がかりにして、
その背後にある「形象」(かたち/イメージ)としての「私」に目を向けること、
そのように視界を広げていく可能性をアントロポゾフィーは示しています。
「私」というものは、日常の喜怒哀楽のなかにあると同時に、
この私の身体のなかにつねに存在しているのです。
自然なこととして自分に解き放てば、
手がかりという扉を開く事に繋がる・・・・
そしてその扉の向こうに広がる世界を
目にすることを可能にしてくれる・・・
この開放感、愛とも言える視点を、
ありのままを見つめることの大切さを
噛みしめました。
ありがとうございます。
(15)も楽しみにしています。