ヒルネボウ

笑ってもいいかなあ? 笑うしかないとも。
本ブログは、一部の人にとって、愉快な表現が含まれています。

夏目漱石を読むという虚栄 2540

2021-05-02 17:32:24 | 評論
   夏目漱石を読むという虚栄
2000 不純な「矛盾な人間」
2500 明示できない精神
2540 「継続中」の「精神」
2541 「どうかこうか生きている」
 
Nにとって、「明治の精神」は明治の終わりとともに終わらなかったはずだ。
 
<どうかこうか生きている。――私はこの一句を久しい間使用した。しかし使用するごとに、何だか不穏当(ふおんとう)な心持がするので、自分でも実は已(や)められるならばと思って考えてみたが、私の健康状態を云い現わすべき適当な言葉は、他(た)にどうしても見付からなかった。
ある日T君が来たから、この話をして、癒ったとも云えず、癒らないとも云えず、何と答えて好いか分らないと語ったら、T君はすぐ私にこんな返事をした。
「そりゃ癒ったとは云われませんね。そう時々再発する様じゃ。まあ故(もと)の病気の継続なんでしょう」
この継続という言葉を聞いた時、私は好い事を教えられたような気がした。それから以後は、「どうにかこうにか生きています」という挨拶を已めて、「病気はまだ継続中です」と改た(ママ)めた。そうしてその継続の意味を説明する場合には、必ず欧洲の大乱を引合に出した。
(夏目漱石『硝子戸の中』三十)>
 
相手変われど主変わらず。一個の台詞で万人を納得させられるような「適当な言葉」など、あるはずがない。Nは世界を舞台にし、万人を観客に見立てることによって、つまり文学者になりすますことによって、「どうにかこうにか生きている」のだった。
「継続中」について「漱石文学の代表的テーマの一つに関わることば」(ちくま文庫『夏目漱石全集10』註)と紹介してある。意味不明。
 
<私は私の病気が継続であるという事に気が付いた時、欧洲の戦争も恐らく何時の世からかの継続だろうと考えた。けれども、それが何処からどう始まって、どう曲折して行くのかの問題になると全く無知識なので、継続という言葉を解しない一般の人を、私は却って羨(うらや)ましく思っている。
(夏目漱石『硝子戸の中』三十)>
 
「欧洲の」から「けれども」までを省いて読んでみよう。Nは、自分の「問題」について「無知識」でいたくて、つまり、病因について反省したくなくて、世界史的事件に話をすりかえたのだ。「継続」という語は夏目語。
 
<造語症ともいう。本人だけにしか通用しない言葉を作りだすこと。病的状態では統合失調症にみられる。
(『精神科ポケット辞典[新訂版]「言語新作」)>
 
Nには造語の癖があった。この〈造語〉は「新らしい意義」などの創出も含む。
 
 
 
 
 
 
 
2000 不純な「矛盾な人間」
2500 明示できない精神
2540 「神経衰弱」
2542 「外発的」
 
「明治の精神」は「神経衰弱」と言い換えられる。
 
<すでに開化と云うものがいかに進歩しても、案外その開化の賜(たまもの)として吾々の受くる安心の度は微弱なもので、競争その他からいらいらしなければならない心配を勘定(かんじょう)に入れると、吾人の幸福は野蛮時代とそう変りはなさそうである事は前(ぜん)御話しした通りである上に、今言った現代日本が置かれたる特殊の状況に因(よ)って吾々の開化が機械的に変化を余儀なくされるためにただ上皮(うわかわ)を滑って行き、また滑るまいと思って踏張(ふんば)るために神経衰弱になるとすれば、どうも日本人は気の毒と言わんか憐(あわ)れと言わんか、誠に言語道断の窮状に陥ったものであります。私の結論はそれだけに過ぎない。
(夏目漱石『現代日本の開化』)>
 
『日本文化の雑種性』(加藤周一)は、これの気の抜けたパクリ。
「神経衰弱」について語るNの文体そのものが、彼自身の「神経衰弱」の症状だろう。一文を適当に終えることができず、憑りつかれたようにべらべらとしゃべる。「神経衰弱」の症状は「いらいら」だが、彼の語り口そのものが「いらいら」しているわけだ。
Nは自身の「心配事」や「状況」や「窮状」を隠蔽している。
 
<それで現代の日本の開化は前に述べた一般の開化とどこが違うかと云(ママ)うのが問題です。もし一言にしてこの問題を解決しようとするならば私はこう断じたい、(ママ)西洋の開化(すなわち一般の開化)は内発的であって、日本の現代の開化は外発的である。
(夏目漱石『現代日本の開化』)>
 
ナンセンス。詭弁ですらない。
 
<が、初めてこの文章を読んだ時に感じた、素人の幼稚な疑問だけはぜひ書いておきたい。それは、なぜ、「西洋」と「日本」が比較されているのかということである。これが「西洋」と「東洋」の比較であれば分かる。あるいは、「イギリス」「フランス」「ドイツ」等の国々と「日本」が比較されているのであれば理解できる。しかし、「西洋」と「日本」では、比較させるもののカテゴリーがまるでずれてしまっているではないか。こんなカテゴリー間違い(category mistake)の典型のような設定で、それぞれの開化の特質について、正確な判断が下せるものなのだろうか。
(香西秀信『論争と「詭弁」』「レトリックのための弁明」)>
 
「外発」は、普通、〈外圧〉という。Nのいう「外発」は〈外因〉という意味を内包し、隠蔽している。Nは文明を病気と考えていた。〈自然×文明〉が〈健康×病気〉から〈正常×異常〉へとずれこむ。Nは自身の異常性格が内因的性であることを自他に対して隠蔽するために文明論をでっち上げた。ただし、そうした自覚はなかったのだろう。
 
 
 
 
 
2000 不純な「矛盾な人間」
2500 明示できない精神
2540 「神経衰弱」
2543 「不安」
 
Sの「煩悶(はんもん)や苦悶」(下三)は、明治に特有の文化などによって生じたのではない。語り手Sはその原因を徹底的に隠蔽しようとして、意味不明の言葉を並べる。作者はこうした隠蔽工作に加担している。
 
<日本は西洋から借金でもしなければ、到底立ち行(ゆ)かない国だ。それでいて、一等国を以て任じている。そうして、無理にも一等国の仲間入(ママ)をしようとする。だから、あらゆる方面に向って、奥行を削って、一等国だけの間口を張っちまった。なまじい張れるから、なお悲惨なものだ。
(夏目漱石『それから』六)>
 
代助は、「日本対西洋」(『それから』六)の関係と自他の関係を混同している。〈父親対息子〉の対立を隠蔽するためだ。そのことに作者は気づいていない。だから、読者も気づいてはならない。
 
<私は死んだ後(あと)で、妻から頓死(とんし)したと思われたいのです。気が狂ったと思われても満足なのです。
(夏目漱石『こころ』「下 先生と遺書」五十六)>
 
語り手Sは、〈「気が狂った」と、Pには「思われ」ない〉と暗示している。Pには「思われ」ないとしても、「医者」からはどう「思われ」るのだろう。「気が狂った」と思うのは、静か。「先生」の含意は〈女からは「気が狂った」と思われそうな中年男〉かもしれない。
 
<その上彼は、現代の日本に特有なる一種の不安に襲われ出した。その不安は人と人との間に信仰がない源因(げんいん)から起こる野蛮程度の現象であった。彼はこの心的現象のために甚しき動揺を感じた。
(夏目漱石『それから』十)>
 
語り手は〈代助に「特有なる一種の不安」の物語〉を隠蔽している。
「その不安」は手品。「一種の不安」は「不安」ではない。淋しい系の言葉だ。「信仰」の真意は〈共感〉などか。「野蛮」の真意は〈幼児〉だろう。
普通の意味での「不安」のせいで「はなはだしき動揺」は起きない。
 
<恐ろしいものに脅かされているという感情。現実に恐れる対象がはっきりしている恐れとは異なり、その原因は本人にも明瞭でない。
(『ブリタニカ国際大百科事典』「不安」)>
 
「不安」は夏目語だ。
(終)
 
この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 備忘録 ~余計者 | トップ | 備忘録~メガトン »
最新の画像もっと見る

評論」カテゴリの最新記事