上記の佐藤彩香裁判官、古坂美乃利書記官というのは、僕等が起こした3333の国買訴
訟とは別口の一般訴訟です。一般訴訟では裁判官は絶対に負けない決まりなのですが、彼
自身の書いた答弁書が欲しくて提起したものです。そこの裁判官&書記官チームが佐藤氏
と古坂さん。結審間際のツメで下手こいて、佐藤さんのほうは飛ばされてしまった。33
33号の国賠は、石垣陽介の誤記と改竄を国家の責任として追及する種のものですが、僕
等はそれに加え2つの一般訴訟でも、石垣陽介個人としての責任を追及していたのです。
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💎 丹下友華裁判官3333号判決の< 審理拒否の構造 >について ( 石垣陽介調書改竄事件 )
2023-07-24 19:39:59 ( 加筆あり )
前々回の上記の僕記事はマジ気合いが入りすぎてしまい、最後まで読み切れるひとはそういなかったと思うんだけど、視聴が取れなくてもなんでもこれだきゃあ挙げなくっちゃいけない、という類いの記事だったんですよね、僕にとって。
僕はね、ひととひとの対決っていうのは、最終的にはおのおのの持っているアイデンティティーの勝負だと思っているんです。
テクニックでも、財力でも、踏んだ場数の数でも、狡猾さでもない、崖っぷちの事態になればそのような脆弱なマニュアルなんてものは、みんなぺらぺらって翔んじゃいますから。
僕と友人の新藤さん( エコ作家の新藤洋一。僕記事にあるんで興味ある方はどうぞ!)の共通の師でもある藤原新也氏( 印度放浪。東京漂流などの著者 )は、インタヴューアーに「 ところで藤原さんはどうして印度に行かれたんですか? 」と問われれた際、長い沈黙のあとでこう答えられた。
―――・・・何か知らんけど
無茶苦茶に何でもかんでも、
負けに行ったんじゃないかなァ。
・・・最初の頃は。
聴いたほうがつい黙っちゃうような率直にすぎる意見なんだけどね、この答え以外でも、彼は日本と印度の対比に関してこのようなことをいっていたりもするんです。
―――そして、印度という土地は、すぐ人の嘘をあばいて見せる。・・・右があれば左があるといった二次元的な宇宙感覚や生活感覚を持ってこの土地に入った者は、自分がさらに潔癖であらねばならぬことを強いられて、嘘がなくとも白状しなければならない、本当のように見えることも嘘になってしまうのだから。ひょっとするとこれは嘘ではないか、と自分でうすうす気づいているような嘘は、たちどころに根っからの嘘になってしまう・・・。
藤原流のこうしたディープな闇視点から見るならば、石垣陽介をはじめとする現代ニッポンの司法組織のこの一連の、自らの立場を守るためのセコくていじましすぎる闘いは、現代の法律空間という限定された狭い場所でしか成り立たちえない、非常にバーチャルでゲーム力学的な、自らを賭けるに値しない「 虚の闘い 」といえるのではないのかな?
現代風の闘いって大概そうなんですよ。
血が流れない。肉身だって斬られない。
そして、死というリアルな結末もない。
自分のキャラが破れてズタボロになり、ゲーム的にはオーバーってことになっても、一端電源をログオフにしてから又電源を入れなおし、前キャラに ' ( ダッシュ )をつけてそれで又ゲームをリプレイすれば、なんごともないいつも通りの安全なゲームバトルを、だらだらとまた続けていけるわけですから。
生物だったら闘って殺られてしまえば、当然主人公キャラはおしまい。
生命って、基本一回限定の生しか生きれないものなので。
だからこそ誰もがあらゆる知恵と能力とを駆使して、必死のうえにも必死になって、卑怯な手もあこぎなフェイントも全部駆使して、自分という存在を消去されないためになりふり構わず、みっともないくらいしゃにむに頑張るわけです ――― 1秒でも1分でも、やっと手に入れた自分だけの地所で、ほんのちょっとだけでも長く生き延びるために・・・。
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こういうリアルな光芒を目前で見せつけてくれるのは、たとえば Jazz の1流ミュージシャンたちです。
特にパーカーだな ――― チャーリー・パーカー。
マイルスもいいけど、ぎりぎりの一回きりの生命の燃焼っていうものを、あれだけ見せつけてくれるひとは他にいない。
僕は jazz はずいぶん好きなんだけど、本音をいうなら jazz というジャンルを全て捨てても、パーカーだけは残したい、という異常な意見を実はもっているんです、
うん、パーカーひとりのほうが、jazz ってジャンル全てより大事です。
なぜか? 美しいから。
一回きりしかやれないアドリブにあれだけ己の全てを注ぎこめたひとは、他の芸術ジャンルでもちょっと見当たらないと思う。
即興演奏に全てを賭けたパーカーのアドリブラインは、誰にも真似のできない一種異様な眩しさでもって輝いていて、残されたその古いモノラル録音に触れるだけでも、僕は彼のプレイの唯一無二の光芒に射られて、恍惚とするというよりむしろ立ちすくんでしまう。
プレイバック不可の、一期一会のこうしたアドリブ世界を極限まで突きつめたのがパーカーなら、それと真逆に位置しているのが、僕が前述した司法マフィアの集団隠蔽行動であるのだ、と僕は思う。
個々の責任を分散して「 国家 」という架空のシステムに上乗せして、リスキーな個人の闘争を「 国家 」といシンボル内に融解させ、霧散させしめ、最終的にはうやむやにしてしまう。
つまり「 個人責任の消去装置 」であり、「 国家 」ってのは、いつでも彼等・国家公務員の避難シェルターとして使われているわけ。
これって一種の「 無敵システム 」なんですよ。
個々人の責任をそうやってみんな棚上げしてしまい、自分ごと「 国家 」ってシムテムの歯車に成りきってしまえば、恐れるものは何もない、恐れを感知する自分自身ですら「 国家 」の機構内にすでに解体され、消化されてしまっているのですから。
これは、「 戦争 」だとか「 思想統制 」だとかを行うためには、とても便利なシステムです。
非常に合理的かつ機能的、そして同時に非人間的でもあります。
官僚個々の人間性が見事なまでにスポイルされ、司法という組織が全体主義的に暴走してしまったもっとも最近の悪例は、やっぱりあの「 袴田巌冤罪事件 」でしょう。
https://www.nichibenren.or.jp/activity/criminal/deathpenalty/q12/enzaihakamada.html
1966年6月に静岡県清水区で起きた4人の殺害事件の容疑者として逮捕された、袴田巌氏の裁判はもつれにもつれ、1980年の11月にようやくのこと袴田氏の死刑が確定しました。上記の記事を読んでもらえれば誰でも肌感覚で「 !? 」と感じないではいられないくらいの理の不在が、ここにはあります。
多くの関係者から「 冤罪 」の声が次々とあがり、1981年4月に彼の弁護団から第一次再審請求が起こされたのだけど、2008年の3月に最高裁はこれを棄却。
その翌月に第二次再審請求が弁護団から証拠つきで申し立てられ、静岡地裁が袴田氏の再審を開始し、死刑及び拘置執行をやめる決定をようやくのこと下し、袴田氏が釈放されたのが2014年の3月27日のこと ――――
なんと袴田氏は、計45年ものあいだ死刑囚として拘置されつづけていたのです。
法治国家として最大の恥辱であり過ちである「 冤罪 」――― 当然、米CNNも、英BBCも、これを国際的な大事件として報道しました。
2011年には、あのギネスブックも袴田氏のことを「 世界でもっとも長く拘置された死刑囚 」として認定。
これはいま現在、日本中をゆさぶっている、あの「 ジャニーズ事件 」とまったく同じ構図です。
外圧があって、黒船がやってきて、やっとのことで幕府が動くといった「 日本人独自のおくゆかしい習性行動 」を、僕等は飽きもせず、いまだ繰り返しているわけです。
もう恥ずかしすぎるよね、こういったトホホな国民性は?
ここ日本国において、民間を除いた公的な機関では、個々人の決断といったものはもう存在しなくなっているんじゃないか、というのが今回の僕言説の結論です。
例としてあげた「 袴田巌冤罪事件 」なんて、それを証明するためのうってつけのサンプルなんじゃないのかな?
鰯の群れにはリーダーなんていないんですよ。リーダーが海面間際でささーっと方向転換して、配下の鰯たちがそれに習うといった形式じゃないのよ、鰯の群れは、全ての鰯が同時に方向転換をするのです。
そうした海中の鰯たちのような習性が、我が国の公的機関には共通してある、と僕は思うんです。
徳川幕府の血かDNAが、いまだ累々と受け継がれているさまをどうしてもそこに見てしまうというかね・・・。
戦後の我が国の絶対的な天皇主義から高度経済成長国家への急転も、この「 鰯理論 」で全部説明がつけられるもんね。
そして、このような司法の旧弊な「 お家大事システム 」と似ているなと僕が感じるのが、僕が少しまえまでバトっていた、多くの陰謀論者たちなんです。
日本有数のエリートたちが揃い踏みしている司法組織と、僕が「 ネットスラム 」と呼んだ陰謀論者たちとを並列して語るとなると、司法筋から不満の声があがってくるかもしれないんだけど、僕は、この両者にある共通項をどうしても見つめてしまう。
どちらの立つ土壌も現実の地のようにリアルな踏みごたえのあるものではなく、どちらの述べる主張もシバ神の赤裸々な憤怒のような愚直さがなく、脆弱で、弱々しく、現実的な根拠にも乏しいといった点において、両者はよく似ています。
現実的な根拠に乏しいというより、現実という土台に立つことを拒否しているスタンスが似ているって表現のほうが近いかな?
彼等は双方ともヒッキー人種です。
陰謀論者は現実から夜逃げして、現実から離れたネット内の仮想ユートピア国に居住して ―――
司法の彼等も現実世界を煙たがり、自分たちの暮らす仮想現実( 法律で編みあげた限定世界もやはり仮想ユートピアでしょうから )に閉じこもり ―――
どちらとも信念がなく、自信もなく、すべてを捨てても構わないと言い切るだけの決意も覚悟もなく、あるのはせいぜいのところ現実の損得勘定と狭い世界内での自身の面子計算ぐらいなんであって・・・。
でもね、そういったものは、冒頭部で述べた藤原印度流の視点から眺めてみたら、たぶん全部虚偽であり嘘なんです。
ちょっとまえの Q 陰謀論の大流行も、あれは、僕等の生きる現代が本質的なものを見探る目をぐんぐん失っていって、いまみたいに物事の表層しか見れない、どうしようもない自閉の空気に茫洋と包まれてしまう未来への警鐘として鳴らされた、預言のベル的な意味あいがあったのかもしれない、なんて風に思うこともあります。
彼等自身、自分の吐いている言葉が嘘であるってことは、分かりすぎるほど分かっていると思う。
だから、高橋譲判事は満期退官を前にして自主退官というかたちであのように逃亡したのだし、佐藤彩香判事も僕等を前にして判決がいついつだと法廷で言い切ることができなかった・・・。
僕はそこに「 今まさにのたうっている現代ニッポンの病巣そのもの 」を見ます。
陰謀論者にも、僕等訴訟に関連した多くの法曹関係者にも、どっちとも。
これは、非現実の病です。
罹患すると、誰もが「 社会性 」を失い、現実の薄紙一枚分だけ奥にある「 非社会 」へホワイトアウトしてしまう。
経済や社会性の枠組からはぐれてしまった失意の人々は、失くしてしまった行き場所を求めてネット内の架空空間に「 反ワクとノーマスクを歌う偽ユートピア 」を作りあげ、その内部にそろって集団疎開をしはじめ ―――
法曹界の壮年層は壮年層で、自分たちが当初からもっていた正義感の物差しが、裁判所内の明文化されていない現実的な掟に日毎に侵食され、スポイルされていく窒息感に耐えかねて、裁判の判決書や裁判調書というれっきとした公文書内に、自己の鬱憤のありったけを乗っけた、日本語にもなっていない、破綻だらけの非論理文をしゃにむに書きまくり・・・
高橋譲や佐藤彩香、石垣陽介や丹下友華らは、法廷に無縁の一般人からすれば、1度も会ったことがない、司法という雲の上の見知らぬ他人でしかないのかもしれない ――― だけど、そうじゃない、彼等はね ――― より率直にいうなら、ええ、鏡に映った「 僕等そのもの 」なんですよ。
僕はそう思う。そして、僕的には、その不浄がどうしても許せない。
僕等がこの闘いをやめないのは、うん、たぶんそのためなんです ――― 。( 了 )
She Rote
カッ飛べ! これが石垣誤記だ(# ゚Д゚)
また翔べ! これが石垣調書改竄だΣ(・□・;)
★ 石垣さんも丹下さんも裁判官なんだから、地裁隣りの法務省赤レンガ棟を入って右手の「 越前碑 」を
参拝したことがあるはずです。そのときの自分の初心を思い出してほしい。あなた方はあの頃の自分に
いま向きあうことができますか? 目を反らさずに微笑みかけることができますか? そのへんのこと
をいっぺんよく考えてみてください。
あ
あ