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小乗と大乗

2022年05月21日 | 教学基礎講座(二)

「大白法」 平成27年10月16日(第919号)

【教学基礎講座】11

 「小乗と大乗」

 ー苦海の海を漕ぎ渡る船ー

 これまで仏教の基礎的なことについて述べてきましたが、それらをまとめる意味で、今回は小乗と大乗について述べてみましょう。

 この「乗」とは乗り物の意味で、仏の教えは人々を迷いの此岸(現実界)から悟りの彼岸(理想界)に渡す乗り物ですから、 仏教を乗り物に譬えて「乗」というのです。

  小乗の教え

 小乗とは劣乗ともいい、小さな乗り物、 劣った乗り物という意味です。これは自分だけの悟りや救済を目的とした、小根性の者が乗る自利の教えですから小乗と言うのです。天台大師の判釈によれば、釈尊が十二年間にわたって説かれた阿含経で、経・律・論の三蔵を説いたものを小乗教と言います。

 この経・律・論の三蔵とは、経は四阿含経、律は四分律・摩訶僧祗律・五分律等、論は六足論・発智論・大毘婆沙論等で、それらを所依として日本で成立した宗派が、倶舎・成実・律の三宗です。

 大乗の教え

 大乗とは音訳して摩訶艷衍とも言い、大きな乗り物、勝れた乗り物の意味で、こちらは小乗の教えのように自らの悟りや救済を求めるだけでなく、他の人々をも広く救済し仏道を得させる大根性の者が乗る自覚覚他(自ら悟り他を悟らせる)の教えです。

 この大乗の教えも、大聖人が五重の相対判で示されるように、権大乗教と実大乗教とに分かれます。ここでは一往、大乗一般について述べることとします。

 小乗と大乗の対立

 釈尊滅後、弟子たちはその教えをどのように習い伝えるかについて、保守的態度をとった上座部と、進歩的態度をとった大衆部とに別れました。前者は教えや戒律というものを文字通りに解釈して伝統を重んじようとし、後者は文字に囚われずに仏の教えの真意を把握し、その精神を顕わそうとしたのです。

 これらを総称して部派仏教といいますが、次第に形骸化して,仏教本来の宗教的立場を失ったために、この両者の対立の中で大衆部を中心として、仏教をより思想的に高度に掘り下げ、釈尊本来の精神に復帰させようとしたのが大乗仏教です。

 この大乗仏教の立場から、それ以前の上座部系の仏教を指して、軽蔑の意味で命名したのが小乗であり、自ら小乗とは言いません。

  小乗と大乗の相違

  そこでもう少し詳しく両者の教えの違いについて、その主なものを示してみましょう。

 

  一、 声聞乗と菩薩乗

 小乗を声聞乗、大乗を菩薩乗とも言います。 小乗仏教では、仏である釈尊に対し、弟子たちはただ仏陀の教えを聞き、それに従って終了しますが、決してその修行によって佛陀となることはできず、せいぜい声聞の最高の悟りである阿羅漢果や辟支仏果を得られるに過ぎないとされます。

 さらにこれは、あくまで自分だけの完成や解脱のために修行するという、自己中心的な教えとも言われます。

 これに対して、大乗仏教では「一切衆生悉有仏性」の立場から、どんな人でも菩提心を起こせば菩薩になることができ、その請願と自覚をもって六波羅蜜等の修行を積むならば、誰でも仏になることができると説くのです。たとえ今生に叶わなくとも、未来には必ず仏になることができるとされます。

 ですから、大乗仏教は一切衆生を救済し社会全体を浄化向上させる、自利利他の教えと言えるのです。

 二、有と空

 部派仏教はアビダルマという綿密な教学を研究しました。アビダルマとは「論」や「対法」などと訳されますが、これは「法に対するもの」の意味で、法とはここでは仏の説法としての経典を指しており、経典に対する説明・注釈・研究などを言います。

 釈尊は当時の外道が問題にしていた「何があるか」というような実体の有無(存在論、実在論)によっては、人間の苦悩を解決することができないとして、有(存在)について問題にすることを禁じていました。 しかし、このアビダルマではそのことを論じています。

  本来仏教が主眼としていることは、私たちが存在するか否かではなく、私たち人間に関わる生滅変化の現象なのです。 その現象が 「いかにあるか」(状態)、それを私たちは「いかにすべきか」「いかに対処すべきか」(態度)ということです。これを縁起説と言い、四諦・八正道や十二縁起などの仏教の基本法理は、すべてこれを説いたものです。

 このように、大乗仏教は「偏空」に囚われた小乗の教えを破して、般若の空を強調し、法華経で説く中道実相を明かす三諦円融観には及ばないまでも、釈尊の教え本来の正しい縁起説を復活させたのです。

  大乗仏教成立の意義

 以上のことからも判るように、小乗の教えは理論のための理論が多く、仏教本来の目的から遊離したものでした。

  これに対して大乗の教えは、より信仰的 ・実践的でありながら、その説かれる教理の内容は、小乗教では遠く及ばない高度なものです。

 釈尊滅後から大乗仏教に至るまでの思想的展開を見たときには、上座部系統のいわゆる小乗教は、仏教を部分的に据えた見方であり、大衆部の立場から興ってきた大乗仏教こそが、一切衆生の救済を目的とした釈尊のまことの精神を伝えるものと言えます。

   大聖人の大小相対

    大聖人の大小乗に対する判釈は、一般的な相対判としての御文は、それほど多くありません。 それは大聖人の弘通される仏法は、大乗の中にも実大乗、実大乗の中でも本門寿量品、さらにその文底下種の本門にあって、一般的な大小の相対は、既に解決済みだからです。

 『 観心本尊抄』の文底下種三段を明かす御文の中で、「一品二半よりの外は小乗教」と示されるように、法華経の本門文底下種の立場から見れば、内証の寿量品によって説き顕わされる本因下種の南無妙法蓮華経こそ唯一の大乗であり、その他の権・迹・文上本門も、ことごとく小乗教とみなされるのです。ですから真の大乗の教えは、末法出現の大聖人を待たなければ、明らかにならないのです。

 

 

 

 

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