風信子(ひやしんす)の☆本の紹介&エッセー☆俳句

濫読・雑読の風信子(ひやしんす)が気の向くままに、お気に入りの本を紹介いたします。

☆ 「放射能をただしく怖がる」は、原発推進派の洗脳-マインドコントロール-の言葉です。

2011年08月31日 | ☆ひやしんすの☆今日の出来事♪
今日のツイッターを読んでいたら、三重県の中川 均さん @naka8952 という方のつぶやきが目についた。

「福島の桃1箱100円の捨て値で売られている。つまり生産者は破産を予感せねばならない立場。それなのにどんどん売れていくという。つまり加工食品としてか、産地隠蔽桃としてか、とにかく市場に出てしまう。知らずに食べる人が続出。消費者は破滅」

とても消費者が求めているとは思えない。誰かが桃のジュース(加工食品)になるのではと、つぶやいていたが、ひょっとして豚などの家畜の餌になるのではないだろうか?

仕入れ値の安さだけで物事を考える人間や、原価を抑えるために血眼になっている生産者ばかりではなかろうが、多勢を占めるような気もする。

ただでさえ、福島の知事は風評被害のことだけを宣伝していて、ニュースでさえ美談仕立てでのようなニュースを流しています。

NHK【ニュース】
 修学旅行で横浜を訪れている福島市の中学生が、原発事故の影響で売り上げが落ち込んでいる地元特産の桃を無料で配って、安全性をPRしました。
福島市立平野中学校の生徒たちが企画したもので、30日は、3年生60人あまりが、地元の農家で収穫されたばかりの桃を持ち込みました。 


こうした子供を使った教師の行動にたいしては、ツイッターの話題になり、怒りの声も上がっています。(風評被害の打ち消しのためとは言え・・・・。)



さらに追い打ちをかけたのが、ブログ:「院長の独り言」の2011年08月29日の記事です。

『放射能を必要以上に怖がることは「エセ科学」=カルト宗教-新聞論説から』を御紹介します。

熊本の内科医の先生が、ジャーナリストとして有名な江川紹子さんの思想たいして危惧をだかれて反論されています。

詳しいことはまた書きますね。

「院長の独り言」より抜粋。 
 
 私から言わせると当たり前です。内部被曝の危険性を全く無視して、汚染された土地に人を平気で住まわせ、汚染された野菜を平気で食べさせれば、日本全国で放射能被害が起き、信じられない数の被ばくが起きるのは火を見るより明らかです。日本にもはや安全な土地はないと言っていいでしょう。当然の帰結として放射能汚染に対する反対運動は、全国に広がります。その運動をエセ科学とステレオタイプ化させようとしています。読者にはこういったエセ科学には与しないようにと言うわけです。





 
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☆ 予約の本が受けとれました。「三陸海岸大津波」著者:吉村 昭 

2011年08月28日 | ☆ひやしんすの☆今日の出来事♪
高槻市立図書館からメールが届いていた。4月25日にネットで予約していた本が【受取可能】ですので、受取先として指定していた駅前図書コーナーで受け取ってください。というメールである。

ハア~。予約から受取まで4か月もかかったか。

書名:「三陸海岸大津波」である。著者、吉村 昭さん。

三陸海岸大津波 (文春文庫)
吉村 昭
文藝春秋


予約の時点で、待ってる人が5番目であった。一人が3週間借りたら、なるほど今じぶんになるのかあ。

分館の阿武山図書館から廻ってきたもので、文春文庫である。これは2004年版であるのでマダ清潔な感じであった。この先、まだ予約者がかなり多い。

さっそく読みはじめてみると、驚くべきことばかりの内容である。今回の津波の有り様と全く一致する。そして明治29年の津波について吉村氏が足を使って取材し、土地の古老から聞いた証言を載せているのに驚かされる。もし、これが書かれなかったら記録されなかった貴重な体験談である。

記録文学の凄さを感じた。

そして津波の被害が、実に、今回の東日本大震災の広範囲な海岸線を襲っていた地域とすっぽり重なっているのにも驚く、さらに津波で亡くなった方がどういう亡くなり方をしたのかに驚かされる。まったく一緒であった。溺れて死ぬのだけでなく、色々な物にぶつかって亡くなっているのである。

さらに、この明治29年の地震は6月であったが、食糧が不足して困窮したことや衣服がなくて冷えて困った等まで同じである。

どうして、こういう事を検証しておかなかったのか不思議なくらいである。明治の困窮も平成の困窮も同じとは腹立たしい限りである。

これから、昭和の津波について読むところです。




 
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☆ 東京、銀座で大規模な震災訓練 5000人以上が参加。 by ANNニュース

2011年08月26日 | ☆ひやしんすの☆今日の出来事♪
3月11日の地震発生当時、都内にいた人は約1千万人と推定されて、自宅へ帰宅できたのは700万人ということですが、残り300万人は帰宅難民となり大変な夜となりました。

ANNニュースによると、銀座では今後の地震に備えて大規模な訓練をおこなったようです。

 東京・銀座で、大規模な震災訓練が行われました。  ←リンクあり。 
 訓練は、都内で震度6強の地震が発生したという想定で行われ、例年より多い、5000人以上が参加しました。警視庁のレスキュー隊や消防のはしご車を使い、デパートに取り残された客を救助する訓練も行われました。東日本大震災では電車などが止まったため、都内で一時、約300万人が帰宅できなくなりました。銀座の町会では今後、もしもの時には、家に帰れなくなった客らを受け入れる準備を進めています。 


 東京新聞によると、「中央通り沿いは、建物の耐震化が進んでおり、倒壊や火災延焼の危険性が少ないため、大災害時の「地区内残留地区」に指定されており、大勢が集まると予想される。主催者は「ハード面では安全性が高い街だが、働く人たちが防災リーダーとしてお客さんの安全を確保できるようにしたい」と話した。」とあります。

 全銀座会防災対策委員長の森 連さん(79)は、「会社が、ひとまず自分の会社に泊めていただければ、こんなに帰宅困難者が道路にあふれるようなことはないんじゃないか。」と話し、今後の課題として提供されていました。

 私も、3月の地震発生のTVを見ていて、なぜ会社で夜を過ごさないのかと疑問に思ったものです。結果的には7割近い人が帰宅できたようですが、夜道を何時間も掛けて家路をめざすこともないのではないかと・・・。企業は早めの帰宅を勧めたところもあったようですが、事前に社員がどうしたいか希望を聞いておいて対応を図るべきです。

 といっても家族の安否を知りたいと思うのは当然ですし、自宅では心配しているのではないかと早々に帰宅態勢に入りたいと、気が逸るのも分かるのですが。会社と家族の双方に事前に話し合いをしておいて、無理に帰宅するということをなくしたらどうでしょうか。あまりにも危険が多いと思われます。

 ただ火災の発生ということも考えられ、表通りのビル街いがいの場所では建築物の倒壊が起こるかもしれず、ケースバイケースではあります。自分の位置がどのあたりにあるかということは考えて検討しておくべきでしょう。

 風信子の働いていた処は、大阪市中央区の大阪ビジネスパークに所在する超高層ビル、クリスタルタワー(37階建)でした。会社では机の下にヘルメットが吊ってあり、いざという時は心強く感じました。(でも驚いたことに景気が悪くなったかして、ヘルメットのリースを止めてしまったのですよ!何考えているのだろうと思いました。この時は心細かったです。)

 このビルが地震の液状化により傾いていくのではないかとか、いつも乗っている電車は環状線だけど、乗り継ぎ駅の大阪駅は土地が低いので水没するだろうから京阪で枚方を廻って帰ろうかと考えたり、電車が止まったらどうすればよいだろうかと思ったり、冗談で大阪城まで逃げようと話したり色々でした。

 電車といえば、当時のTV画面をみてて、JRが早々にシャッターを降ろしていっているのをみて呆れました。ホームを閉鎖するのは危険だから分かりますが、なぜ駅の構内まで封鎖したのでしょうか。多くの人を吸収して守ることができたはずです。銀座の人の心意気と比較してみると、とても考えられない対応でしたね。

参考資料:東海・東南海・南海地震、それぞれの被害想定    大阪の死者は50人 あまりにも少ない予測ですね。

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☆ ツイッターでの8月25日のつぶやき。

2011年08月25日 | ☆ひやしんすの☆今日の出来事♪
今夜は、高槻市民合唱団の練習日です。

いまから出かけてきますね。



 他の風信子のツイッターまとめ。(ツイログ)http://twilog.org/hyacinth_haru




 
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☆ 8月23日はシベリア抑留(強制連行)がはじまった日。

2011年08月23日 | ☆風信子(ひやしんす)の思い出。
NHKによると、「8月23日は66年前の終戦直後、旧ソビエトが、中国にいた日本兵や民間人をシベリアなどに移送し、重労働に従事させた、いわゆる「シベリア抑留」が始まったとされる日」だそうです。

で、厚生労働省によりますと、抑留中におよそ5万5000人が亡くなったとされ、20年前から遺骨の収集が進められています。しかし、半分以上のおよそ3万4000人の遺骨が、いまだ現地に残されたままとのことです。

毎日新聞でも、社説で「シベリア抑留 後世に伝える仕組みを」と取り上げています。

「シベリア抑留」については、の作家:辺見 じゅんさんの著書に詳しくのっています。

収容所(ラーゲリ)から来た遺書 (文春文庫)
辺見 じゅん
文藝春秋


父の兄(3番目の兄)も、満蒙開拓少年団として満州へ渡り、その後、抑留(強制連行)されたそうです。戻ってきたときに洗脳されていて、父がいうには「何度も論争して、やっと言い負かした。」と話していました。

「収容所(ラーゲリ)から来た遺書」の主人公も、共産主義を理想化し信奉していましたが、極限状態の中の人間の醜さ、愚かさのなかで後悔します。人間の作り出した思想が理想のまま実践されることはないことに気が付き、絶望感に挫けそうになります。でも主人公は、きっともっと優れた思想を人間は将来に持つことができると信じて死んでいきます。

今年の誕生日には原発の暗い翳が落ちています。

日本中の優れた人々が、今後の日本について優れた発想を考えていくことを望みます。

参考資料

「8月23日は、スターリンによる「強制連行・拉致」を、なぜか抑留と呼ぶ記念日。」九煙洞老人さん





 
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☆ 土地にまつわる怖い話。(高槻編)

2011年08月20日 | ☆ひやしんすの☆今日の出来事♪
高槻は、大阪の鬼門、京都の裏鬼門にあたるというので万博まではなかなか開発されなかったという処らしいです。

その大阪と京都に挟まれた地域が影響してか、街の人の気質も大阪人の開放的な面と京都人の偏狭(へんきょう)な処と、城下町の保守的な面が入り混じったところがありましたが、最近では都会とも田舎ともいえないという高槻のことを“とかいなか”というそうです。

結婚を機に高槻に住み始めましたが、私が結婚前に知っていた高槻という街の知識は、高山右近だけでした。

それでも西国街道筋の芥川宿の通りが、祖父母の住んでいた日向市美々津の街筋に似通っていて懐かしく、社宅暮らしの安心さからホームシックになることもありませんでした。

4階建の社宅では、同じ階段の4件が入居時期がほぼ同じの新婚さんでしたから気安く交流できました。夫の友人の奥さんも仲良くしてくれたので至って交際するのが大変な有様。寂しくなる時間もないのでした。

ただ、冬になって暗い雲が一日中流れるようになると、ああ~これが冬の雲なんだと暗欝なきもちになりました。宮崎の冬は真っ青な晴天が続きましたので。それで、福井の男性が、「高槻は冬も明るくていいね。もう裏日本には住む気がしません。」というのを聞き、不思議な気持ちでした。私には暗い陰気な高槻の冬は、雪に降りこめられる裏日本の人には明るく感じられるのですね。冬の季節を不快に思う気持は随分ながい間、続きました。

社宅では毎日、騒々しいほどの交流で人疲れするほどでしたが、同じ階段で赤ちゃんが次々に産まれては育っていく、その面倒を見る。夫の友人の奥さんとも友達になって子供を預かるという塩梅ですから疑似子育てです。

一番親しい友達の最初の赤ちゃんが、「お母さん。」と呼びかけたのがママではなく私だったりしてドギマギしたり、ちょっとした託児所みたいな感じです。そんな明るい生活なのですが、なぜか一人でうたたねしていたりすると金縛りにあう事が多かったのです。

金縛りじたいは結婚前から経験していたので別に気にしていなかったのですが、突然、寝ていたら男性の足の指が顔めがけてグッと突き出されてきた時はビックリしました。これは夢なんだ。夢なら思い切り噛んでやろうと噛んだら痛くない。親指を噛んで塩辛い味がしたときは恐怖心がつのりました。(凄いでしょ!)

あと、金縛りで男に首を絞められたこともありました。指の大きな太い5本指でグイグイ首を絞めてくるのです。1本ずつ指をなんとかしてふり解こうとして一生懸命でしたが、相手はじらすような締め方で、なかなか息が詰まるという感覚ではなく、あざ笑っていたぶってくるという感じでした。

金縛りは夫も一人でいるときに何度もあったそうです。(目が開かなかったと言っておりました。)

それと不思議でした。2DKの社宅のどこかしらに男性の気配を感じてしまうのです。あれ、幽霊とか女性なのになと思いましたがさりげなく男性がいるような・・・。

もっと恐かったのは、夢の中で物凄い形相をした女の首をみたときでした。

夜でした。掃わき出し窓の外に髪の毛を振り乱した女が、凄みをきかせ、こちらを凝視していました。あれほどの恨みと憎しみの籠もった怨念の形相は見たことがありません。

さらに恐かったのは、私が悪夢で目が覚めて胸をドキドキさせていたときに、夫が大きな悲鳴をあげて起きて、

「鍵しめてるか。窓の外に女の顔が!凄い形相で睨んでいた。」と叫んだことでした。

そうです。女は、中に入りたいのに入れず怒り狂っているような様子でした。

でも、同じ悪夢を同じ時にみて目が覚めたということがマタ恐ろしいと思いました。

翌日に社宅の友人にこのことを話すと、

「ア、ここは昔、女性の刑場が近くにあったらしいよ。極悪犯は斬首されていたらしい。」

というではないですか。さらに社宅の敷地の中まで昔は大きな寺院であったということも聞きました。



他の方のブログ「高槻の都市伝説、市民会館付近にある黄色い石の謎を探る」




 
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☆ 土地にまつわる怖い話。(宮崎編)

2011年08月19日 | ☆ひやしんすの☆今日の出来事♪
中学3年の1学期に6度目の転校をした。5度目の中学には3ヶ月しかいなかった。つくづく悲しいと思った。最後の中学校は宮崎市内にあり、1組から10組まである大規模校であった。住んでいたのは新規開発の住宅地であり学校へは天神山という丘を巡って歩いていかなければならない。

昔は迫合戦原という呼び名であったそうな。歴史好きな私にはロマン的に響いた。誰と誰が戦ったのかな。西郷さんここまで落ちてきたの?

ここの中学ではクラスの殆んどが塾に通っていて、7月には教科書の全部を終えてしまい、今は学校の授業は復習だから楽だというクラスメートの話を聞いて、ヤレヤレまた成績順が落ちるのかと内心、辛かった。母が塾に行くかと聞いてくれたが、あの山を越えなければ塾にもたどりつけないから帰りが夜になるから恐いと思い、「イイ。」と断った。

おまけに受験に備えて既に修学旅行は終わってしまったとのこと。前校では秋に修学旅行というので楽しみにしていたのにチャンスを失くしてしまってがっくりだ。

幸い同じ住宅地の近くに同窓生がいてスグ友達になり通学も良く一緒になり楽しく過ごせたから嬉しかった。この子は好奇心が強くバレーボールをしているような明るい子で、転校生が来たときいて1組から私のいる10組まで覗きにいったという面白い子であった。

高校へは別々に進学したが、家が近いので毎日のように夕方、彼女が私の家にやってきて、玄関先で小一時間程おしゃべりをしていた。あきずに話続けるので大人達は、「何をそんなに話す事があるのか。」と呆れていた。いくらでも話すことはあるという年頃であるから仕方がない。

「ひやしんすちゃん、金縛りになる?」

「ときどきね。動けなくなって恐いけどしばらくすると取れる。」

「私ね、凄いのよ。毎晩のようになって、しかも空中に浮いたり横に移動したりするの。誰かが運ぶのよ。」

「へえ~。」

それは大げさ(眉唾もん)だと思ったけど言わなかった。ちょっとあまりにも想像もつかない金縛りであったから。

その頃、父が夜うなされることが多くて、金縛りにあっていると母に告げているのを知らなかった。

金縛りにあって身体が重いなと感じて目が覚めると、お腹の上に、鎧かぶとの武士がのっかかっていたそうである。

その話は別の場所に引っ越して大分だってから、母から聞いた。

「あんたが恐がるから言わない方が良いと言っていたのよ。」

迫合戦原、昔は沼地のようなところだったらしい。こんなところを開発するなんて思いもしなかったと知っているいる人は思ったそうである。



おなじ迫合戦原での話。

夏の夜に電気を消して居間で家族でテレビを見ていた。私は母の後ろに座っていた。電気を消した方が怪談話に風情が出るからそうしたものか。

落語家の怪談話かなんかをやっていた。居間は6畳で続き間の4畳半に母の鏡台が置いてあった。

なんとなく鏡台へ目をやって、女の人が座って鏡台を覗きこんでいるというような事を想像してしまった。

テレビが終わって電気を点けて明るくなると、母が私をみてビックリしたように言った。

「あれ、鏡台の前に座っていたとじゃないとね。」

「ううん。ずっとここにいたよ。」

「なんとなく隣の部屋をみたら、白い服の女の人が鏡台の前に座っていたから、ひやしんすが座っていると思ったとに。」

凄く恐かった。私は隣の部屋の鏡台を見ていただけなのに、母は私が鏡台の前に座っているのを見ていたというのだから・・・。

続きはマタ。こんどは高槻でのことを・・・。




 
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☆ 恐い話。その3

2011年08月18日 | ☆ひやしんすの☆今日の出来事♪
祖母がなくなった頃、母は気力を失くして昼間も横になってばかりいた。

母が横になって寝ると、亡くなった祖母もやってきて静かに一緒に横になるのがわかる。と母は良く言っていた。

でもその母は一昨年なくなると、あっさりと別の世界に行ってしまい、なかなか夢に出て来てはくれないのであった。

妹にきくと、母は夫である父のところには出たそうである。

その時、父は入院していて夜、寝ていると顔だけ現れたそうである。迎えに来たかも知れないと父は妹に話してきかせたという。

母は父に執着していたと思う。無情にも妹だけ残されるのに父を連れ去ってしまったようだ。

子供よりも父のことを大事にし、頼りにもしていた。父が寝込むと一日中、布団の枕元にジッと座り込んでいて、父の傍を離れないような人であったから、父を迎えに来たと思ってしまうのだ。

そして、両親が亡くなる前に夢にでてくることはなかったと思う。何故なのだろうかとも思う。

ところが、父は死ぬ前から頻繁に訪れてきていたようだ。

リビングのシーリングライトが急に点滅しだしたのは一年前の春のことであった。それをみて電灯も替えどきだなあと思った。引っ越して9年にもなり一度も蛍光灯を交換したことがなかったから当然だろうと思った。マ、切れてから交換しようかと思ってそのままにしていた。

父が突然に危篤だと聞いたのは3月17日であった。職場から宮崎へ急きょ帰ったが無情にも死に目には会えなかった。

父は午後2時に危篤だと聞いたのに、病院の連絡があってからスグの3時半には亡くなってしまったのだ。私が夕方の飛行機で戻った時には、もう家族葬を請け負う葬儀社の手配で仮通夜の準備がすっかり整っていた。母の時も入院中に病院からの連絡が父にきたのは死後(夜11時頃。)であったし、父の時も末後の水もあげられなかった。現代ではそういうものなのだろうか。考えていた親の死とは違ってしまった。

父の葬式が終わってみると、宮崎の家でも私たちがいる部屋の灯りが点滅するのであった。疲れて仏前で夕食をどうするかと話していると、蛍光灯が点滅した。皆で笑って、「ホラ、お父さんが早く食事に行きなさいと言っているよ。」と立ち上がって近所のファミレスに食事にいった。

そこで食事をしていると、突然、ファミレスの電灯が全部消えた。しばらくして電灯はついた。

「マタ、お父さん来てる。」と笑った。

大阪の家に戻っても、リビングのシーリングは時々、点滅していた。

私は、カレンダーに点滅した日を思い出して書き込んでみた。それから電話して妹にきくと点滅しだしたのは、父が最後の入院をした時からだった。

私はシフト勤務の仕事の休みを利用して宮崎へ戻ろうと思っていたのだが、父はその日より早く亡くなってしまったのだった。

それからしばらくして夫が言った。

「最近、リビングの灯り、点いたり消えたりしないね。」

「ホントだ。不思議だね。もう蛍光灯が完全に切れるのは時間の問題と思っていたのにね。」

ということで現在もシーリングは新しい蛍光灯に交換していない。稀に点滅する。

「ア、お父さんたら、また来てるのね。」と思う。



この夏は8月12日位には宮崎へ帰省しようと思っていた。色々あって果たせなかった。お墓参りも出来ないので、気持ちだけでもと考えて京都の西本願寺にお参りした。それも14日の事ではあったが、ご先祖様にも両家の親達にも挨拶したような気持ちになった。

と、15日に一人でお昼寝してたら父と母が夢に出て来てくれた。めったにないのにネ。

明日は、土地にまつわる怖い話をしますね。住んでる処によっては不思議な事が起こります。では、おやすみなさい。




 
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☆ 恐い話。その2

2011年08月17日 | ☆ひやしんすの☆今日の出来事♪
美々津に住む母方の祖父の喜寿の祝いをしたのは、昭和55年の元旦であった。

前年の元旦は父方の祖母が亡くなっており、それが、ちょっと気になっていた。そちらを訪問せずに美々津にきて、なんだか心が騒ぐというか・・・。

喜寿の祝いを兼ねていた御正月の膳はにぎやかであった。長女の母が段取りをして東京や新潟で暮していた叔父叔母がそろっており従姉妹たちもいたからだ。

が、祝いの席の中心にいた祖父は胃をこわしていたか、顔が蒼白にみえて不安の材料だった。

写真をとるとき、席の中心になっていたのが祖母であるのに気が付いて、どうしてか、そんなことも気がかりな事であった。

その後、祖父は入院することになり父母の通いやすい宮崎市内の病院へ入院した。祖母も高血圧が見つかり一緒の部屋へ入院することになった。

秋になって夢をみた。

美々津の家の薄暗い客間にいる数人の親戚達、やかましく話しているのだが内容が聞こえない。祖父の弟とかそういう人たち。と、その人たちの後ろに無言で座っている祖母の姿が見えた。その光景を私が部屋の空間から見ているという夢である。

不吉な夢に思えた。じっと無言で座っている祖母の姿には儚(はかな)さがあった。影が薄いというか・・・。

夢の話を友人にした。「祖父が入院しているけど、なぜか祖母が亡くなるような気がして不安なのよ。」

そして12月になり祖母は急に亡くなった。



まだ72歳位の祖母であったから、母達は早すぎると泣いた。また女として少しも自由な時間を持てなかったことを嘆いた。女達は当然、祖父が先に逝ってしまうだろうと思いこんでいた。その後の自由な時間を祖母が持つことができると確信的に思い込んでいた。「可哀そうだ。あんまり可哀そうだ。」と嘆いたのは、明治35年の男に仕える祖母への同情であっただろうか。

私も非常に祖母が恋しくて悲しかったけど、母は葬儀の時から悲嘆にくれていた。立ち上がれなくて両脇を叔母達だかれて歩いたくらいである。ちょっと心配であった。

お棺のなかには一番おきにいりの着物を入れてあげた。だが、母はゾウリを入れ忘れた。

すると夢にでてきたそうである。ゾウリを捜していたそうである。

つづきはまた。




 
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☆ 怖い話。

2011年08月16日 | ☆ひやしんすの☆今日の出来事♪
九州ではお盆の送り火は15日にするのですが、子供の頃は夏休みを日向市美々津にある祖父母の家で過ごすことが多くて、お盆の前後は叔母たちから怖い話を聞かされたり、もどかされたものです。(もどかす→こわがらせる)

この美々津の家というのが、昭和61年に重要伝統的建造物群保存地区に指定された京町屋造りの建物の一つでしたから、100年以上も経た古い家屋でした。

 日向市ホームページより 
 伝統の文化と街並みが残る美々津/strong>
 美々津の町並は、虫籠窓や京格子をはじめ、通り庭風の土間に代表されるように、京都や大阪の町家造りを取り入れたものとして注目され、上町、中町、新町の通りは、今なお当時の面影を残しており、道行く人々の足をとめています。 とくに、昭和55年日向市に寄贈された市指定文化財(伝統的建造物)「旧廻船問屋、元河内屋」は、昭和57年、国県の補助を受け、総工費約6,000万円をかけて安政2年(1855年)の商家「河内屋」に復元されたもの

その「旧廻船問屋、元河内屋」は祖父母の家の斜め前にあるのでした。

私が3歳のときに祖父がソノ着物屋を買って住み始めたのですが、玄関を入ると土間の右が客あしらいをした部屋で左が倉庫(納戸)になっていたそうです。奥にすすむと左側は土間の台所。台所の先は中庭でバナナの木やソテツ、イチジクの木が植えてあり、庭の端は隣家の蔵となっていました。

冬は寒く夏は西日が入る暑い作りで、台所にはオクドサンまでありました。

台所を上がると板間で2階へあがる階段がついています。階段をあがると二間しかないのですが、海へ向いた部屋は割とゆとりがあって叔母達が使っていました。反対側の部屋は四畳半位で狭く夏は私の勉強部屋でしたが、10時位までに勉強をしてしまわないと暑くてしようがない部屋でした。

なぜか、この部屋には床の間に常置きの盆提灯が置いてあって、絵柄が海を漕ぐ船数隻が描かれており、船の廻りには火の玉が幾つも飛び回っているという気味が悪いものでした。

ここの2階の部屋ふたつとも内側にも障子窓があり、下の客間の声は筒抜けになるという造りです。つまり、1階の客間は吹き抜けになっており、一階の客の声を2階で聞いていたということですね。叔母がいうには密貿易をしていたという家もあったから、ここでも1階の話し声を聞けるようにしていたのかもということでした。

おかげで2階で寝ていて、祖父に碁客があったときなどは寝られたものではありませんでした。

さて、祖母は息子と娘を一人ずつ失くしまして、小さな男の子は疫痢でなくしたそうです。女の子は娘盛りに失くして悲嘆にくれたそうです。それで2階の海向きの部屋で御経を唱えておりますと、亡くなった娘が斜め後ろにそっと座ったのが分かったそうです。

この祖母は信心深く優しい質でした。お墓参りをして去る時に何かザワザワと声がするので振り向くと、肩掛け(ショール)を忘れていたそうです。教えてくれたのだと思うと言っておりました。

その祖母が私が25歳のときに亡くなりまして、1年間程は辛くてたまらなかったのですが、よく夢にでてきてくれました。ほぼ毎日のように夢にでてきてくれるのですが、なにせ恐がりな私なものですから、夢をみていてアッ! 祖母はもう死んでいるのだと思うと、ハツとして目覚め恐ろしくなります。あるとき、夢のなかでテレビを観ていたらお坊さん達が花を撒いて歩いています。そのTVの画面の傍らに祖母の顔が映りました。またアッと思って目が覚め、こころのなかで「おばあちゃん。もう夢に出てこないで!」と言ったら、ピタリと出てこなくなりました。

そして私は、祖母の死期とその数年後の祖父の死期を夢で教えられるという経験をしました。夢に出てきた人が無言でいると半年以上たって亡くなるということが起こって大変こわい思いをしました。

その話の続きはまた明日にしますね・・・。




 
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☆ 日本政府は東京を離れる準備をしている。by ABC News(8月9日アップ)

2011年08月14日 | ☆政治・経済・世の中
福島県郡山市のatsushiさんに今日、ツイッターで次のようなつぶやきがあった。

@atushi3929: 友人の政府関係者が、ぼそぼそとすまなそうに電話口でこんな話をしていた
《原発事故直後、米国が自国民むけに出した避難勧告の80キロが正しい。もし日本政府がそれをしたら福島県だけではなく東北道が通っているため東北がダメになり 
 続》もし、80キロ圏内を避難させれば、その範囲内には、東北道、東北新幹線が通っています。福島県の中通り以東は、経済活動も出来なくなり、東北の各地への物流にも壊滅的打撃を与えることになります。それにより、福島以北の企業活動が困難になり、東北の東側の経済活動が、、
 続》2、困難に。次には、相当数の失業者が出てきますし、日本経済に波及します。そうすると、日本は、にっちもさっちもいかなくなるということだと解釈しています。それなら、ある程度の放射線による影響で、癌発生率が上がっても、それは、不確実性なものだから、起きてから対応、
続》3、対応しようと、考えたんだと思います。以上です。長々すみません。


そうだとすると、経済のために地方市民の健康を放棄させたものだと言える。なんと酷いことを考えて決めていったものだろう。

それに考んがえ方自体がおかしいのではないだろうか。80キロ地点内の住民が圏外に避難しても、経済活動は損なわれないと考える人もいるのだ。つまり住んでいたら健康に影響があっても、汚染区域内を通過するだけでは大丈夫であるのだと。

やれ新幹線を東北へ通せられないとか道路(東北道)を走らせられないとか不安材料を持ち出して、人の命より、経済活動を優先させたのであるが、人間どうにかして物流を通そうと考え出すものではないか。海からでも空からでも、道路の迂回からでも流通はできる。

軽はずみな判断をして反省しないとは呆れたものである。

そんなことを考えていたら、別の情報を眼にして更に呆れた。

とうとう、官僚が東京の放射線量に耐えきれなくなって首都を関西へ持って来ようとしているというのである。

首都機能を関西へ一部もってきてはどうか、というようなこと自体は、大阪府知事の橋下知事が地震後、早くから発言していて納得できる面もある。バックアップ機能を持っていないと、いざという時に情報の全てが喪失してしまう恐れがあるということだ。

だが、「日本政府は東京を離れる準備をしている。」の記事は外国の報道機関(北アジア担当のMark WillacyというオーストラリアのABCの特派員が書いた記事)からもたらされたというのだ。

またしても、日本政府は国民には伝えないで、さらに国内の報道機関は発表しないでいて、海外から知らされるということです。

別に政府が東京を離れる準備をしているのが駄目だとは言いません。密かにということが変ですし、理由を巨大地震が東京に来る恐れがあると、いいつくろっているが、海外では“放射能汚染が怖いからなのだろう”とコメントされて看破されていることが恥ずかしいのです。

詳しい事は参考資料からどうぞ。

「この国の行方」

「Japan government prepares plan to flee Tokyo」

「ソーシャルニュース Ceron.jp[セロン]」




 
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☆ 神はいるのか?

2011年08月12日 | ☆風信子(ひやしんす)の思い出。
東日本大震災でも被災者同士がお互いに助け合ったということですが、長崎で被爆した16歳の父も色々な大人に助けられて宮崎に戻ることができました。

しかし、夜学へ行けるというのでやってきた三菱重工業(株)長崎兵器製作所茂里町工場では夜学どころではなく、おまけに寮の食事は大変、お粗末なものだったようです。

オカズは、連日のようにラッキョウ漬けのみ。それにも蛆が湧いていたことがあったそうです。それでも食べるしかなかったとのこと。

個人では人情もあるのに、企業ともなると人の情けはなくなるものなのでしょう。

父は、このときの不快な気持ちを忘れることができず、(一生分のラッキョウを食べたので、ラッキョウ漬や酢の物の匂いが大嫌いになったようです。)この二つは新婚の家庭ではご法度だったと母が言っていました。

御飯は混じりけのない白いご飯に限り、こっそり昼のうちに酢をさわろうものなら、すぐに匂いがわかり、「酢、さわったやろ!」と父が怒ったそうです。

それくらい、ラッキョウ漬を嫌っていたのだそうです。

他に嫌っていたものに戦時中の戦争推進していた大人の言動があります。戦後の大人の変わり身の激しさを許すことができなかったようです。

そのくせ、子供の頃に受けた教育のせいか皇室への尊重の想いはあり、懐かしむ風もありました。

私が子供の頃から日曜日に遅くまで寝ていると、父がやってきて起こします。

「起床!起床!」と言って起こすのですが、しぶしぶ起き上がっていると、

姿勢を正して直立し、「皇国の少年、これにあり!」と芝居がかっていうのでした。

続けて、「じんむ、すいぜい、・・・」と歴代天皇の一覧を唱えたりするので、私はうっとうしく感じ、父に「右翼!」と声をあげていました。



原爆が落とされたあとの長崎で見聞きした凄まじい情景により父は、「神なんているか!」と怒りに燃えたということです。

でも、後に私が父に、「今でも神様なんていないと思う?」と聞いてみると、

「長い間、生きているといないと断定することも出来ないと思うようになってきたよ。」と言いました。

ただし、神とはいうものの、ある大いなるものであって、キリスト教のとか宗教の唱える神というものではないということでした。

人間が作った宗教というものではなく、もっと本当の大いなる神の存在は感じるという事でした。

「潮の満ちるときに人間は生まれてくるし、潮が引くときに人間は死んでいくということもあるからね。」

生後12日の兄が病死したとき、父は一晩中だいていたそうです。

そして、まだ幼くして死んだから戒名もないし位牌もないと聞いて不憫と思ったのか、父は自分で彫って位牌を作り戒名もつけたそうです。

子供の頃から見慣れていた仏壇のなかの位牌が、まさか父が自分で我が子に拵えてやったものだとは思いもしませんでした。丁寧に彫ったものでした。

そのことは父が亡くなってから叔母から初めて聞きました。

父の葬儀のあと、その父方の叔母が、「浄土真宗では仏壇に位牌は置かないのだから、置いておいてはいけない。こうしたものは御寺さんに納めないといけない。」と父の手作りの位牌を勝手に持っていってしまったのは悲しい気持ちです。よく考えたら兄の形見は位牌以外に何もないのでした。




 
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☆ ツイッターでの8月11日のつぶやき。

2011年08月11日 | ☆ひやしんすの☆今日の出来事♪


 他の風信子のツイッターまとめ。(ツイログ)http://twilog.org/hyacinth_haru




 
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☆ 父から聞いた、長崎での被爆体験話。

2011年08月09日 | ☆風信子(ひやしんす)の思い出。
月刊:文藝春秋の何月号だったのか、身内の書けなかった自分史を綴るのは遺族(家族)の勤め(責任)だとあった。

文藝春秋 2011年 08月号 [雑誌]
クリエーター情報なし
文藝春秋


それが平凡な庶民のものだろうとである。その点では今書いているものは、ちょっとは約束を果たすものだと思う気持ちもある。

生前の父には「自分史を」書くことを勧めた。

父の生前に使いこなしているワープロでもよいし10年程前に買ったパソコンでもよいからと・・・。

だが、10年前の父は、囲碁の方で段位を上げるのに夢中であり、なおかつ二つの囲碁の会に入り毎日熱心に指していた。

あるいは父も自分でもそのうちに書こうかとも思っていたのかも知れない。

結局はそれは果たせず、かつ私の昔、聞いた話も断片的である。

すでに最初に聞いてからは40年が過ぎ、より断片的に聞いた2回目にからも30年近くも経った。

だから、これから綴る父から聞いた長崎の原爆投下の地獄図というものは、父の見たままの様子ではなく、私が聞きながら頭の中に描いていった様子であるから長年の間に窯変しているかも知れない。

だが私は聞いた話を長い間、忘れずに記憶しておける自信は多少はあるし、話を聞きながら映像化していったから完全に色褪せたものではない。

あるいは、最初に聞いた話あまりの衝撃に鳥肌が立っていたし、恐ろしさにショックを受けたせいで生々しく記憶しているのかも知れない。

けれど、悲しいことに断片は断片でしかない。



三菱重工業(株)長崎兵器製作所茂里町工場で被爆した父は、怪我こそしていなかったが3㎝程延びた坊主頭の髪には、破壊された工場から飛び散ったほこりがギッシリと詰まっていた。それは、宮崎に逃げ帰って洗い落そうとしても余りにこびりついたものだったので取るのが大変であったそうな。

つぶれた建物から出てみるとすっかり景色が変わっており、ここにいてもどうにも仕方ないと考えた。

逃げながら地面にある黒い物体が、人間が焼けて黒い死体が横たわっているのだと気がついた。

工場の手前は川があり、川を渡れば稲佐山だが、父が山のほうへ逃げたというのは反対側にある工場の裏手の山かもしれない。

山を登っていく途中に病院が見えた。

そこでは地面に顔に白いハンカチをかけられて横たわっているたくさんの看護婦さん達がいた。

別に怪我をしている風ではなく、寝ているような雰囲気であるが、彼女達は死んでいて寝かせられていたのであった。

爆心地ではむごく焼けて人は死に、あるいは怪我をして凄惨な姿で苦しんでおり、距離があるところでは放射能により綺麗なまま急性死していったのである。

さらに山へ入っていくと、山道に一人の小学生があおむけに寝ていた。

眼が空を見つめていた。

父は声をかけた。「こんなところで何をしているの。」

少年は無言であり、父は木々の間から見える青い空を一緒に振り仰いだ。

やがて、父は少年が死んでいるのだとさとった。

何処の誰だとも知れずに一人で山中で亡くなっているのを親は知っているのかと思うと可哀そうだった。

さらに進むと、山中に開けた場所があり、一軒の家が燃えていた。

農家だった。藁ぶき屋根であるらしかった。

家の持ち主は言った。「なんで火の気もないのに家が燃え上がったのか分からないのだよ。不思議だ。不思議だ。」

原爆の熱が、藁ぶき屋根を発火させたらしい。

ここまで来るとかなり爆心地から離れていて、農家の主人は火事の理由が皆目わからなかったらしい。

歩いて歩いて逃げたが、寮も焼けてしまって食糧もない。

食事にもありつけないかと地面に座り込んでいると、同じように逃げてきた大人が横に座り食べ物を取りだした。

思いもかけず大人が一つを手渡してくれた。

ふかしたばかりのジャガイモが一個だった。

「おじちゃん。ありがとう。」

礼を言って食べたジャガイモ味は忘れられない美味しさだった。

父は宮崎へ帰る方法を考えながら、ジャガイモをほうばって食べた。



参考資料:

『原子雲』

朝日新聞:「広島・長崎の記憶」




 
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☆ 長崎の原爆忌に思う。父の悪運の強さ。

2011年08月07日 | ☆風信子(ひやしんす)の思い出。
昭和4年に宮崎市で生まれた父は皇国の少年として真面目に育ち、国民学校では級長をしていた。

町工場を細々と営む祖父母の元に男ばかり6人に妹ふたりの8人兄弟の5男である父は、上級学校へは進学するすべもなかった。

そこで、最初に海軍幼年学校へ入ろうと試験を受け合格した。

だが、最終の身体検査で視力が落ちているのが見つかり不合格となった。すでに水兵のセーラー服が出来上がっており、乗船するはずだった船の船室の寝床にそれが載せてあるのを扉から見つめながら父は無念な思いを抱いたという。

(悪運のなぜ、そのときだけ視力が落ちていたのかは謎だと父は私に語った。それ以後、視力は正常であった。もっとも幼年学校へ進んでいれば戦死の可能性は大であった。)

それで、夜学へ行かせて貰えるというので、長崎へ行ったのだという。父の死後に戸籍謄本を取り寄せてみたら、ソコに親戚が住んでいた。それで長崎へ行ったのだろうか。

昭和20年8月9日も父は、当時の長崎三菱兵器製作所・茂里工場で働いていた。(魚雷工場だという。)

寮は離れたところにあり2階建ての長屋風なところだったという。そして、交代で働いていたため、もしも寮で寝ていたら死んでいたはずである。

昔、語ってくれた話によると、工場で被爆して逃げることになったときに寮にも寄ったらしい。すでに火事で燃え上がっていたようである。

(悪運の父は偶然に寮にはおらず、寮友は死んでしまった。)

資料:「長崎年表」に記された魚雷工場・茂里工場は以下のような有様であったという。

  ☆長崎三菱兵器製作所
       「大橋工場」(1.2粁)の建物は全て倒壊
       鉄筋コンクリートの研究室は空洞化し、鉄骨、鉄板張りの各工場は木端微塵に破壊
       外皮をはがされた鉄骨が飴のように折れ曲がり、折れ重なって無惨な残骸をさらす
       本部と食堂の木造2楝は倒壊ののち、すぐに火災で焼失

       「茂里工場」の屋根のスレートと周囲の鉄板は四方に飛び散り、鉄骨は幾重にも曲がり、押し潰されて倒壊
       鉄筋コンクリートの建物は外壁を残し窓枠と内部の造作、器物は破損

       試験場2階から出火し建物1棟が焼けるが、機械工場の一部がかろうじて残る
 (爆心地から1.5粁)

       他に九州各県から動員された学徒報国隊、女子挺身隊用の7か所の寮と4か所の学校疎開工場が全壊、全焼
       2工場あわせての死者は職員335人、工員1358人、生徒580人
       負傷者は職員361人、工員4260人、生徒1058人
 

       →1945(昭和20)11/15☆長崎三菱兵器製作所が正式に閉鎖 


この日、魚雷工場・茂里工場の中にいた父は、原爆落下の時に、身体が吹き飛ばされて作業中の魚雷の下にすっぽりと入りこんだ。そのせいか、怪我ひとつしなかったそうだ。そのまま、天井から落下するコンクリートの凄まじい破壊音を聞きながらジッとしているしかなかった。
(悪運のといえるかも知れない。)

続きは、また・・・。



 
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