風信子(ひやしんす)の☆本の紹介&エッセー☆俳句

濫読・雑読の風信子(ひやしんす)が気の向くままに、お気に入りの本を紹介いたします。

☆ 長崎の原爆忌に思う。父の悪運の強さ。

2011年08月07日 | ☆風信子(ひやしんす)の思い出。
昭和4年に宮崎市で生まれた父は皇国の少年として真面目に育ち、国民学校では級長をしていた。

町工場を細々と営む祖父母の元に男ばかり6人に妹ふたりの8人兄弟の5男である父は、上級学校へは進学するすべもなかった。

そこで、最初に海軍幼年学校へ入ろうと試験を受け合格した。

だが、最終の身体検査で視力が落ちているのが見つかり不合格となった。すでに水兵のセーラー服が出来上がっており、乗船するはずだった船の船室の寝床にそれが載せてあるのを扉から見つめながら父は無念な思いを抱いたという。

(悪運のなぜ、そのときだけ視力が落ちていたのかは謎だと父は私に語った。それ以後、視力は正常であった。もっとも幼年学校へ進んでいれば戦死の可能性は大であった。)

それで、夜学へ行かせて貰えるというので、長崎へ行ったのだという。父の死後に戸籍謄本を取り寄せてみたら、ソコに親戚が住んでいた。それで長崎へ行ったのだろうか。

昭和20年8月9日も父は、当時の長崎三菱兵器製作所・茂里工場で働いていた。(魚雷工場だという。)

寮は離れたところにあり2階建ての長屋風なところだったという。そして、交代で働いていたため、もしも寮で寝ていたら死んでいたはずである。

昔、語ってくれた話によると、工場で被爆して逃げることになったときに寮にも寄ったらしい。すでに火事で燃え上がっていたようである。

(悪運の父は偶然に寮にはおらず、寮友は死んでしまった。)

資料:「長崎年表」に記された魚雷工場・茂里工場は以下のような有様であったという。

  ☆長崎三菱兵器製作所
       「大橋工場」(1.2粁)の建物は全て倒壊
       鉄筋コンクリートの研究室は空洞化し、鉄骨、鉄板張りの各工場は木端微塵に破壊
       外皮をはがされた鉄骨が飴のように折れ曲がり、折れ重なって無惨な残骸をさらす
       本部と食堂の木造2楝は倒壊ののち、すぐに火災で焼失

       「茂里工場」の屋根のスレートと周囲の鉄板は四方に飛び散り、鉄骨は幾重にも曲がり、押し潰されて倒壊
       鉄筋コンクリートの建物は外壁を残し窓枠と内部の造作、器物は破損

       試験場2階から出火し建物1棟が焼けるが、機械工場の一部がかろうじて残る
 (爆心地から1.5粁)

       他に九州各県から動員された学徒報国隊、女子挺身隊用の7か所の寮と4か所の学校疎開工場が全壊、全焼
       2工場あわせての死者は職員335人、工員1358人、生徒580人
       負傷者は職員361人、工員4260人、生徒1058人
 

       →1945(昭和20)11/15☆長崎三菱兵器製作所が正式に閉鎖 


この日、魚雷工場・茂里工場の中にいた父は、原爆落下の時に、身体が吹き飛ばされて作業中の魚雷の下にすっぽりと入りこんだ。そのせいか、怪我ひとつしなかったそうだ。そのまま、天井から落下するコンクリートの凄まじい破壊音を聞きながらジッとしているしかなかった。
(悪運のといえるかも知れない。)

続きは、また・・・。



 
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