風信子(ひやしんす)の☆本の紹介&エッセー☆俳句

濫読・雑読の風信子(ひやしんす)が気の向くままに、お気に入りの本を紹介いたします。

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2013年07月31日 | ☆風信子(ひやしんす)の思い出。
ぐずぐずとした天気不安定な毎日だが、カレンダーでは明日から8月である。
毎年、風信子は自分の体験を8月になると「☆恐い話~」の題名で書き綴ってきた。

風信子の登録しているにほんブログ村では、現在、「怪談・心霊現象 トーナメント参加者募集中」とあったので、
昨年の夏に書いたもので参加してきた。


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 今年も、思いだして「☆恐い話~。」を書きたいものだが、なかなか思いだす暇がない。

というかネタ切れかもしれない。

で、以前かいたものを載せておきますね。

リンクから読みにいってくださいまし。

☆ 怖い話。 2011年08月16日

☆ 恐い話。その2 2011年08月17日

☆ 恐い話。その3 2011年08月18日

☆ 土地にまつわる怖い話。(宮崎編) 2011年08月19日

☆ 土地にまつわる怖い話。(高槻編) 2011年08月20日

☆ 2012年、怖い話。(高槻編) 2012年08月01日



ということで拾い集めた「怖い話」題名の風信子の過去のブログ記事はでおおよそ纏められたと思います。

今、思いだしたけど平成8年に高槻市の文化財関係施設でアルバイトしたときに、先輩女性から聞いた話はマダ記事を載せていなかったわ。

お盆の頃には纏めようと思います。

術後の経験だったけど、本当に身体が弱ったときって普段は見えないものが見えたり(幽霊とか)するのね。




 他の風信子のツイッターまとめ。(ツイログ)http://twilog.org/hyacinth_haru


 
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☆ 2012年、怖い話。(高槻編)

2012年08月01日 | ☆風信子(ひやしんす)の思い出。
この話は平成8年に歳上の美鈴さまから聞いた話である。(名前は仮名)

出会った当時、美鈴さまは60代半ばで風信子は大阪弁でいうとゾロ目などと言う語感も不愉快な44才であった。

美鈴さま。こう相手を呼んでいたのは親子ほど年が違うが同じ時期に職場に入ったアルバイト仲間で親しく話をしており、かつ彼女が伊予の御祐筆の出であると自慢していたからである。

この御祐筆の家の出であるという打ち明け話は何故か良く聞く話であるので最早、話半分にしか聞かない事にしていた。

そんなわけで美鈴さまと奉ってふざけて呼んでいたのはもどかし気分も半分ある。

美鈴さまは結婚するや大阪の伯母にあたる親戚の敷地内に立つ離れに住み、長いこと子供に恵まれなかったので夫婦でドライブを楽しむ優雅な生活が続いたらしい。

母屋に住む伯母は、老後が気になるから夫婦養子となって面倒をみて欲しいと懇願。

「嫌だ。そんな話、冗談じゃないわ。」とばかりに伯母の家を飛び出したという結構、気ままな美鈴さまです。

そうして高槻は芝生(しぼ)あたりに住みだした美鈴さま夫婦。

念願かなって女の子を出産し母親となることができました。

ところが、産後の肥立ちが悪いというか、その後2年ばかりも身体不調。起きることも出来ず、家事はおろか子どもの面倒も一切、見る事ができないというとなったそうです。

たえず頭痛や目まい、立ちくらみがあり、その変調のために枕から頭があがらない状態。

愛媛から母親がでてきて全ての家事をやってくれたとのことです。

病院へかかるも原因がわからず、寝ているばかりの日常生活。

それを伝え聞いて、高槻の彼女の元へやってきたのは宝塚に住む友人でした。

「知りあいに良い祈祷師がいるのよ。ぜひ見て貰って。」

ということで大阪から巫女のような人に来て貰うと、

「あなたには、天王山からの落ち武者が取りついている。今、お祓いして身体からでていって貰わないと直らない。」

といったとのこと。

祈祷師がいうには、

本能寺の変のあと、羽柴秀吉と明智光秀とが戦った山崎の合戦では明智側の負け、天王山から逃げ落ちた明智側の武者が高槻までたどりついてきたのだが、ここ芝生(しぼ)の地で絶命している。

その男の執念がお産の後の美鈴さまに取り付いていたのだというのです。

山崎の宝寺では、2度ほど高槻市民合唱団の合宿があり山を登ってお寺に入ったことがあり様子がよく分かるだけに驚きました。

それにしても、遠いところまで逃げ延びてきていたのですね。

取りついていた落ち武者を祓ってもらうと美鈴さまはスッカリ健康体になりました。

その後は、38歳で生理が止まったので妊娠したかと思い産婦人科へ行ってみると、

「妊娠じゃないですよ。あがっていますね。」

と医師に告げられ呆気にとられたそうです。

だからといって何も不都合なことはなく、更年期も無関係に元気に過ごしてきたのだとか。

身体の弱ったときには、霊が取りつくことがあるのかどうか。高槻という城下町には起こりそうなことではあります。



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☆ 風信子が女友達と群れて遊んでいた頃。

2012年03月01日 | ☆風信子(ひやしんす)の思い出。
誰だったか、説得力のある評論家がいうには、「職場の同僚を友人にするな。」というのがあった。

要は、同僚は出世するときに競争相手となるのだから。ということらしい。

男ってのは悲しいサガであるよ。

田舎の高卒出であるが、大卒同僚をしりめに一流企業の出世コースを昇っていった叔父も「会社の同僚は敵だ。足をすくうから油断ならぬ。」

と言っていた。

関西に本社を置く企業に勤めていた叔父が言うには、

「ワシが高速道路で車を横転させて肩を強打し呻いていたとき、後の車できた同僚は、これでアイツもお終いだな。と笑いつつ、そのまま遠ざかっていったよ。」

と言った。

強打した肩は夜中に激痛をおこして長い事苦しめたらしいが、叔父は、笑いながら去っていく会社の同僚に負けてたまるかと、「何くそ!」と発奮して

その後も出世していったらしい。

バブルがはじけて社内にリストラ対策が広まった時にもリストを選別する側の立場であり、そういうときには容赦なく辞めて貰ったそうだ。

前任地の中年女子社員が泣きついてきても面倒をみることはせず、独立事業所の社長が以前は先輩であったとしても事情を説明してお願いする。

叔母は、「郵便物に剃刀の刃が入っていやしないかと大変な不安を感じる。」と話していた。

ただ、そんな叔父は風信子にはとっつきにくい性格で苦手であった。

いや、叔父は陽気気にふるまっても陰(マイナス)であり、風信子も陰(マイナス)であるからお互いに単に反りがあわなかっただけであるが・・・。

ひるがえって風信子には職場で知りあった20年来の友人が片手ほどいる。

長い付き合いになるな、と思うけど数多くの仲よしから、お互いにふるいに掛け合って残った仲といえようか、ベッタリはしないけどいつまでも友人である。

なぜ、あの頃の縁が続いているのかと思えば人生の中で最も友人を作りやすい幸運な時期であったのだと今となっては思う。

20年前といえば、風信子の故郷の両親、義父母がソレゾレ入院したり退院したり身体の不調を訴えたりし始めた頃である。

友人の方も親の体調を心配し始める頃である。友人には子育てもある。まだ体力もあった。

風信子はお昼ご飯を食べながら、色々と事情を説明したり愚痴をこぼしたりした。

風:「何せ、一日の行動がトライアングルなのよ。三角形。」

友:「大変だったわね。」

風:「リュック背負ってね。田舎ってバスの便が悪いでしょ。でも全部、今日中に3か所の病院を廻らないといけないから。

 朝、私の実家を出て先ず宮崎市内中心部の父の入院先に荷物を持っていって、次に西都市という別の町行きのバスに乗る。そこでは義父の洗濯物を持ってかえる。

 で、隣町の高鍋町行きのバスに乗る。高鍋では夫の実家に寄って白内障の手術をする義母のお弁当を作ってから病院へいく。アレ点をたどったら4点だからトライアングルじゃないや。4か所だからね。凄いでしょ。」

友:「凄いわあ。ひやしんすちゃんだから出来たのよ。」

風:「でも○○ちゃんだって、毎年、稲刈りに帰っているじゃない。」

友:「田舎の田んぼは段々畑だから機械が入らないのよ。母が年取ってきたからね手伝ってやらないとね。それに掃除もしてあげたくなるしね。」

風:「長崎の離島だから帰るだけでも大変だよね。」

友:「私って母っ子だから、こっちへ帰ってくると朝目覚めて、アもう田舎の家じゃないと思うと涙がでてくるの。」

風:「そう、アまた涙ぐんでる。」

友:「ごめんね。思いだすと駄目やわあ~。」

こうしてお互いの田舎の家族関係や兄弟の悩み事まで話していくと、

「こんなことがあってね・・・。」

と心配事をちょっとだけ言うだけでアウンの呼吸で理解して貰える。

二つ目は、みんな好奇心が旺盛で、

「ね、ダンベル体操って知ってる。ビデオ持ってるから夜、集まってみんなでやらない。」

「わあ。やりたい。楽しいねえ。」

「終わったら軽食もちよってビールの飲む?」

あるいは、

「厚生省が社会保険センターを高槻に作って半額でジムやダンスを習えるのよ。やってみない。」

「健康にいいね。肩が凝ってしょうがないから是非やりたいわ。」

「土曜日がいいね。私は自転車で通えるけど。」

「桂から電車で通うわ。時々は車で。」

「じゃ、ジムなんてつまんないから。気功やってステップやってみない。」

「私はせっかく出てくるのにモッタイナイから3つともやるわ。」

さらに、

「嵐山の料亭でお食事しない。それから一日遊びましょうよ。風が気持ちよさそうよ。」

「いい!いい!」

「早速、希望者をつのるわ。誰でも参加OKよ。」

本当に良き風信子のひとつの時代だった。

その後は、嵐のような季節が通り過ぎていった。

でも友情は続いている。

忙しいと分かっているからお互いに電話で愚痴をこぼすことは絶対にしない。

(会った時に愚痴を聞いて貰えるからイイや。それまで頑張ろう。)

ときたまのメールだけする。

「随分と会っていないわ。久しぶりに会いたいわ。ひやしんすちゃん、時間とれない?」

今夜は懐かしい頃の思い出。

ひやしんす30代のマダ青春してた頃。



 
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☆ 8月23日はシベリア抑留(強制連行)がはじまった日。

2011年08月23日 | ☆風信子(ひやしんす)の思い出。
NHKによると、「8月23日は66年前の終戦直後、旧ソビエトが、中国にいた日本兵や民間人をシベリアなどに移送し、重労働に従事させた、いわゆる「シベリア抑留」が始まったとされる日」だそうです。

で、厚生労働省によりますと、抑留中におよそ5万5000人が亡くなったとされ、20年前から遺骨の収集が進められています。しかし、半分以上のおよそ3万4000人の遺骨が、いまだ現地に残されたままとのことです。

毎日新聞でも、社説で「シベリア抑留 後世に伝える仕組みを」と取り上げています。

「シベリア抑留」については、の作家:辺見 じゅんさんの著書に詳しくのっています。

収容所(ラーゲリ)から来た遺書 (文春文庫)
辺見 じゅん
文藝春秋


父の兄(3番目の兄)も、満蒙開拓少年団として満州へ渡り、その後、抑留(強制連行)されたそうです。戻ってきたときに洗脳されていて、父がいうには「何度も論争して、やっと言い負かした。」と話していました。

「収容所(ラーゲリ)から来た遺書」の主人公も、共産主義を理想化し信奉していましたが、極限状態の中の人間の醜さ、愚かさのなかで後悔します。人間の作り出した思想が理想のまま実践されることはないことに気が付き、絶望感に挫けそうになります。でも主人公は、きっともっと優れた思想を人間は将来に持つことができると信じて死んでいきます。

今年の誕生日には原発の暗い翳が落ちています。

日本中の優れた人々が、今後の日本について優れた発想を考えていくことを望みます。

参考資料

「8月23日は、スターリンによる「強制連行・拉致」を、なぜか抑留と呼ぶ記念日。」九煙洞老人さん





 
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☆ 神はいるのか?

2011年08月12日 | ☆風信子(ひやしんす)の思い出。
東日本大震災でも被災者同士がお互いに助け合ったということですが、長崎で被爆した16歳の父も色々な大人に助けられて宮崎に戻ることができました。

しかし、夜学へ行けるというのでやってきた三菱重工業(株)長崎兵器製作所茂里町工場では夜学どころではなく、おまけに寮の食事は大変、お粗末なものだったようです。

オカズは、連日のようにラッキョウ漬けのみ。それにも蛆が湧いていたことがあったそうです。それでも食べるしかなかったとのこと。

個人では人情もあるのに、企業ともなると人の情けはなくなるものなのでしょう。

父は、このときの不快な気持ちを忘れることができず、(一生分のラッキョウを食べたので、ラッキョウ漬や酢の物の匂いが大嫌いになったようです。)この二つは新婚の家庭ではご法度だったと母が言っていました。

御飯は混じりけのない白いご飯に限り、こっそり昼のうちに酢をさわろうものなら、すぐに匂いがわかり、「酢、さわったやろ!」と父が怒ったそうです。

それくらい、ラッキョウ漬を嫌っていたのだそうです。

他に嫌っていたものに戦時中の戦争推進していた大人の言動があります。戦後の大人の変わり身の激しさを許すことができなかったようです。

そのくせ、子供の頃に受けた教育のせいか皇室への尊重の想いはあり、懐かしむ風もありました。

私が子供の頃から日曜日に遅くまで寝ていると、父がやってきて起こします。

「起床!起床!」と言って起こすのですが、しぶしぶ起き上がっていると、

姿勢を正して直立し、「皇国の少年、これにあり!」と芝居がかっていうのでした。

続けて、「じんむ、すいぜい、・・・」と歴代天皇の一覧を唱えたりするので、私はうっとうしく感じ、父に「右翼!」と声をあげていました。



原爆が落とされたあとの長崎で見聞きした凄まじい情景により父は、「神なんているか!」と怒りに燃えたということです。

でも、後に私が父に、「今でも神様なんていないと思う?」と聞いてみると、

「長い間、生きているといないと断定することも出来ないと思うようになってきたよ。」と言いました。

ただし、神とはいうものの、ある大いなるものであって、キリスト教のとか宗教の唱える神というものではないということでした。

人間が作った宗教というものではなく、もっと本当の大いなる神の存在は感じるという事でした。

「潮の満ちるときに人間は生まれてくるし、潮が引くときに人間は死んでいくということもあるからね。」

生後12日の兄が病死したとき、父は一晩中だいていたそうです。

そして、まだ幼くして死んだから戒名もないし位牌もないと聞いて不憫と思ったのか、父は自分で彫って位牌を作り戒名もつけたそうです。

子供の頃から見慣れていた仏壇のなかの位牌が、まさか父が自分で我が子に拵えてやったものだとは思いもしませんでした。丁寧に彫ったものでした。

そのことは父が亡くなってから叔母から初めて聞きました。

父の葬儀のあと、その父方の叔母が、「浄土真宗では仏壇に位牌は置かないのだから、置いておいてはいけない。こうしたものは御寺さんに納めないといけない。」と父の手作りの位牌を勝手に持っていってしまったのは悲しい気持ちです。よく考えたら兄の形見は位牌以外に何もないのでした。




 
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☆ 父から聞いた、長崎での被爆体験話。

2011年08月09日 | ☆風信子(ひやしんす)の思い出。
月刊:文藝春秋の何月号だったのか、身内の書けなかった自分史を綴るのは遺族(家族)の勤め(責任)だとあった。

文藝春秋 2011年 08月号 [雑誌]
クリエーター情報なし
文藝春秋


それが平凡な庶民のものだろうとである。その点では今書いているものは、ちょっとは約束を果たすものだと思う気持ちもある。

生前の父には「自分史を」書くことを勧めた。

父の生前に使いこなしているワープロでもよいし10年程前に買ったパソコンでもよいからと・・・。

だが、10年前の父は、囲碁の方で段位を上げるのに夢中であり、なおかつ二つの囲碁の会に入り毎日熱心に指していた。

あるいは父も自分でもそのうちに書こうかとも思っていたのかも知れない。

結局はそれは果たせず、かつ私の昔、聞いた話も断片的である。

すでに最初に聞いてからは40年が過ぎ、より断片的に聞いた2回目にからも30年近くも経った。

だから、これから綴る父から聞いた長崎の原爆投下の地獄図というものは、父の見たままの様子ではなく、私が聞きながら頭の中に描いていった様子であるから長年の間に窯変しているかも知れない。

だが私は聞いた話を長い間、忘れずに記憶しておける自信は多少はあるし、話を聞きながら映像化していったから完全に色褪せたものではない。

あるいは、最初に聞いた話あまりの衝撃に鳥肌が立っていたし、恐ろしさにショックを受けたせいで生々しく記憶しているのかも知れない。

けれど、悲しいことに断片は断片でしかない。



三菱重工業(株)長崎兵器製作所茂里町工場で被爆した父は、怪我こそしていなかったが3㎝程延びた坊主頭の髪には、破壊された工場から飛び散ったほこりがギッシリと詰まっていた。それは、宮崎に逃げ帰って洗い落そうとしても余りにこびりついたものだったので取るのが大変であったそうな。

つぶれた建物から出てみるとすっかり景色が変わっており、ここにいてもどうにも仕方ないと考えた。

逃げながら地面にある黒い物体が、人間が焼けて黒い死体が横たわっているのだと気がついた。

工場の手前は川があり、川を渡れば稲佐山だが、父が山のほうへ逃げたというのは反対側にある工場の裏手の山かもしれない。

山を登っていく途中に病院が見えた。

そこでは地面に顔に白いハンカチをかけられて横たわっているたくさんの看護婦さん達がいた。

別に怪我をしている風ではなく、寝ているような雰囲気であるが、彼女達は死んでいて寝かせられていたのであった。

爆心地ではむごく焼けて人は死に、あるいは怪我をして凄惨な姿で苦しんでおり、距離があるところでは放射能により綺麗なまま急性死していったのである。

さらに山へ入っていくと、山道に一人の小学生があおむけに寝ていた。

眼が空を見つめていた。

父は声をかけた。「こんなところで何をしているの。」

少年は無言であり、父は木々の間から見える青い空を一緒に振り仰いだ。

やがて、父は少年が死んでいるのだとさとった。

何処の誰だとも知れずに一人で山中で亡くなっているのを親は知っているのかと思うと可哀そうだった。

さらに進むと、山中に開けた場所があり、一軒の家が燃えていた。

農家だった。藁ぶき屋根であるらしかった。

家の持ち主は言った。「なんで火の気もないのに家が燃え上がったのか分からないのだよ。不思議だ。不思議だ。」

原爆の熱が、藁ぶき屋根を発火させたらしい。

ここまで来るとかなり爆心地から離れていて、農家の主人は火事の理由が皆目わからなかったらしい。

歩いて歩いて逃げたが、寮も焼けてしまって食糧もない。

食事にもありつけないかと地面に座り込んでいると、同じように逃げてきた大人が横に座り食べ物を取りだした。

思いもかけず大人が一つを手渡してくれた。

ふかしたばかりのジャガイモが一個だった。

「おじちゃん。ありがとう。」

礼を言って食べたジャガイモ味は忘れられない美味しさだった。

父は宮崎へ帰る方法を考えながら、ジャガイモをほうばって食べた。



参考資料:

『原子雲』

朝日新聞:「広島・長崎の記憶」




 
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☆ 長崎の原爆忌に思う。父の悪運の強さ。

2011年08月07日 | ☆風信子(ひやしんす)の思い出。
昭和4年に宮崎市で生まれた父は皇国の少年として真面目に育ち、国民学校では級長をしていた。

町工場を細々と営む祖父母の元に男ばかり6人に妹ふたりの8人兄弟の5男である父は、上級学校へは進学するすべもなかった。

そこで、最初に海軍幼年学校へ入ろうと試験を受け合格した。

だが、最終の身体検査で視力が落ちているのが見つかり不合格となった。すでに水兵のセーラー服が出来上がっており、乗船するはずだった船の船室の寝床にそれが載せてあるのを扉から見つめながら父は無念な思いを抱いたという。

(悪運のなぜ、そのときだけ視力が落ちていたのかは謎だと父は私に語った。それ以後、視力は正常であった。もっとも幼年学校へ進んでいれば戦死の可能性は大であった。)

それで、夜学へ行かせて貰えるというので、長崎へ行ったのだという。父の死後に戸籍謄本を取り寄せてみたら、ソコに親戚が住んでいた。それで長崎へ行ったのだろうか。

昭和20年8月9日も父は、当時の長崎三菱兵器製作所・茂里工場で働いていた。(魚雷工場だという。)

寮は離れたところにあり2階建ての長屋風なところだったという。そして、交代で働いていたため、もしも寮で寝ていたら死んでいたはずである。

昔、語ってくれた話によると、工場で被爆して逃げることになったときに寮にも寄ったらしい。すでに火事で燃え上がっていたようである。

(悪運の父は偶然に寮にはおらず、寮友は死んでしまった。)

資料:「長崎年表」に記された魚雷工場・茂里工場は以下のような有様であったという。

  ☆長崎三菱兵器製作所
       「大橋工場」(1.2粁)の建物は全て倒壊
       鉄筋コンクリートの研究室は空洞化し、鉄骨、鉄板張りの各工場は木端微塵に破壊
       外皮をはがされた鉄骨が飴のように折れ曲がり、折れ重なって無惨な残骸をさらす
       本部と食堂の木造2楝は倒壊ののち、すぐに火災で焼失

       「茂里工場」の屋根のスレートと周囲の鉄板は四方に飛び散り、鉄骨は幾重にも曲がり、押し潰されて倒壊
       鉄筋コンクリートの建物は外壁を残し窓枠と内部の造作、器物は破損

       試験場2階から出火し建物1棟が焼けるが、機械工場の一部がかろうじて残る
 (爆心地から1.5粁)

       他に九州各県から動員された学徒報国隊、女子挺身隊用の7か所の寮と4か所の学校疎開工場が全壊、全焼
       2工場あわせての死者は職員335人、工員1358人、生徒580人
       負傷者は職員361人、工員4260人、生徒1058人
 

       →1945(昭和20)11/15☆長崎三菱兵器製作所が正式に閉鎖 


この日、魚雷工場・茂里工場の中にいた父は、原爆落下の時に、身体が吹き飛ばされて作業中の魚雷の下にすっぽりと入りこんだ。そのせいか、怪我ひとつしなかったそうだ。そのまま、天井から落下するコンクリートの凄まじい破壊音を聞きながらジッとしているしかなかった。
(悪運のといえるかも知れない。)

続きは、また・・・。



 
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☆ 広島と長崎の原爆忌に思う。被爆二世として苦悩した青春時代。

2011年08月05日 | ☆風信子(ひやしんす)の思い出。
明日の八月六日は広島の原爆忌であり、その後に長崎原爆忌が九日にやってくる。

以前に書いたブログ:「☆母から聞いた。宮崎神宮で浴びた、グラマン機の機銃掃射。と、それから「☆ 風信子が、放射能被爆に怯えるのは、これで2回目なのです。でもお伝えしましたが、風信子は被曝2世です。(父が16歳のときに長崎で被爆したことによる。)

もっとも、それが当人の成長する過程において何ら影響もなかったという方も多いでしょう。自分は大人になってから知ったけどソレがどうした? 何か問題あった。自分には影響はなかったよ、という方もいるでしょう。

ですから、これから書くことは私の個人的な経験でありますが、こういう被曝2世もいるということを理解して受け止めてください。



長崎の軍事工場で魚雷を作っていた16歳の父は、原爆投下後の市内中心部で毎日、黒こげの遺体の埋葬の奉仕活動を続けていました。2次被曝まで受けていたことになります。

父は、生きて宮崎市に戻りましたが、本人に直接きくと、紫斑病らしきものになったり原因不明の熱で寝込んだり青年期は大変だったようです。結婚してからも何度も肺炎を起こすので母は心配したそうです。

長崎に投下された原爆は広島型と違いプルトニウムを原料としています。(ナガサキ型原爆(プルトニウム原爆))

父は若い頃に紫斑病が足から起こり、それが段々に身体の上のほうの上がってきた時に医師から言われたことがありました。

「紫斑が胸まできたら心臓麻痺を起して死ぬ。」

それが本当の医療的な判断なのか知りません。言われた父は相当に怖かったことだと思います。幸いに紫斑はお腹まできたけれど止まったそうです。

平成4年からは腎臓不全になり血液透析を受けるようになりました。それからは毎年、春には肺炎で入院することに・・・。最後は、肺血栓という病名で亡くなりました。 (プルトニウムは肺にとどまり、肺に影響を与えるそうです。)



父と母の間には3人の子供が生まれました。

1番目の子供は男の子です。とても綺麗な赤い頬の兄は生後12日目で死亡しました。身体中から出血が止まらなかったそうです。

(でも、診断は新生児メレナということなのですが・・・。(しんせいじメレナ、英: melena neonatorum)とは、ビタミンK欠乏のため凝固因子を体内で十分につくることができず、消化管出血の結果、黒色便をきたした状態のこと。)

2番目の子供が私です。産婆さんの手により夜中に生まれました。

私は黒い子供でした。産婆さんは、「こんな色の黒い子は見たことがない。おまけに両肩にはオオカミみたいに黒毛が生えている!」

それを聞いて、母は恥ずかしくて赤面したそうです。

地黒なのは成長していってもそのままでしたが、肩の毛は抜けたのか普通になりました。色白でなくて毛深いのは若いときからの悩みでしたが。痩せていて貧血気味で、特に中学・高校と体調は悪かったです。(貧血がひどく顔が青黒く膠原病ではないかとか疑われた後、急性腎炎と診断されました。)

3番目は女の子で、妹です。

これから書くことは、彼女にブログで紹介することを、許可を得ています。

妹は1500Kgと未熟児でした。大層、虚弱でその傾向はやはり10代に顕著でした。体重は増えずひどい、やせ型です。めまいや不定愁訴が酷く20代でも外出はあまりしませんでした。

大学病院で調べてもらうと、心臓の神経伝達に問題がある。30代ではホルモンが80代の量しかなく医師が、「生きているのが不思議なくらい!」と言ったとのことで憤慨していました。同じく30代で骨粗鬆症です。幸いに現在は外出できています。

これからすると、推測でしかないですが、低次元や遺伝による放射性物質の影響は、個人差が大きいとはいえ、その人の若年の頃に顕著なのかもしれません。

現在の私は結婚して仕事もしていましたが、体調維持にはかなり気を付けています。普通の人のようには無理はきかず、絶えず身体を労わっています。ビタミン剤を30代からかかさず、肉食を避け脂肪も控えています。漢方薬も飲んだり、煎じたりしています。野菜ジュースを飲んだり、かかさず作ったことも。

そうしていて、並みの体力を維持しています。昨年一昨年は仕事疲れか7月・8月に横になろうとすると、目眩(めまい)がしたりしましたが、気にしないことにしてました。誰でもたまにはそういう事もあるよッと。

しかし、思春期の原爆病、とりわけ白血病にたいする怯えは大変なものでした。しかも悩んでいるなどということを話す人もなかったので一人だけで悩んでいました。友達は、「弱いわねえ~。」とあきれていました。

とりあえず、ここまで・・・。





 
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☆ 父から聞いた話。「のばし箒(ほうき)」

2011年03月08日 | ☆風信子(ひやしんす)の思い出。
昨年の3月17日に亡くなった父は、昭和一桁生まれですが、日常生活についての細々とした事に精通していて子供の私に教えてくれました。

子供の頃、母が病気になると御飯を作ってくれるのは父でしたが、“サア腕を奮うゾ!”って嬉しそうな感じでした。そして味噌汁なども、「自分が作るものはお母さんが作るのより美味しい」とか自慢するのでした。悔しいけど、その通りでした。

最も、父は新婚のとき19才の母に味噌汁の指南をして不味いものを美味しいものに教え直した、というのですから確かに美味しいはずでした。しかし女にとっては、はた迷惑な存在です。

父は私にもお米のとぎ方を小学校5年生の時に教えて、「今日からは、ひやしんすが毎日、お米をとぐんだ」と決めたのでした。その日からお茶碗を洗うことと一緒に、長いこと責任を持たされました。(おかげで私のといだお米は美味しいかも)

思えば、母は夕食の支度を任せるときは「あなたの御心のままに・・・。好きにやって頂戴。」という気持ちが強く、作ってくれるだけで感謝。楽だ。嬉しい。と思うのでしょうか、食べてから美味しいとかコレはちょっと塩辛いとか感想を言うだけでした。

で、自分が台所に立つ時には、「勝手(調子)が狂うから。」と、私が台所で一緒に作るのは嫌がりました。だから、二人で一緒に料理をしたことはありません。それはそれでなにかしら寂しい思い出です。思えばスキンシップなども嫌な母でした・・・。

父はそうじゃありません。私が台所に立つことになると、手ぐすねひいて待ってましたとばかり、すぐ居間から出てきて指南におよぶのでした。(とっても嫌でしたが。)

父は、とても細かいのです。味噌汁に入れるトーフの切り方等も切り方にも、色々なやりかたがあるといって、自らトーフを手に載せて包丁で切る真似をしてみせて仔細に教えるのです。

最後に、トーフを指でぐちゃぐちゃにして鍋に入れて、「こういうやり方もあるから覚えておくように。トーフひとつでも決まりごとはなく切り方は色々ある。その日の気分によって自由に変えていいんだ。ね、わかったか?」と訓示を垂れるのでした。

フンと思う気分でしたが仕方なく聞いていました。

でも、切ったトーフをいつ鍋に入れるかという論戦では私も黙っておらず、いつも揉めることになりました。(高校の時です)

味噌を入れる前にトーフを入れる派の父と、味噌を入れてからトーフを入れる派の私はお互いのやり方を譲らず攻防戦になりました。

なぜかと言うと、高校の家庭科の授業で教科書に、「実験してみよう。トーフは味噌を入れる前と後のどちらが美味しいか。」とあり、先生が、「味噌を入れる前に鍋にトーフを入れると、トーフが固くなり、水っぽくなるから。」と教えてくれたからです。

幾ら、学校の授業ではコウ習ったからと言っても、感覚派の父は譲りません。結果、味噌を溶く前にトーフは投げ込まれてお終い。仕上がりは美味しくできましたが、気持ちは納得できませんでした。私は理論派なのかも?



さて、そればかりではありません。

掃き掃除をしていると、父が外に出てきます。細かいことは忘れましたが、次のことは覚えています。

「自分の家の前だけでなく、両側の隣の家まで越えて掃いておくんだ。幅はマア、1メートル以内だね。なぜか分かるかね。そうやって両脇を自分とこの外側まで掃いておくと、両隣の家も同じようにそうするから道路で、一番キレ~イになるのは家と家の境目になるんだよ。」と父は目をキラキラさせて話すのでした。

「お父さんが小さい時は、朝起きたら近所中がみんなそうしていたから、どんだけ綺麗だったか!」と思いだすように説明してくれました。

こうも言いました。

「自分とこだけ掃くのはケチで、隣まで全部掃くのは、それは余計なお節介というものだよ。だから一寸超えた処まで掃いて置くのが良いのだよ。」

戦前の街中の気風は日本のどこでも、こういうものだったのでしょう。

今日、調べてみるとチャンとネットにありました。「江戸しぐさ」というのだそうです。

で、父の教えてくれた掃除の仕方は、「のばし箒(ほうき)」というとか。

「江戸しぐさ」については、詳しい事は、ココからどうぞ。

父は宮崎市の育ちなのに、「江戸しぐさ」とは思いますが、日向の国の大田村は江戸幕府の天領でしたからね。お正月のお雑煮も、東京風の切り餅でカシワの入ったお澄ましですし、もしかしてその影響かしらん。分かりません。

父から聞いた話を思い出したのは、曽野綾子さんの、「老いの才覚」を読んだからでした。(P64ページ)

老いの才覚 (ベスト新書)
曽野 綾子
ベストセラーズ




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☆ フランクフルトの婚約者、マーガレータとの悲恋。

2011年02月14日 | ☆風信子(ひやしんす)の思い出。
 雪になりました。昼前から、みぞれが降っていましたがとうとう雪が降り出しました。明日の朝は道路が凍りついているかもしれません。


今まで母方の祖母の恋について書いてきましたが、その結婚相手の祖父にも披歴する恋愛がありました。


明治35年生まれの祖父は、長男として育てられ没落士族の一家にとっては大変な希望でした。しかし、実子ではなく他家からの養子だったそうです。その後、養母に子供が生まれ弟や妹となったのですが家を継ぐ人間として地位はそのままでした。

写真は無料素材をお借りしています。

祖父が、学校(逓信学校?)から帰省するときには、駅に着くと人力車の迎えを出すという待遇でしたので、妹や弟達から大層うらやましがられ後々にまで不平を洩らされたそうです。

そうはいうものの、長男としての教育は他の兄弟と違って、ずいぶん厳格なものだったらしく、勉強出来ないと祖父は親の前に長時間座らせられて叱責を受けるなど大変だったと私に話していました。

結婚後は逓信省(?)に勤務していましたが、それ以前は一等通信士として貨客船に乗っていたそうです。

たぶん日本郵船だったと思うのですが、ちょっと忘れ気味です。外国航路の貨客船は食事も洋風でスープから始まるものだったそうです。航海士の服装姿の写真が残っています。このときの経験からか祖父は和食のみでは満足せずに、色々と食べたがり、好みがうるさい祖父の為に料理が大変だったと祖母は語りました。

そういえば、我が家では和食が日常食だったのですが、祖母の処へ行くと中華も洋食も食べられました。ロールキャベツの作り方など祖母から教わったことでした。

貨客船は欧州航路だったらしくドイツにも行きました。上陸してフランクフルトに立ち寄ったときに、デパートガールのマーガレータと知りあい、結婚する気持ちになったそうです。祖父に腕を廻して寄りそう美しい女性の写真がありました。結婚したいと電報を打ったそうですが

総領息子が外国人と結婚するなんて許さないと日本では猛反対。仕方なく、「また来るよ」と言って日本へ帰国したそうです。苦笑して言う祖父でした。相手の女性には可哀そうな話でした。

その話を聞いた時には、「なんて無責任だ」と思いましたが、“武士は笑うのは片頬だけ”というとおりにめったに笑わない祖父のこと、実際にはとても辛い思い出なのかもしれません。・・・という訳で、夫婦でおたがいに好きな人の写真を持っていたことになります。

私が3歳の頃に祖父が、日向市美々津に引っ越ししました。
大人になっても、しばしば父の車で美々津に遊びに行きました。宮崎市から一時間半位はかかったでしょうか。

到着の挨拶に、祖母は声を聞きつけて出てきて顔をほころばせて皆に嬉しげに挨拶をするのですが、祖父は姿をみせません。

で、父は律義な性格でしたから部屋に入ると、掘りごたつに座ったままの祖父に向かい、畳に両手をついて挨拶をしました。

「ただ今、帰りました。」

祖父は、「帰ったか。」と一言。鷹揚にあごをしゃくるのでした。

父は、養子でもなかったのに「今日は。」とは言いませんでした。昔の人の義理の親に対する礼儀とはこういうものだったのでしょうか。

ただ、そういう姿勢を母が、私の夫にも求めるのには閉口しました。

「お父さんに、きちんと挨拶するようにアンタから言いなさい。お父さんが、美々津のじいちゃんにしたように、三つ指ついてちゃんと挨拶するのが普通よ。」

(ええーっ。そんな固い挨拶を今頃。まったく理想主義なんだからア。そんな事、アタシからは言えないよ。)

間にたって苦しい風信子です。(ただ今、だけでいいじゃない。気さくで気を使わないから良いと夫の事を褒めていたのに・・・。)

「ひやしんすちゃん。高鍋(嫁ぎ先)に行ったときにも、玄関から上がったら、ちゃんと挨拶をして、仏様にも・・・。」

なんのなんの、高鍋では至って気楽な家風で、玄関から入るつもりで声をかけると、「居間に廻りなさい。ハイハイそこから上がんなさいよ。」

と、かた苦しいのはまったく抜きでしたよ。




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☆ 祖母は、大正デモクラシーの申し子であったのかも・・・。

2011年02月13日 | ☆風信子(ひやしんす)の思い出。
風信子の祖母は明治42年の生まれでした。

都城高等女学校へ入ったのは大正の何年位の事だったのでしょうか。

何の学科が好きだったの? と問うと。

物理と言いました。男先生が、「空間とは~」という事を話してくれるのが面白くて好きだったとか。

英語は苦手で、校舎の廊下にいて、遠くから英語の先生(女性)が歩いてくるのを認めるとあわてて隠れたそうです。

先生が近くにくるとサッと腕時計を差し出して、「今、何時」と英語で聞いてくるからだそうです。

きっと胸がドキドキしたのでしょうね。

その頃、女先生のなかで祖母に用事を頼む方がいらして、雑誌:「婦人公論」を買ってきて欲しいというので、いつも頼まれていたそうです。

「婦人公論」が発行されたのは大正4年の12月23日とのことです。「新年号」の見出しには

「女の読書欲 知識欲は日に日に進歩向上して在来の婦人雑誌の平凡な記事や口絵や写真にはもう厭き果てた。」とあります。

「女性の自覚と解放」をテーマにした「婦人公論」は、インテリ層には好評でしたが、他の婦人誌が持つ華やかさに欠けたためか部数は低迷したそうです。

その本を、祖母はまだ十代で読んでいました。
女学校の先生が、自分が読み終えると本を貸してくれていたのです。きっとワクワクしながら読んだことでしょう。

有名な与謝野晶子平塚らいてう「母性保護論争」は、婦人公論の草創期の1919年に載ったらしいです。

直接、聞いたことはことはないのですが、もしかしたら、そのころに17歳の祖母は在学中であり、借りていた「婦人公論」で読んでいたかもしれません。「職業婦人」になりたかったとは言っていましたから。

父親が校長先生であるにもかかわらず、女学校を出ると、祖母は宮崎市の赤江にあった鐘紡紡績に勤めたのでした。職業婦人として働きたいと考えたのかもしれません。

温厚という雰囲気を身に付けた祖母の口吻はもの柔らかでしたが、中学生の私と話していても昔堅気なもの言いはせず、良妻賢母が一番良いとか言ったことはありませんでした。

でも考えてみると、女学校のあった都城という地域は昔は薩摩藩の領地であり、明治以降に宮崎県に繰り入れたという処です。

ですから、方言なども薩隅弁に近い諸県弁(もろかたべん)と呼ばれる言葉であり、現在でも宮崎市内の宮崎弁とは違いがあります。

よくそんな鹿児島に近い風土で、女学校の先生方も新しい思想を身につけようと頑張っていたのだと思います。




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☆ 祖母から聞いた幼い頃(大正時代)の話。

2011年02月12日 | ☆風信子(ひやしんす)の思い出。
昨日に続き、母方の祖母から聞いた昔の話を書き留めます。

明治も末に生まれた祖母は、父が教育者であったために、私と同様に転勤族であったようです。

現在の宮崎県西臼杵群五ヶ瀬町に赴任していったのは、おそらく大正5年以降くらいだったのでしょうか。

大正11年位から延岡~宮崎の鉄道・日豊本線が開通したらしいですが、祖母は延岡から高千穂、さらに五ヶ瀬まで行くのに鉄道馬車に乗っていったと言っていました。鉄道馬車とはレールが敷設してあるものの、馬が蒸気機関車の代わりに客車を引っ張るものらしいです。

昭和14(1939)年には、やっと日の影線(後に高千穂鉄道)が日の影駅まで開通したそうですが、その先の五ヶ瀬まではどうだったのでしょう。それまでは、よく馬車も使われたそうです。

鉄道馬車は五ヶ瀬川の川沿いをずっと走ったそうで、赴任地の五ヶ瀬というところの地形は、ウィキペディアによると

・・・宮崎県の北西部、九州山地に位置し、町域北部から北西部~西部~西南部にわたって熊本県と接する。全体的に標高が高く、特に町域南部は標高1,000mを超える山地である。北部の丘陵地が町の中心部にあたる・・・。

ということであり、渓谷を縫って走る鉄道馬車から谷底の眺めとくると、怖ろしい程の深さで大層こわかったそうです。さぞかし気分も悪くなったことでしょう。

祖母たち一家にとっては、ここでの寒さは半端なものではありませんでした。

武士の血筋の曾祖父(祖母の実父)は私が見た限りでも厳しい貌でしたが、継母も贅沢な事はさせなかったようです。学校へ行くのに、朝は髪を梳かして桃割れに結うのですが、整えるのに髪油というものは使わず、水をたらいに張り、櫛を水につけて梳きあげます。

櫛を頭に持っていくときには水が凍ってしまい、梳くとジャリジャリというのだそうです。考えられないほどの寒さ。聞くだに寒さが伝わってきます。現代に比べてもよほど昔のほうが寒かったのでしょう。

また子供は皆、髪を桃割れに結うというので京都の舞妓さんの桃割れ姿を思い浮かべたのですが、祖母から見せて貰った記念写真に写った一同(子供)たちの頭は、稚児髷というようなものでした。江戸から明治にかけて結われた子供の髪型らしいです。

その後、今度は都城へ赴任ということになり、祖母は都城の女学校を出たのでした。

続きは、また・・・。




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☆ 祖母との、「女同士の打ち明け話。」

2011年02月11日 | ☆風信子(ひやしんす)の思い出。
母方の祖母が亡くなってから30年も経っているのだが。

生きていたら100歳にもなるのかと考えるとビックリしてしまう。でも親戚には108歳で亡くなった女性や、最近100歳を越した女性がいるので早くに亡くなってしまったなと71歳位で亡くなったことを残念にも思う。

風信子は4歳の頃にひいじいちゃん(祖母の父)が亡くなった時の葬儀の模様を覚えている。それは神式で行われていた。神主が紫色の水干(すいかん)で現れたときに「綺麗だ」と思った。それから土葬であったので、ひょっとして死ぬと地面の下に埋められるのかと大変こわかった。

人は年老いたら死ぬのだと悟った時に、祖母のことが気になった。

心配のあまり7歳のときに祖母に尋ねたことがある。

「ばあちゃんは年幾つ?」

すると祖母は恥ずかしそうに笑い、「52」と答えた。

私は安心した。じゃ、大好きな祖母はマダすぐ死ぬということはないな。

風信子にとっては52歳とはそういう年齢であったが、苦労してきた祖母は老けてみえたから聞いてみたかったのである。

祖母にとっては、孫にも問われると答えるのが恥ずかしい年齢であったのであろう。

風信子は、その祖母の年齢をとうに超えてしまった。



延岡市で暮らしていたときから、祖母はよく泊まりがけで来てくれて1週間ほど滞在してくれた。
それが嬉しくて待ち遠しかった。両親と幼い妹だけの生活は寂しいものであったからだ。

中学1年生のときに宮崎市に越して、両親が不在のときに祖母が泊まりに来てくれた。
その夜、私は祖母にこう言った。

「私ももう大人だし、今夜は女同士の打ち明け話をしよう。」

冗談半分にいったことであったが、祖母は本当に彼女の打ち明け話をしてくれた。

自分のした打ち明け話は不思議と覚えていないのだが、祖母の語った話は覚えている。

祖母は、まず自分が継母に育てられたこと。よくできた女性だったが、遠足のとき着物の羽織を破ったときに継母に叱られるが怖くて家に帰るのがつらかったこと。女学校を卒業したら働いたこと。結婚前の女性が働くなんてとんでもない世相であったが、意地のようなものがあったらしい。職業婦人としてカネボウ紡績で働いたり、病院の受付で働いたそうだ。

それから好きな人が出来たこと。
祖母は笑い方が可愛らしい。ほんとにコロコロと笑うような感じである。笑いながら告げてくれた。

家の縁側で縫物をしていたら毎日、道を通る若い男性がいて、会釈から挨拶をするようになり、やがて縁側に座って話をするようになった。お互いに好きになって相手が結婚を申し込んできたが、相手が水産関係の役所で働いていて親が反対した。貧乏な役人なんかに娘はやれないという事であった。

「堪忍してください」と泣いて頼んだそうだが、継母は、「そんな貧乏なとこへ嫁に出したら、私が継子苛めをしたようではないか。」と許してくれなかった。祖母から聞いた話なのだが、驚いたことに、当時でも24歳になれば自由結婚はできたのだそうだ。家長が許さないと結婚はできないと思っていたのだが・・・。

祖母は24歳まで待とうと固く決心したそうだ。そして、見合い話を断り続けた。

ところが、継母の 「おまえは私が継母だから言うことを聞いてくれないのだね。」
とこの言葉に心が折れてしまったのだと。

「おっかさん、悪うございました。許してください・・・。」

あれほど固く決心していたのに、温厚な祖母は、芯が弱かったのであろう。見合いして結婚したのが祖父であった。

でも好きな人の写真は生涯、持ち続けた。母は、箪笥の引き出しにしまわれた一枚の写真を見て、祖母の好きだった人の顔を知っていた。
私は残念なことに見る機会がなかった。捨てるにしのびなかった写真。どんな男性だったのだろう。

好きだった男性は日露戦争かなんかで早くに戦死してしまったのだそうだ。
祖母の晩年に私が、「その人と結婚していたらどうだったかな?」と聞くと、
「早くに戦死していたから苦労していたかもしれない。結婚しなくて良かったかも」とハッキリと言った。

おやおやと思った。
でも、今の言葉はそうでも、その時々で考えることは違うのかもと当時おもったことであった。



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☆母から聞いた。宮崎神宮で浴びた、グラマン機の機銃掃射。

2011年02月09日 | ☆風信子(ひやしんす)の思い出。
宮崎市の空襲は昭和20年の3月18日が最初で8月12日まで幾たびも繰り返し、あったらしいです。

そのとき、母は13歳でした。

祖父(母の父)は、逓信省(?)で通信を受け持っていたので軍隊に召集されておらず、一番はげしい空襲のときには家族と一緒に逃げたそうです。

以前から家の庭には祖父の手になる防空壕が掘ってあったが、情報を知りえたのか祖父は、空襲激化の前により堅固なものに防空壕を作り変えていたそうです。

空襲警報がなると、母の妹でようやく2歳になる児が、「来たよう。来たよう。」と大人に告げながら、庭中をあちこち走り廻るので、祖母は、その子を摑まえるのに追われて、毎度、逃げ損ねて防空壕へ入ることは出来なかったそうです。苦笑しながら祖母も話してくれました。

空襲が激化し、焼夷弾などが落ちてきて、民家が焼け、とうとう家から避難することになったとき、家族全員で無我夢中で宮崎神宮のほうへと逃げたらしいのですが、当時の宮崎神宮は森の木までが軍への供出とかで伐採されており、目隠しがなく、グラマン戦闘機には市民を追いかけて、機銃掃射するには最適の条件であったらしいです。

それでも、母達の命を救ったのは神宮の塀がコンクリートで僅かに内側に反っており、弾がその反りにばかり当たって、壁に沿って走る人間にはトウトウ当たらないで終わっただからでした。たぶん、その塀が頭をおおう位の高さを持っていたのでしょう。

家族全員無事でした。

それでも、グラマンは低空で降りて来ては、機銃掃射し再び上がっていくので、祖父は考えて、その間隙を縫って一人ずつ安全な場所へ逃がせることにし、祖父の「ソレッ」という合図で一人が走り出す。「今だ!」という掛け声で別の人が、一目散に走るという状況。2歳の叔母を抱えた祖母は大変だったでしょうし、祖父の母も一緒にいたはずです。

掛け声で一人ずつ走り抜けるのは、「まるでコンバット(アメリカのTVドラマ)みたいなもんよ。まったく同じ。」とは母の話。

最後に祖父が駆けて逃げますが、一瞬、戦闘機を仰ぎみると、搭乗兵の顔がハッキリと間近に見えたそうです。まだ若い16歳位の兵士で、操縦管を握りしめ身を乗り出すようにして攻撃してきていたのだとか。

母達が空襲から逃げ伸びてハアハア息を切らしていた頃、長崎の軍事工場で魚雷を作っていた16歳の父は、原爆投下後の市内中心部で毎日、黒こげの遺体の埋葬の奉仕活動を続けていました。2週間ほど作業を続ければ、宮崎へ帰る汽車の乗車券が出ると聞き、とにかくも帰ろうと手伝っていたそうです。(夜学へ行けるというので、宮崎からはるか長崎まで行ったらしいです。)

父は、「この世に神などいるもんか!」 と、その地獄図をみて思ったそうです。


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