「いってきまーす(^_^)/~~ 」の記事で書いたように、崎陽軒のシウマイ弁当とビールでガソリンを満タンにして、千葉県は佐倉市に向かった。
ホテルにチェックインの際に、こんな👇すてきなものをくださった。
カタログギフトのように、地元の名産品をハガキで申し込めるという物。
野菜やお酒もあって迷ったけれど、お煎餅とチーズケーキにした。
頑張ってるなー、佐倉市!
お部屋は7階。
夜には夫も来るので、ツインにした。
狭いけれど、明るくて清潔な感じ。
窓からはかわいいモノレールが見えた👇
喪服に着替え、迎えに来てくれた従妹の車で葬儀場へ。
コロナのためにお坊さんは来ないで、お通夜ではなくお別れの会という簡易的な形で行われた。
故人の写真をディスプレイに映したのをみんなで見たりして、その時もぐっときたけれど、その後、故人の好きだった曲をオルガンの生演奏で聞いた時にはちょっと泣いちゃったなぁ。
ちなみにその曲と言うのは、「おーい中村君」と読売巨人軍の歌「闘魂こめて」
この選曲、なんか笑っちゃうけど、その時は「おじちゃーん」って感じだった。
あとはお焼香したり棺にお花を手向けたりとかね。
こんなコロナ禍の中で、人の多いところに来るのなんて抵抗あったかもしれないのに、同級生や飲み友達が会場に入りきれないほどたくさん来てくれて、ホントありがたかった。
やはりコロナ対策で、会葬のかたへの通夜振る舞いは無し。
親族だけ残り、別室で飲食しながら思い出を語り合った。
交通事故という残念な亡くなりかたではあったけれど、入院が長引いていたから、みんなある程度の心の準備みたいなものはあったのかな。84才という年齢も平均寿命を越えていたし。そんなわけで、和やかにみんなで泣き笑いのひとときを過ごした。
私は呑み助の従弟と向かい合わせの席で、またもやビールをクピクピ飲んでしまったのだった。
料理はコロナ対策でひとつひとつの料理が小さな容器に入っていて、それを好きなだけ自分の席に持って行く形だった。ビーフシチューやお肉のスープ煮などは、個別にスタッフのかたが温めてくれた。そんなスタイルだったけど、けっこうおいしくいただいてきた。
この後は、また従妹に送ってもらってホテルに戻った。
部屋で寝間着に着替えダラダラ休憩しているうちに、横浜後発組の従妹夫婦と夫も揃ってホテルに到着。
その後は部屋で宴会ですがな
いったん家に帰った別の従妹までやってきて、なんかもう修学旅行の夜みたい。
夜中の1時過ぎまで飲んでしまった。あ、修学旅行では飲まないか
その後はゆっくりお風呂タイムで疲れを癒した。
ホテルのお風呂はジャグジー。バブルバスも置いてあったのでブクブクの泡風呂にしてゆっくりした。
ぐっすり眠った翌朝のご飯はバイキング。
目についた食べたいものを欲望の赴くままにワシワシ食べた。
これでやめておけばいいものを…
レストランに入ったらカレーのいい匂い。
それに、皆みんながおいしいっていうからさー。ついうっかり普通に一人前食べちゃったよ
なるほど!こくがあっておいしいカレーだった。
お腹いっぱい!
ポンポコリンにふくれたお腹を喪服に押し込んで(ファスナー壊れなくてヨカッタ!)、チェックアウト後に葬儀場へ。
告別式は滞りなく進行されたけれど、お経を聞いた途端に寝てしまい、ハッと気付いたらまもなく自分のお焼香の順番が来るところだった。
前日の昼に飲み、夕方に飲み、夜中まで飲みって、お酒好きなおじちゃんの分も飲んじゃったからなー。
誰にも気付かれていないと思ったけど、後ろの列に座っていた従妹にしっかり見られていて、後でからかわれた。面目ないことでござる。
斎場へは、コロナ対策で20人しか行けないことになっていたけれど、私も数に入れてくれたので、同行させていただいた。
やっぱり最後のお別れは辛いですね。
その後しばらくの時間、控室で食事をいただきながら、みんなで故人を偲んだ。そして、またもやビールをクピクピ飲んだ。
アナウンスがあり、お骨上げに呼ばれた。
立派な骨でね、あー、これだったら事故さえなければ、まだまだ元気に生きられたよなーと、つくづく惜しい気持ちになった。
これで一連の儀式が終了し、叔母夫婦従妹夫婦とホシちゃん夫婦の6人で大きい車に乗せてもらって横浜に帰った。
母方のいとこ達はみんな子供の頃から仲良しで、いまだにちょくちょく会ったりグループラインでお喋りをしたりするいとこもいるけれど、なかなか接点がないいとこもいる。そんないとこやいとこの配偶者(不思議と良い人揃い)とも久し振りに会えて語り合うことができた。
おじちゃん、みんなに会わせてくれてありがとう。合掌
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