上田龍公式サイトRyo's Baseball Cafe Americain  「店主日記」

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「綺麗事」を語れない人生は不幸だ

2010年10月06日 | えとせとら

 

 アフリカ系アメリカ人初のメジャーリーガーとなったジャッキー・ロビンソン選手登録がオーナー会議に諮問された際、票数は1対15──つまり、ロビンソンと契約したBrooklyn Dodgers以外の15球団はすべて反対に回った。

 初代コミッショナーのケネソー・マウンテン・ランディス(元連邦判事)は1944年の死去まで メジャーリーグの門戸を黒人に開放することには終始否定的で、そのあとを継いだのが南北戦争時に「奴隷州」だったケンタッキー州で知事、連邦上院議員を歴任したアルバート・“ハッピー”・チャンドラーだったこともあり、ロビンソンのメジャーデビューには暗雲が立ち込めたかと思われた、だが、チャンドラーとナ・リーグ会長だったフォード・フリックロビンソンのDodgers昇格を支持し、フォードはロビンソン擁するDodgersとの対戦拒否を表明していたPhiladelphia PhilliesやSt. Louis Cardinalsの球団関係者や選手たちに対し、出場停止などの処分も辞さない強い態度で臨んだ。

 ロビンソンを迎えるDodgersの監督だったレオ・ドローチャーは、南部出身者を中心に黒人選手の加入に拒絶反応を示していた選手たちに対し、「オレはこのチームでプレーする選手の肌が黄色かろうと黒かろうと構わない。オレは監督として、優秀な選手であれば誰でも試合に使う。もしオレの意見に反対するのであれば、よそのチームに移ってもらってもけっこうだ」とキャンプで呼びかけた。ロビンソンと二遊間コンビを組むことになる遊撃手のピー・ウィー・リースはケンタッキー州の出身だったが、むしろ子供のころから人種差別を目の当たりにしてそれを嫌悪しており、ロビンソンをグラウンドの内外でサポートし続けた。

 こうしてロビンソンは1947年4月15日、本拠地エベッツフィールドでDodgersの一員として先発ラインナップに名を連ねる。公民権法の施行から実に17年も前の話だ。

 当時のオーナー会議における「1対15」の評決は、そのままのパーセンテージではなかったにせよ、アメリカ社会全体の人種問題に対する意識を反映していた。ジョージア、ミシシッピ、フロリダ、アラバマなどのディープサウス(深南部)では公然と黒人を政治・社会の中心から締め出す州法が施行され、レストラン、公衆トイレ、水飲み場まで白人と隔離されていた。

 ロビンソンがメジャー昇格後も相手チームや観客の激しい差別的な言動にさらされながら、新人王、首位打者、盗塁王、MVPに輝くなど、ドローチャーの言ったように「肌の色に関係なく素晴らしい選手」であることを証明し、1955年には人種差別の激しかった南部アラバマ州モンゴメリーで、黒人女性ローザ・バークスが「白人優先席」からの移動を命じた運転手に抵抗の姿勢を示したことをきっかけに、マーティン・ルーサー・キング牧師をリーダーとした公民権運動が全米に広がっていく。

 1963年8月23日、公民権運動の制定を求める「ワシントン大行進」で、キング牧師が「奴隷解放宣言」を発した第16代大統領を記念した「リンカーンメモリアル」の前で行なった演説はあまりにも有名だ。

I have a dream that one day on the red hills of Georgia, the sons of former slaves and the sons of former slave-owners will be able to sit down together at the table of brotherhood.

 さらに半世紀近くが経過し、アメリカ合衆国にはロビンソンもキング牧師も想像し得なかったかもしれないアフリカ系の血をひく大統領が誕生した。もちろん、アメリカ社会における人種問題は根本的な解決を見たわけではないが、それでもロビンソンがメジャーリーグ入りした当時よりははるかにマシになったことは疑いようがないだろう。

 ロビンソンがメジャーリーグに加わろうとしているとき、キング牧師が“I have a dream”の演説を行なったとき、おそらくそれに反対したり、冷笑したり、あるいは正義が彼らの側にあることは理解しながらも、しょせんは理想論、綺麗事にすぎないと感じた人たちは少なくなかっただろう。

 だが、ロビンソンやバークス、キング牧師たちが困難を乗り越えて道を切り開いたからこそ、公民権運動の成功、人種問題の大いなる進展があり、黒人のみならず、中南米系、そして日本人選手を含むアジア系など、多彩な人種・民族の選手たちがプレーする現在の野球界(メジャーだけでなく、NPBや韓国、台湾リーグも含めて)がある。

 アフリカ系などマイノリティー出身の選手をメジャーでプレーさせたいと考えたのは、ロビンソンをDodgersに入団させたブランチ・リッキーが最初ではない。New York Giatsの闘将ジョン・マグロウは1901年にBaltimore Orioles(現在のYankeesの前身)でプレイングマネージャーだったときにアメリカ先住民選手をプレーさせようと試みたことがあったし、今日のメジャーリーグにおけるプロモーション(集客)活動のモデルを作ったことで没後に殿堂入りしたビル・ベック(Indians, Browns, White Sox)は第二次大戦以前に黒人選手の登録をランディス・コミッショナーに求めて却下された経緯がある(ア・リーグ初のアフリカ系選手ラリー・ドビーを入団させたのもべックだった)。

 マグロウも、べックも、リッキーも、当時の一般的なアメリカ社会の感覚からすれば「ドンキホーテ」のような存在に映っただろう。しかし、いま彼らの業績を嘲笑したり侮蔑の声を浴びせるのは、悪名高き人種差別・白人至上主義団体「クー・クラックス・クラン(KKK)」のメンバーぐらいだろう。

 

 Blogへの私のエントリーに対して、「キレイ事ばかりほざいている」と悪罵を交えたコメントを寄せてきた(編集部の投稿規定に引っ掛かり掲載禁止)御仁がいる。その「正体」を第三者から知らされたのだが、それはただただ憎悪と悪意のみに満ちて、希望と展望を失った哀れな人間の典型だった。彼の言動は缶スプレー塗料で民家や商店街のシャッターなどに意味不明の落書きをする行為と何ら変わりなく、ネットに書き込んだ内容を目にすることは、不潔な食堂に仕掛けられたゴキブリトラップをわざわざ開いて覗き込むこと(以前CMで鶴瓶がやってましたが=笑)に等しい。それは「綺麗事」すら心に描けず、口に出せない、悲しい生き方だ。その姿に感じるのは怒りよりもむしろ「憐れみ」だ。

 おそらく、キング牧師の演説も聴く人によっては「綺麗事」に聞こえただろう。だが、それはアメリカ人のみならず地球上の全人類に最大公約数的な幸福をもたらす世界のあるべき姿を語った「理想」であり、どんなに紆余曲折があろうと人類は一歩一歩それに近付きつつある。南アフリカにおける「アパルトヘイト」の崩壊もその過程で起こった歴史的出来事だった。

 私はただ、あるべき理想を語ったにすぎないし、それを「綺麗事」と言ってもらってもまったくかまわない(綺麗事でもお金を出して私の書いたものを読んでくれる人はいるが、あなたの書いたものにお金を出すというのはナベツネや宮内を見るために入場料を払うのと同然かそれ以下の無駄な行為だろう)。心が憎悪と悪意で満ちた空しい生き方をするよりは、はるかにマシな人生だからだ。

  「理想」を嘲笑し、罵詈雑言を浴びせることしかできない人間に幸福な「未来」が訪れることは決してない。彼らの心にはキング牧師が演説で語ったような幸福な光景や将来像がどこにも存在しないのだから。

 

 

 

 

 

  

 

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