どんなに長く現役を続けても、プロ野球選手としてプレーできる期間はせいぜい20年間で、人生の約4分の1。当然のことながら、引退後の人生のほうが長い。
今年もまたドラフトで多くの選手が指名され、入団するが、その分、当然のことながら、ユニフォームを脱ぐ選手たちがいる。なかにはポジションの重複や監督・コーチとの相性などで出場機会に恵まれず、実力を発揮できないまま、若くして引退を余儀なくされる選手も少なくない。
メジャーリーグの場合、マイナーからの競争の激しさがよく伝えられるが、たとえば解雇後の「セカンドチャンス」に関してはむしろ日本よりも機会が多い。シーズンオフはもちろん、シーズン中でも期限ぎりぎりまでトレードが盛んで、またファームで長くくすぶっている選手に他球団でのチャンスを与えるための「ルール5ドラフト」という制度が協約に設けられている。また、クビになってもマイナー契約、あるいは独立リーグでのプレーからメジャー復帰を果たす選手もおり、最近では現役最年長のフリオ・フランコ(ブレーブス)がその代表例だろう。
1年前、日本プロ野球選手会の松原徹事務局長にインタビューした際も、日本のプロ野球界はそもそも、1球団70人の選手枠を設けているがゆえに、まだ余力のある、あるいは機会に恵まれない選手を簡単にクビにしているのではないかという話題が出た。若くしてユニフォームを脱ぐのも気の毒だが、逆に40を過ぎてもまだ実力があるのに、フロント、さらにはメディアまでが「肩叩き」のようなことをする風潮がある。プレイングマネージャーという異例の形になった古田敦也(スワローズ)はその典型だろう。
その古田と同じ1965年生まれで、同時期のセ・リーグでプレーしていたプレーヤーの一人が、横浜大洋ホエールズでプレーしていた大門和彦元投手だ。83年秋のドラフトで4位指名され、入団が決まったあと、その暮れに京都の彼の実家までインタビューに行ったことがある。印象に残っているのは、「もしプロに指名されていなければ、スポーツドクターの道に進むつもりだった」と、18歳の野球少年にしては珍しく、きちんとした将来への設計図を持っていたことだ。強豪ひしめく京都にあって、公立の東宇治高校出身で、もちろん甲子園には縁がなかったが、ドラフトで指名した選手がことごとく「ハズレ」だった当時の大洋(何しろ、この頃ドラフト1位で入団した選手の名前を、スカパー!の控え室での雑談中に私が口にするたびに、牛込惟浩さんが大きな溜息を漏らすくらいなのだから)にあって、大門は数少ない「当たり」だった(大洋というのは不思議なチームで、高木豊、屋鋪、石井琢朗、進藤達哉といったドラフト下位指名、あるいはドラフト外で活躍した選手で出世した選手が非常に多い)。実働7シーズンで通算36勝51敗は決して一流と言える成績ではなかったが、それでも弱かったホエールズにあってローテーションの一角を担い、しかも通算防御率は3.83。現在よりもプロ野球の常打ち球場がどこも両翼・中堅までの距離が短く、当たり損ねの打球がホームランになっていた打高投低の時代にあって、この数字は立派である。時代としては、斉藤明夫、遠藤一彦のから佐々木主浩、野村弘樹の時代への架け橋となる役割を球団史の上で担った形になったが、もっと打線の援護に恵まれ、故障に見舞われることさえなければ、98年の優勝の頃までローテーションを守れたのではないだろうか。
93年にホエールズを解雇された(他球団にトレードの打診もしない、非常に乱暴なやり方だった)あと、94年だけタイガースでプレーして引退。まだ29歳の若さだった。しかも引退直後、あの阪神淡路大震災で被災したというニュースを聞いて心配した記憶があったのだが、その後保険会社に勤務して優秀な成績を収め、現在では独立して京都で保険コンサルタント業を営み、地元の若手経営者として注目される傍ら、休日には少年野球の指導にも当たっているとのことだ。
自主トレで彼の投げる球を私がバットで軽打して打ち返す練習に付き合った際、いきなりカーブを投げるような(プロの投げるカーブが目の前で「消える」ことを教えてくれたわけだが)イタズラをするなど、明るくひょうきんな性格だったが、練習態度はいつもまじめで、インタビューの時には、一軍に上がって主力になったあとでも、いつも礼儀をわきまえて、敬語で話すことを忘れない男だった。だから現在、引退後の第二の人生で成功しているというニュースを聞いても、まったく意外に思わない。消息がわからなくても、大門ならきっと社会人としてうまくやっているだろうと思っていたが、その予想は当たっていた。
もう10年以上会っていないが、ぜひ近い将来再会して、今度は社会人同士の立場で、酒でも飲んでみたい好漢である。その時、ぜひ彼に話したいのは、「君を横浜スタジアムの外野まで追いかけたあのアレン(広島)の息子が、ヤンキースのマイナーでプレーしていたぞ」ということなのだが(笑)。