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親は子に「月に向かって語れ!」

2006年05月02日 | えとせとら

(綺麗な満月を見たら、家の中にいる家族に声をかけるくらいの心の余裕がほしいものだ)

あなたの家では、時折庭やバルコニーに出て満月を見上げ、「おーい、いいお月さんだよ、来てごらん」と家族や恋人に声をかける、あるいは声をかけられることがありますか?

私はそういう家庭で育ってきました。10年ほど前、ちょうど今頃の季節だったでしょうか。当時、心の病で会社を休職し、ほとんど家に引きこもっていたとき、家族はそのことを責めることなく、「外は花水木が綺麗だよ、たまには外に出て見てきてごらん」と声をかけてくれたものです。それまで、私はどちらかと言えば季節の移り変わりにやや無頓着なところがありましたが、それからは道に咲く花々や空の青さ、鳥の声などによく目を向け、耳を傾けるようになりました。

さて、今から5年ほど前でしょうか、ちょうど夏休みの頃に、友人たちに誘われて富士五湖のキャンプ場に出かけたことがあります。東京から車で2時間あまり。空気も水もきれいで(それでも昔に比べると観光化や環境破壊が進んでいるそうですが)心が洗われる思いがしましたが、そんな気分の良さが一変する出来事が起きたのが、その夜でした。当日は雲ひとつなく、空に浮かぶ月や星も東京では見られない美しさでした。しかし、自分たちの子供をそれぞれ連れてきた友人たちは、子供たちにそんな夜空の美しさを教えようとはしませんでした。彼らが持ってきた買い物袋から取り出したのは「花火」でした。

もちろん、湖畔のキャンプ地で花火をしていたのはわれわれ一行だけではありません。しかし、それこそ虫や鳥の声しか聞こえないような、そしてネオンなどの人工的な照明もほとんどなく、湖面に浮かぶ月の明るさだけが際立っている、そんな素晴らしい環境の中で、なぜ星や月について子供に教えることもせず、けたたましい爆音を立て、目も開けられないほどの煙と火薬のにおいを漂わせてまで、花火をやらなければならなかったのでしょうか。私はそこに、本当の意味での「教育」の欠如を確信しました。

最近でも夜、ふと窓から、あるいはバルコニーに出て、ときには夜道を歩きながら、空に浮かぶ月を見上げることがあります。しかし、周囲の家々を見回しても、同じように夜空を見ている人の姿を見かけることはほとんどありません。昔はけっこう、あちこちの家で家族が満月を見上げている光景を目にしたものなのですが。

私は当時、こうしたことを友人たちに言ってあげることができませんでした。その後、いろいろな行き違いもあって、彼らの多くとは交友を絶つことになってしまったのですが、今にして思うのは、このとき、湖畔で花火をしていた彼らに、やはりこうしたことをハッキリと言ってあげるべきだったということです。少なくとも私の考えが絶対に間違っていないという確信があるのならば、その場の空気を多少悪くしても、あえて苦言を呈するべきだったのです。

そんなこともあって、私は少なくとも近頃は、心に思っていることの「半分」は絶対に口にすることにしています。「アレで半分なの?」と言われてしまいそうですが(笑)、しかし、思っていることを口に出すとき、言葉を包むオブラートをできるだけ薄くすることで、少なくともこの何年かは対人関係は逆にうまく行っていると思います。そう、相手を本当に思いやっているからこそ、あえてときには耳の痛いことも言わなければならないのです。もっとも、私は言われる立場になると、けっこうその瞬間はムカついていますけどね(笑)。まあ、それでもたいていの場合は1時間もすれば、あるいは一晩寝れば、「やっぱり自分のためを思って言ってくれたんだな」と思い直すだけの余裕ができてきたとは思うのです。

もし、今日のこのエントリーを読んでくれたお父さんやお母さんがいたら、自然に囲まれたキャンプ地では、花火などせずに、望遠鏡や天体図を持参して、宇宙について子供さんに話してあげてください。

 



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1 コメント

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腹八分目 (ADELANTE)
2006-05-04 03:49:22
お互いに言いたいことが言える、というのは親友だけでしょうね。



しかし、それでも腹八分目にしないとなかなか上手くゆかないものです。(特にどちらかがどちらかに一方的に言っている場合が多いケースにおいては、です)



それにしても、花火より月・・・、ためになる話しです。
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