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再録「体育会系体質」(2005.5.2)&「改憲集会会場の女性たちへ」(05.5.3)

2006年05月03日 | えとせとら
(ドラクロワ画「民衆を導く自由の女神」)
 
憲法記念日にあたり、改憲の雰囲気がなし崩し的に高まっていることを憂い、警鐘を鳴らす意味で、昨年の5月2、3日に掲載したエントリーを再録します(一部修正あり)。
 
 
「体育会系体質」(2005.5.2)
 
人が二人集まれば「組織」ができると言われるが、日本ではありとあらゆる「組織」、官庁や民間企業、さらに学校や友人同士の関係においてでさえ、「上下関係」ばかりに重きが置かれている観は否めない。
 
自分の身辺に見下す対象の人間を探し、それに対して有形無形のプレッシャーを与えるのが、日本の社会における対人関係の特質ではないかと思われる。とにかく重視されるのは「上下関係」。それも一方的な「上意下達(トップダウン)」ばかりで、ボトムアップがあまり省みられないのが特徴である。
職場の上下関係はもちろん、学校のレベルにおいても小学校、下手をすれば幼稚園の段階から「先輩・後輩」という関係が強調されているのは異常としか言いようがない。現・中日ドラゴンズ監督の落合博満は東洋大学を半年足らずで退学しているが、その理由も野球部における上下関係に嫌気が差したからだ。スポーツの世界ではその競技における実力のみが物差しであるはずだが、実際には名門運動部の1年生部員というのは、まるで奴隷のような扱いを受ける。落合のように卓越した実力の持ち主で、しかもとびきりプライドの高い人間が、決別したのは当然と言えるだろう。おかしいのはそうした体質を脱却できない、いわゆる「体育会系」の組織であって、落合の考えこそが人間としてごくごくまともなのである。オフのテレビ番組では、中学・高校で野球部に取り組んでいる落合の子息も、同じようにそうしたいびつな人間関係に苦しんでいたことが、彼と夫人の口から語られていた。
(落合の興味深いエピソードについては、下記のサイトで紹介されている)
 
こうした異常な人間関係のあり方は、ズバリ、旧・日本軍から受け継がれたものである。軍隊で通用するのは常識ではなく、トップダウンを根幹とする「権威」であり、それがどんなに理不尽な命令であろうとも、下の立場にいる人間が反抗することは一切許されない。人殺しを正当化するための論理は、軍隊を持つ国家においてはそれこそ万国共通なのかもしれないが、それにしても旧・日本軍のそれは飛びぬけて異常であった。
そうした「いじめ社会」がもたらしたものが、今回のJR西日本福知山線の大惨事である。あの「日勤教育」は、まさに旧・日本軍における「新兵いじめ」と同じものだ。
私自身、10年前に思わぬ病に取りつかれたとき、もっとも苦しんだのは病気そのものよりも、それを理由した職場における「迫害」だった。そもそもその病気の原因は、不真面目な勤務を繰り返す同僚たちのために心労を重ねたために引き起こされたものであり、それに対して人事の管理者である上司や総務部が有効な指導を怠ったために、ついには会社を長期休職せざるを得ない状態に追い込まれたのである。にもかかわらず、休職を申し出た時、そしてそれが認められた後も、まるで犯罪者のような言われ方をされたものだ。もちろん医師のきちんとした診断書もあったのだが、その医師まで「共犯者」呼ばわりである。医師がもし虚偽の診断書を書けば、医師法違反に問われて犯罪となることを知らなかったのだろうか。

こうした経験もあって、最近は学校はもちろん、職場でのいじめ問題にも関心を寄せ、いわゆる「パワーハラスメント」についても、それに悩んでいる人たちの相談に乗っている。パワーハラスメントの実態については、またいずれここで紹介したい。
しかし、JR西日本の「日勤教育」はパワーハラスメントなどというレベルを超えている。企業による重大な人権侵害であり、その結果自殺者まで出し、さらにあのような惨事まで引き起こしてしまった。
われわれ日本人は、いよいよ戦後も引きずってきた「上下」ばかりに重きを置いたゆがんだ人間関係のあり方と、いよいよ決別するときが来たのである。
 
 
 
「改憲集会会場の女性たちへ」(2005.5.3)
 
今日は日本国憲法の施行記念日(1947年)である。「改憲」への動きはいよいよ増しており、今日も護憲、改憲両派の集会が全国で開催されている。
本来、「改憲」は文字通りの「改正」であるべきだが、そうではないのがこの国における「改憲」「自主憲法制定」と呼ばれる運動の実情だ。その運動の主体をなす人たちの本音は「復古主義」すなわち、「天皇(国王)主権」を旨とする戦前の大日本帝国憲法(明治憲法)への回帰である。もし改憲が真剣に論じられるのであれば、それはたとえば立憲君主制と共和制の選択、直接民主制の拡大、最高裁判所判事任命の際の国会の(全会一致による)同意など、より自由と民主主義、基本的人権が発展する内容でなければ意味がない。民主主義が社会・国家のシステムでなかった時代の憲法を規範にした改憲論など、不真面目極まりない、噴飯物の意見である。
 
それにしても不思議なのが、改憲集会に老若を問わず女性の姿を見かけることだ。もちろん、思想・信条の自由は憲法の保障するところであり、それがたとえ保守的なものであろうと、他人の権利や自由を侵さない限りそれは守られる。
ただ、いわゆる改憲派の本音が明治憲法への回帰にあるとすれば話は別だろう。彼らは1970年代までの初頭までは、その改憲案にはっきりと「天皇主権」を謳っていたのだ。
そしてその明治憲法の下、日本の女性がどのような状態に置かれていたかを、改憲集会に出席している女性たちは知らないのか、あるいは知ってても知らないフリをしているようだ。
明治憲法下ではもちろん、女性の参政権(選挙権、被選挙権)は認められていなかった。それどころか、結婚も自分の自由意志で決めることは認められておらず、財産の分与も長男が最優先で、そのあとの順位も男の兄弟が優先だった。
社会的な自由・基本的人権が大きく制限されていたのは男性も同様だが、女性は事実上社会的奴隷と同様の立場に置かれていたといってもいい。女性が高等教育を受ける機会は、現在とは比べ物にならないくらい低かったといっても過言ではないだろう。また、そもそも「男女平等」や「婦人参政権」の実現を訴えることじたい、社会が戦争に向かって突き進むと同時に、困難に、そして不可能になっていった。平塚雷鳥らの婦人権利運動はまさに命がけの活動だったのである。
身近な例で挙げれば、私の母は旧制女学校を卒業後、小学校の教師をしていたが、戦争の激化とともに家業の鉄工所が工員の徴兵などで人員不足に陥ると、祖父の命令で勤めを辞めさせられ、工員として働かされた。またあと半年で女学校を卒業する予定だった叔母も、教師が説得に何度も足を運んだにもかかわらず、やはり祖父によって学校を中退させられ、工場で働かされている。
こうした女性軽視の風潮は戦後も続いており、母よりも9歳年下のもうひとりの叔母は、高校でトップクラスの成績だったにもかかわらず、「女に高等教育はいらない」との祖父の一言で大学進学を断念せざるを得なかった。一方で、彼女より3歳年上の叔父は、学業劣等だったにもかかわらず、大学受験を許されたのである(もちろん不合格だったが)。この叔母は現在は米国に在住しているが、60を過ぎて現地の大学に入学し、一昨年卒業して現在は美術品修復の仕事に携わっている。この「60の手習い」が、少女期、理不尽な理由で大学進学を許されなかったことが動機だったことは言うまでもない(一方で、そうした理不尽な命令を子供に課した祖父も、また旧憲法下で「愚民」たることを強制された哀れな存在だったのである。彼は無学であり、家庭人としてはおよそ失格と言わざるを得ない人物ではあったが、一方で一流の鋳物職人として、その死後も人々に感謝され、尊敬を受ける仕事を成し遂げている)。

さて、改憲集会に出席する女性たちに問いたい。あなた方はそんな時代の日本に戻したいのですか?
むしろ奴隷でいたほうが楽なのですか? 選挙なんかどうせ行かないし、参政権なんてなくてもかまわないのですか? 
今朝のニュースで街頭インタビューを受けていた若者が、「護憲はなんとなくダサそうだから改憲」なんて言葉を口にしていたが、おそらく改憲集会に出ている女性も似たような感覚の持ち主なのだろう。いわばファッション感覚だ。だが、そのファッションは、やがて「ファッショ」へとつながっていくことを、ぜひもう一度(ちゃんとした)歴史の本を読んで学びなおしてください。そして、できれば来年は貴女方の姿が、改憲集会の会場からひとりでも少なくなることを、心からお祈りしております。

最後に、明治憲法が制定される30年以上も前、ゲティスバーグの戦場で、第16代米国大統領エイブラハム・リンカーンが語ったあの有名な言葉を紹介しておきましょう。
「Government of the people, by the people, for the people(民衆の民衆による民衆のための政府)」
 
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さて、このエントリーから1年が経過したが、世情はいよいよ悪いほうへどんどん傾いているような気がする。「郵政民営化」では参議院の議決を無視するような形で、「民意を問う」と称して解散・総選挙を実施し、300議席を獲得した小泉内閣だが、税金・年金・社会保険料など次々と国民負担を重くしながら、アメリカ軍の「立ち退き料」として数兆円もの税金・公的資金を投入し、それでは足りず「借金」までしようというのに、そんな莫大な税金の使い道の是非を、選挙で国民に問おうともしないのはなぜか? 民主国家では主権者たる市民は「Tax Payer」である。当然、その使い道は払っている側の意思が最大限尊重されなければならないし、その意思を確認するには総選挙を行なわなければならないのは当然なのに、なぜか憲法に何の規定もない「国の専管事項」であるとして、大多数の民意は無視されようとしている。
そんなことが民主国家たる日本において許されていいのか!!!
 
「朝日新聞」や「NHK」をはじめとする大マスコミは、どうやら「二大政党制」に日本を導こうとしているようだが、アメリカやイギリスの例ではっきりしているように、このシステムはもはや世界中で行き詰った政治制度である。イラク戦争に対するイギリス議会を例に挙げれば、政権党の労働党がイラクに軍隊を派遣し、最大野党の保守党ももちろん賛成だから、派兵に反対するイギリス国民には現在「選択肢」がほとんどないのだ。
 
だいたい、「価値観の多様化」が世界中で叫ばれている中で、たった二つの政党に主権者たる市民の意思を反映させることなど絶対に不可能である。朝日やNHKは「政治的混乱の象徴」にしたくてたまらないようだが、少なくとも「保守」「中道」「左翼」の政治的三極が同等の力を持つ三角形の政治勢力として存在しているフランス、ドイツ、イタリアのほうが、民主国家としてはよほどまともなのである。もちろん、政治勢力の多様化を認めながら、民主主義の精神と決して相容れない、暴力的独裁主義や人種・民族差別を信奉する「極右」「極左」を排除していかなければならない。「保守」は「右翼」であってはならないし、「左翼」は「過激派」であってはならない。そして、狂信的な宗教勢力の政治的干渉も当然排除されなければならないだろう。
 
日本の「二大政党制」なんてものは、アメリカの民主、共和両党ほどの違いも見られない、古~い自民党派閥政治の延長線上にある幻想、言わば「偽装二大政党制」である。だいたい、今から10数年前、現在の民主党党首はいったいどこの政党の幹事長だったか、もう一度思い出してみるべきだろう。

とにかく、税金の使い道に主権者たる国民が何の注文もつけられず、しかもその税金を取ることを話し合う「政府税制調査会」のメンバーが、1億円の豪邸に住み、年収数千万円で、恩給もたっぷりもらっている元国立大学学長の会長をはじめとして、まったく重税を科される痛みを感じていない人々の集まりというのも大問題だ。なぜ、「裁判員制度」のように、メンバーの最低でも半数を一般の国民から無作為に選んで、「取られる側の意見」を聞こうとしないのか?
そんな「主権者不在」の体制に何の「改革」もなされないまま、「改憲」など、とんでもない話である。私に改憲論があるとすれば、第1章と第3章の順番を入れ替え、その上で、現在の第1章第1条にある「天皇の地位・国民主権」を分割した上で、新たに「国民主権」を詳細に定めた条文を作成して第1章第1条とすることだ。そして第2条には、次の条文を付け加えたい。
 
第2条
「主権者たる国民は憲法に基づいて定められた法令にのっとり納税の義務を負うが、納めた税金の主要な使途については、中央政府・地方自治体とも、その首長・行政府・立法機関が、選挙による付託を理由に主権者たる国民の意志を無視して恣意的に決めることは許されず、たとえ首長や議員の任期中であっても、納税者で主権者たる国民から別に定められる法的手続き、異議申し立て、あるいは裁判によって支出方法に異議が唱えられた場合は、予算の審議及び執行を一時停止し、直接意思を国民に問う投票あるいは首長・議員の再選挙を行なうものとする。直接投票や選挙の結果、異議が過半数を占めた場合、その税金の使途はただちに中止・撤回されるものとする」


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5 コメント

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同意します (ADELANTE)
2006-05-03 19:58:44
仰ることに同意します。



現在、立花隆さんの「滅びゆく国家」を読んでいるのですが、保守的だとおもいこんでいた彼がここまでリベラルだとおもいませんでした。(と言おうか、世の中の軸がどんどんずれていっているのでしょうね)
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デモクラシーとは完成形にあらず (破壊王子)
2006-05-04 01:31:07
概ね正しいと思います。今女性から権利を取り上げるならば、それこそアメリカに日本攻撃の口実を与えかねません。



「民主主義をめざしての日々の努力の中に、はじめて民主主義は見いだされる」(丸山真男)

あえて聞きます。明治憲法=悪、現行憲法=善だけで切り分けてよいのでしょうか?明治維新で幕藩体制から藩閥政治、さらに立憲国家への移行期に全く民主主義がなかったわけではありません。途中経過を抜き出して、不完全、非民主的というのはフェアではないと思いますがいかがでしょうか?とはいうものの、アタシは無学につき、この件ただいま勉強中で、結論めいたものは出せないでおります。お恥ずかしい。

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時代を逆行させるな (ADELANTE)
2006-05-04 02:15:27
|明治憲法=悪、現行憲法=善



上田さんは、そういう単純な意味で書かれているとはおもいません。(時代には時代の要請と、そのときの状況や流れがありますから)



ただ時代を逆行させるな、と言われているのだとおもいます。
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憲法第9条はマッカーサーを欺いた「救国のトリック」 (ADELANTE)
2006-05-04 04:41:32
日経の立花隆さんのブログに「憲法第9条はマッカーサーを欺いた『救国のトリック』」というタイトルの興味深い記事が掲載されていましたので紹介します。



下記のURLをクリックされご確認ください。



http://www.nikkeibp.co.jp/style/biz/feature/tachibana/media/050517_futunokuni/index4.html
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破壊王子様 ADALANTE様 (Ryo Ueda)
2006-05-04 11:01:11
与党の某議員は、「国民的議論が沸騰する前に国民投票法を国会で成立させるべきだ」と公言していますが、これぞ笑止千万・本末転倒もいいところですね。国民的論議を沸騰させないで、改憲論もクソもないわけですから。小泉首相や石原都知事がその典型ですが、日本の政治家には最近「暴言」「放言」「妄言」は連発しても、きちんとした「ディベート」「論戦」「議論」が基本的にできない、苦手という人物が非常に目立ちます。まともに国会で野党議員と渡り合っていたのは中曽根首相が最後ではないでしょうか。



坂本龍馬の「藩論」に基づいて、由利公正や福岡孝弟らによって起草された明治政府の「マニフェスト」である「五箇条の御誓文」には、

一.広く会議を興し万機公論に決すべし

一.上下心を一にし盛に経綸を行ふべし

の条文が盛り込まれています。龍馬が幕末の志士の中でも特筆すべき存在なのは、当時の日本で「民主主義」を肌で理解していた数少ない人物であったからだとも言われています。その精神が明治政府の成立時には上記のように生かされていたわけです。そのことについては、戦後、吉田茂首相も日本国憲法の制定審議が国会で始まるにあたって、次のように語っています。

「日本の憲法は御承知のごとく五箇条の御誓文から出発したものと云ってもよいのでありますが、いわゆる五箇条の御誓文なるものは、日本の歴史、日本の国情をただ文字に現わしただけの話でありまして、御誓文の精神、それが日本国の国体であります。日本国そのものであったのであります。この御誓文を見ましても、日本国は民主主義であり、デモクラシーそのものであり、あえて君権政治とか、あるいは圧制政治の国体でなかったことは明瞭であります」

しかし、ADALANTEさんの仰るように、それは山県有朋らの超保守派によって権威主義、君主の神格化、そして「超格差社会」へと変質していくわけですが。



破壊王子さんが「明治憲法にも肯定的側面」があるというのは理解できます。確かにご誓文の精神が生かされ、反映されていた部分もあったわけですから。ただし、リンカーンのゲティスバーグ演説を引用したように、当時はアメリカ合衆国も、もちろん合衆国憲法も成立していましたから、憲法のお手本にしようと思えばそちらをお手本にできたし、国家間のつながりという点でも、日本にとってはドイツよりもやはりアメリカのほうが近い国家ではあったわけです。要ははじめに「君主制(主権在君)ありき」で憲法の草案作りが政府でスタートしていますから、ドイツ憲法を選んでしまったわけです。

忘れてはならないのは、戦前の日本というのは、どんな美辞麗句を並べ立てようと、その本質は「天皇」の権威をいただいたごく一部の政治家、高級官僚、職業軍人、資産家の利権に大多数の市民を奉仕させるためのゆがんだ国家・社会体制であったということでしょう。自由民権運動が盛んであったことを考えれば、当時の日本国民が「民主主義を使いこなせるほど成熟していなかった」とは私は思いません。

破壊王子さんが引用された丸山真男さんの言葉は待ったくその通りですね。先日NHKで放送されていた白洲次郎さんも、ほぼ同じような趣旨のことを生前仰られていたようです。そう、マッカーサーら泣く子も黙るGHQの幹部たちと堂々と「論戦」で渡り合っていたのも白洲さんでした。
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